サラリーマンジゴロ 水城遊吾
朝倉章子
第1話
【初めにお断り】この作品は、作者の趣味の為に書かれたものであり、売春行為を賛美・推奨するものではありません。R15でお願いします。
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ブルーのテーラードシャツと、読みかけのミヒャエル・エンデ、それを目印にしてください。それは、彼が初めての客への最終確認メールに必ず添える文言だ。彼の店代わりになっているホームページに顔写真は載せていないし、当然彼も、事前に客の顔を知ることはない。シャツとエンデは、彼と客とのいわば糸だ。水城遊吾、齢三十。艶めく色香と漂うような清潔感に恵まれたこの美青年は、今夜も一人、客を待つ。
待ち合わせのコーヒーショップは、夕食時だからと言うべきか、夕食時にも拘らずと言うべきか、程よい賑わいを見せている。水城はほぼ満席となっている店内で一人、マグをすする。今夜は訳あって、ブルーのシャツもなければミヒャエル・エンデも傍にはない。そのことが妙に無防備な気がして、彼はそんな自分に少し驚いた。客との待ち合わせにエンデを目印にするようになったのはこの半年ぐらいのことなのに、あれがないとすっかり弱気になるようになってしまっている。待ち合わせの目印にエンデの『モモ』を使おうと言い出したのは桜子だ。これからあなたのお時間を、ほんのちょっと泥棒しちゃいますよ、っていう茶目っ気よ。女って、そういうのに弱いんだから。桜子がそう言ってケラケラと笑っていたのが、遠い昔のことのようだ。彼は今夜の客のことを思い、一瞬帰りたいと念じていた。初めての客と会う時はいつもそうだ。ありていに言えば緊張している。もう長いことこの仕事をしているが、それでも初めて抱く女との初対面には心が臆病になる。彼女がどんな女なのか気になる。容姿よりも、どんな風に抱けば満足してくれる女なのかが心配で心配で仕方がない。
水城遊吾は男娼だ。金をもらって女を抱いている。店舗としての店は持っていないが、ウェブ上には彼の〝店〟となるホームページが存在し、彼と女たちをつないでいる。世の中には、金を払って女を抱きたい男が存在するのと似たような理屈で、代金と引き換えに男に抱かれたい女も存在する。その証拠のように、彼のホームページが参加しているウェブリンク集は同業者で溢れ返っている。そのほとんどが、彼のような店舗を持たない出張専門のフリーランスだが、中には渋谷や池袋あたりにマッサージ店として現実の店舗を抱えている店もあれば、多くの男性スタッフを手際よく回しているところもある。女性用のそういったサービスは実に多岐にわたる業態で存在し、密かに客を奪い合う現状がそこにある。水城の店〝Blue Blue Blue〟はそんな生き馬の目を抜く様な中で、常に常連や新規顧客で賑わっている人気サイトのひとつだ。
とは言っても、最近こっちの仕事増えすぎだよなぁ。
唐突に、そんな思いが頭を過り、再び桜子の顔が浮かんだ。思えばこっちの仕事の調子が良くなってきたのは、待ち合わせにエンデを使うようになってからだ。金を貰って女を抱くことに罪悪感はないが、ここまで大げさな商売にするつもりもまるきりなかった。それなのに、今では予約が一か月先までいっぱい。桜子とタッグを組むようになって、〝水城遊吾〟は彼自身が想像していなかったほどに大きく成長してしまっていた。元々は、自分の可能なだけの時間を、女たちのために割ければそれでいいと思って始めた商売だった。ホームページを持つつもりもなければ、今のように二日に一人の割合で客をとる予定もなかった。彼は時々、自分を必要だと言ってくれる女たちの数に戸惑うことがある。そして残念なことに、彼はその戸惑いを申し訳ないと思うことはあっても、迷惑だとは決して思うことはできない性分だった。
「水城、遊吾さん?」
声をかけられ、彼は物思いから引き戻された。そこには見知らぬ女が立っていて、強張った顔で、本日の目印となる若草色のスマートフォンを見下ろしていた。彼女が今夜の客だと確信し、彼は己の中の緊張と、不安と、桜子の面影をパッと手放した。彼はにこやかに微笑むと、軽やかに挨拶をした。
「初めまして、僕が水城遊吾です。お会いするの、楽しみにしていましたよ」
客の女は、僅かに目を逸らした。彼女の緊張を感じ、彼は更なる笑顔を作る。初めての相手と寝るのは、男にとっても女にとってもプレッシャーだ。それを和らげてあげるのも、プロの技の一つと思っている。
サラリーマンジゴロ、水城遊吾。その名にかけて、今夜も彼は、女に快楽と勇気を与える。
通勤電車が鮨詰めでなかったことは、当然として一度もない。サラリーマン生活も八年目ともなると、一度でいいから座ってみたいとか、せめてもう少し空いていればとか、そういう夢すら見なくなる。水城はいつものように、ガコンガゴンという音をどこか遠くで聞きながら、隣の乗客の吐いた息を吸い込んでいた。
地下鉄の駅を降りて地上に出ると、立ち並ぶビル群に四角く切り取られた青い空が、彼を睨むように見下ろしていた。銀座線京橋駅付近は、ほんの数分先の丸の内あたりとは違い、匂うように古びたビルが今でも立ち並ぶ、中古の見本市のようなオフィス街だ。水城は網目のように張り巡らされた路地の一つを曲がると、いつもの道をたどった。そして中古品の中でも、特に骨董品のような薄汚れた建物の中に、吸い込まれるように入っていった。
〝業務用厨房のパイオニア 谷川厨工株式会社〟
ビルの薄っぺらい看板には、ペンキの剥がれかかった今にも消え入りそうな薄い文字で、申し訳なさそうにそう書かれてあった。
谷川厨工の一階から三階までのフロアは、一応会社のメインとなっている工事営業部のフロアだ。それぞれのフロアにそれぞれ営業一部、二部、三部と入っている。一階のフロアの扉の向こうは、売り上げの六十五パーセントを占める会社の花形、営業一部のオフィスだ。水城はその扉をチロリと見た後、廊下の奥に向かう。そこには年代物のエレベーターが一基ある。彼はそれに乗り込むと、四階のボタンをひっかける。グギャングギャンという不穏な音とともに四階運ばれる。扉にある部署名は、
〝営業開発部〟
彼は溜息をつくと、その扉を開けた。
今日も今日とて、彼が一番乗りの出勤だった。と言っても営業開発の部員は彼を入れて四人。しかもそのうち一人は非常勤でもう一人は嘱託だから、会社に来ることはほとんどない。そこは、たった四人の部署には居心地が悪いほどだだ広い部屋だった。入って右側にデスク四つ分の小さな島が配置され、左側の隅のほうがパーテーションで仕切られただけのロッカールームになっている。彼は、桜子の姿がないことに僅かに苛立ちを感じながら、パーテーションの向こうに行こうとした。
「おっはよー、水城君」
その時、後ろからさも機嫌よさそうな声が響いてきた。大きな瞳に、少し吊り上がった目尻、ふっくらとした唇、流れるような黒髪に細柳のような身体つき。どこをどう切り取っても美人にしかならないこの女が本条桜子だ。水城は花も恥じらう桜子の笑顔を一瞥すると、挨拶もせずにロッカールームに姿を消した。
「不機嫌ね。いい男が台無し」
パーテーションの向こうから聞こえる桜子の声が、朝から不愉快だと言っていた。しかし彼は気にしなかった。今朝はきっと桜子以上に自分のほうが腹を立てている。
「誰のせいだと思ってるんだよ」
「何よ、私のせいだっていうの?」
「そうだよ。俺、散々言ってる。あんな風に突然仕事入れるの辞めてくれって。俺にだって都合ってものがあるんだからさ」
水城は、昨夜ブルーシャツもエンデの目印もなく会う羽目になった客の話をしていた。昨夜の客は、本来取る予定のなかった突発的な〝飛び入り〟だった。夕方ごろ、外回りの営業を終えて珍しく直帰しようと思ってたところに桜子から電話があった。もしもし? 今からどうしてもってお客さんがいるのぉ。今日一日、水城君外回りでなかなか捕まらなかったからさぁ、代わりに私がお客さんとの待ち合わせのやり取りしておいたから。今からメールで場所と時間の段取り送るね。あ、多分水城君、今日はブルーシャツもエンデも持ってないと思ったから、先方には緑色のスマホを目印にしてって、そう話しておいたから。じゃ、よろしく! 言いたいことだけを吐き出して、電話はプツン、と切れてしまった。
「あら、昨夜は予定でもあったの?」
「特になかった」
「じゃあいいじゃない」
悪びれる風でもなく言い放つ桜子に、水城は頭が熱くなった。
「あのさ桜子さん、客の相手すんのは俺なの、忘れてる? 相手とのフィーリングだってあるし、俺にだって心の準備ってものが必要なの、判るだろ? 常連なら三日前、いちげんさんは一週間前の予約。これだけは本当に守ってもらうよ。客とのメールのやり取りだって、必ず俺が直接するって約束だったはずだ」
言いながら、彼はパーテーションを出て仁王立ちになった。しかし桜子は涼しい顔でその脇をするっと通ると、今彼が出てきたパーテーションの中に姿を消した。
「ちょっと聞いてる? 桜子さん」
「ごめんごめん、悪かったわよ」
ロッカールームから、半ば投げやりな桜子の声が鳴った。
「でもさ、昨日のお客さん、どうしても昨夜じゃないと都合つかないっていうからさ。メールもすんごい必死だったし」
「客の都合も判るよ。でも少しは俺の都合も考えて貰わないと、この商売長く続けられないからな」
「じゃあ私はどうすればよかったの? 昨日のお客さん、ご主人から精神的な虐待を受けててたまらなかったって言ってなかった?」
水城はぐっと息をのんだ。確かに昨夜の客は気の毒な女性だった。ご主人の暴言に心から苦しんでいた。そしてそんな耐える日々が辛くて、一度主人以外の男を知って、自分を鼓舞してみたかったと切実に訴えられた。でも始終主人に見張られる日々にそのチャンスはなく、突然の日帰り出張が決まった昨夜を逃したら、もう二度と水城を利用する機会はなくなると思い、慌ててメールをさせていただいたのだと、何度も頭を下げられたのだ。
「俺はさ、中途半端に客の相手するのが嫌なんだよ。桜子さんだって、たった一回のメールだけで知り合った男となんか、寝たくないだろ?」
「相変わらずね、水城君」
次に聞こえてきた桜子の声は、どこかあやすような響きを持っていた。
「お客さんのこと、必要以上に大切にしすぎてるっていうかさ。そういうところ、あんたのいいところだけど、ちょっと深く考えすぎなんじゃないかって思う時があるわ。女はね、時として心や言葉がなくても、優しく触れてもらうだけで癒されることだってあるのよ。もう何度も言ったと思うけど」
言いながら、彼女はパーテーションから現れた。上着を脱いで、長い髪をシニヨンにまとめて、一本芯が通ったように立ち振る舞う彼女は、神々しいまでにOL然としていた。水城はしかし、怯むことなく彼女を睨みつけた。
「それは桜子さんの考え方だろ? 俺の考えは違うんだ。たった数回のメールのやり取りでも、ある程度客のこと知っておきたいんだ。触れるのだって、だた触れりゃいいってもんじゃないんだぞ。客って一言で言ったって、それぞれ背負ってるものが違うんだから。この商売、桜子さんが思っている以上に地味で奥が深いんだぞ」
「あー、もー、水城君ったら朝から熱くならない」
「とにかくっ、俺が客を取るのはブルーシャツとエンデを揃えられる時だけっ。これだけは絶対に譲らないっ!」
桜子は彼の剣幕に、思わず肩をすくめた。
「判った判った。女を抱くなら心から。それが水城遊吾の信条だもんね」
茶化されたと思い、水城は桜子から顔を背けた。彼女は口元だけ笑みを浮かべた。
「まあどっちにしても、水城君は女性に必要とされてるってことよね。結構結構」
桜子はそう言うと、水城の肩をぱぁんと叩いた。
「い、いたぁいっ」
「よしよし、生きてる証拠だ若者よ」
水城が睨みつけるのも目に入らないかのように、桜子はするりと自分の席に着き、事務の仕事に取り掛かった。彼は溜息をつくと、それに倣ってデスクについた。
こうして今日も、水城のサラリーマン稼業が幕を開けた。
谷川厨工はその名の通り、業務用厨房の施工販売を行っている中小企業だ。創業百十五年などと看板ばかりは古いが、その実は、京橋の片隅の今にも倒れそうな本社ビルをねぐらに、細々と生き続けるモズのような会社だ。モズはカッコウに托卵される。水城はこの会社がいつカッコウのような大企業に托卵され、乗っ取られても不思議はないと思っていたが、最近ではその考えも少しずつ改まってきていた。現在のタニチューには恐らく、托卵するほどの魅力もなければ価値もないだろう。現場の一線を離れ、会社を見通せるようになってやっと、彼は会社の傾き具合に目を向けられるようになっていた。
水城は新卒で入社して以来八年ほど、会社の中でも一応花形とされる工事営業一部で、それなりの活躍をしてきた。工事営業の仕事は主に、新しい店舗の新築時に入れる厨房部分の施工監督。だが、ただ現場で職人に指示を出せばいいわけではなく、施工主との日程や施工費用の折衝、機器メーカーとの卸値の交渉、果ては自社の設計部との打ち合わせや施工後の売り上げ協力までしなくてはならないという、なかなかに気力と体力を奪われる仕事だった。そんな中で、水城は客先にも納入業者からもすこぶる評判のいい営業だった。敏腕ではないがどんなことでもそつなくこなし、そして何より人当たりがいい。営業成績も相応によく、部内での評価も常に上位。社内でも社外でも、文句の付けどころのない社員だった。
そんな彼だったからこそ、半年前に工事営業一部から営業開発部への辞令が下りた時は、誰もが驚いた。
営業開発部は工事部と違って、実質的な売り上げはない。実際に工事を担当するのではなく、新規顧客獲得のための戦略的部署――と言ってしまえば響きはいいが、その実は、谷川厨工の姥捨て山だ。この部署には、大体定年間近で現場ができなくなった営業部員や、それでなければ仕事をさせるのに難はあるがクビにすることも出来ない若い奴らとかが大抵送り込まれる。要するに、使いどころのなくなった社員の最終廃棄処分所なのだ。
辞令を見た時、水城の頭は当然真っ白になった。自分がこんな目に遭わなければならない理由に、まったく心当たりがなかった。彼は困惑し、そして怒りを覚えた。しかしその怒りは次第に、ある不安へと変換されていった。
彼はその時既に男娼だった。工事営業部の仕事をしながら、金を貰って女を抱く商売を裏稼業として二年ほど続けていた。
稼業と言っても、きちきちの工事営業部のスケジュールに支配されてながらの副業なので、客をとるのも月にせいぜい二、三人といったところだった。客が水城を買うには、まずネットの出会い系の掲示板で、彼の名前を見つける必要があった。水城遊吾、三十歳、報酬次第であなたのささやかな願望をお埋めします。山手線沿線なら交通費は不要です――水城の募集スタンスはかなり緩いものだった。まあ、興味があるなら連絡してくれてもいいんですよ、という、その程度の。そんな募集で、金を払って自分と寝たいという女が現れるのは週に大体一人か二人。メールでやり取りしているうちに、やっぱり止めておきますとなる女がその内ほぼ半数。場所や時間、金額まで折り合った相手とは当日大体カフェで待ち合わせ、支払いを済ませてもらった後ホテルへと行く。彼は報酬に見合った分、女たちにサービスをし尽くす。男娼として身体を売っていることに抵抗はない。この仕事をしている自分にプライドも持っている。
だが同時に、一般的な倫理に照らし合わせたら、口外できるものではないのも充分理解している。もしこの副業がばれたら、自分は会社からも、人間社会からも放逐されてしまうだろう。この裏の顔は隠し通さなければならない。神様だろうと大明神だろうと、悟られてはならない。勿論会社の人間にも。
工事営業一部の連中の、腫物に触れるような眼差しに見送られ四階に移ったあの日、水城は、体中の血液がスライムのようにドロドロ化してしまったような不安に襲われていた。自分の中の疑念が、どうしても晴れなかった。まさか……まさかとは思うが、これはアレなのか? 俺の裏稼業に、会社の誰かが気付いたのか? それでの制裁措置なのか? お前のような恥知らずな男娼は、とりあえず姥捨て山で次の仕事を見つけろと、そういうことなのか? 俺は一体何をした? 会社にばれるような、どんなへまを働いたっていうんだ? 社用と私用の携帯は使い分けてるし、その上客とのメールは全部削除している。妙な履歴が残らないよう、会社の端末から掲示板を覗いたことだって皆無だ。それなのに……
そんなことを考えているうちに、部内の連中が自分を軽蔑の目で見ているような気分になっていた。彼は挨拶もそこそこに、逃げるようにエレベーターに乗り込んだ。
屈辱と疑念の配属先には、二、三度足を踏み入れたことがあるにはあった。水城は廃棄処分所と呼ぶに相応しい駄々広い部屋と侘しい島を思って、気持ちが鬱蒼となった。だが営業開発部の扉を開けた時彼を待ち受けていたのは、そんな朽ちかかったオフィスだけではなかった。
「ようこそ、水城君」
自分を待ち構えていたその姿に、彼は自分の目を疑った。
「本条さん……ですか?」
驚きのあまり、彼は荷物を落としそうになってしまっていた。目の前にある、デスクたった四つ分の島の一角に、女が座っていた。子犬のようなつぶらな瞳に鷹のように鋭い眼尻、風にそよぐ柳のような体つき。それは間違いなく、五階の総務部の本条桜子の姿だった。
「ど、どうしてここに?」
「今日から私も営業開発部員よ。よろしくね」
水城は、一度に状況を把握することができなかった。
一階にいた水城とほとんど接点はなかったが、そんな彼でも、彼女がどんな女なのかはよく知っている。いや、知っていなければタニチュー社員とは言えない。
谷川厨工の影の大統領。それは、タニチュー社員たちから彼女に贈られた輝かしい称号だった。美人である上に、総務部の仕事をほぼ一人で回している、京橋最強を謳われているOLだ。あらゆるOA機器やソフトに精通し、業者への支払いも顧客からの入金チェックも社員への給与支給さえ彼女を通さなければ滞る。そのうえ姉御肌で人望もあり、社長でさえ彼女には頭が上がらないという。その笑顔は一瞬でクレーム業者を黙らせ、行き詰った会議も彼女の一喝で潤滑になるという。彼女のような人材がタニチューのような傾きかかった企業にいるのは奇跡であり、また、タニチューのような小さな所帯で神とも皇帝とも崇められるのは必然であった。
そんな彼女がなぜ、営業開発に左遷された俺と同僚になるんだ?
社員の人事すら操作できると言われている彼女が、何故……?
「私たちの他に、部員は二人よ。非常勤の花山部長と、嘱託の須崎課長。まあ、二人とも滅多に会社には来ないから、気楽にいきましょ。あ、水城君のデスクは私の隣ね。更衣室はパーテーションの向こう。って言っても、私たちしか使わないから、まあそこは譲り合ってね。給茶機は古いけど、お茶っぱだけは五階からいいのくすねてあるから、気兼ねなく」
本条桜子は、歌うようにこのフロアのあれこれについて説明していった。身体中から花を放っているかのように機嫌の良い彼女に、水城はどうすればいいのか判らなくなった。
「本条さんは、何をしたんですか?」
思わず、そんなことを聞いていた。質問の意図が分からず、桜子は「ん?」と言って顔を覗き込んできた。
「いや、失礼を承知で聞くんですけど、ここ、営業開発部ですよ? 本条さんほどの人が、一体何をすればこんなところに島流しになるんですか?」
嫌な顔をされると思っていた。だが驚くことに、彼女は水城の質問を聞いて、くしゃりと笑った。
「別に、なぁんにもしてないわよ。ほら、先月さ、開発にいた若い子が二人辞めちゃったじゃない。それで花山部長からね、補充要員の要請があったの。閑職閑職って言われてるけど、新規顧客作るための部署だもの、潰すわけにはいかないでしょ? それでね、社長にお願いして、自分からここに来たの。社長は総務の仕事に穴が開くからって嫌がったんだけど、それなら会社辞めるって言ったら渋々承諾してくれてね」
水城は耳を疑った。
「そんなにしてまで開発の仕事がしたいなんて、どうしてですか?」
彼がそう言うと、桜子は、口元を引きつらせて水城を見た。
「開発の仕事っていうより、水城君と仕事がしたかったの。あなたを開発に引き抜いたのは、実は私」
「お、俺と? どうして?」
彼女はとの問いにニタァッと笑った。その悪魔のような笑顔を、水城は一生忘れないと思った。
「どうしてだと思う? 水・城・遊・吾さん?」
彼の背中を悪寒が走り、頭から血の気がざっと引いた。
水城遊吾。それは、親からつけてもらった名前とは別に、彼が男娼である自分に与えた名だった。
目の前の悪魔の笑みが、段々魔王のように見えてきた。何故知ってる? 何故その名前を? 彼は硬直した。息をすることさえ難しいと感じた。せめてこのまま気絶したいと思ったが、親からもらった丈夫な身体はうんともすんとも言わずにその場に棒のように立ち尽くしている。
「〝吾で遊べ〟だなんて、なかなか素敵な源氏名じゃない」
「な、何のことですか?」
「しらばっくれない。ネタは上がってんのよ。水城君さ、会社にも、って言うか誰にもナイショで、イケナイ仕事してるでしょ」
「ほ、ほんとぉに、何のことですか?」
わざとらしい水城の言葉に、桜子は手玉に取るように笑った。
「女の人からお金貰ってそういうことするのも、〝売春〟っていうのよね。でも何か、それじゃ感じ悪いから、水城君は自分のこと〝ジゴロ〟って呼んでいるのかな?」
「俺、そんなことしてません」
背中がヒリヒリ痛み始めるのをこらえながら、水城は言った。桜子は楽しそうに眉をしかめると、自分のデスクの引き出しからコピー用紙の束を取り出して、水城に突き付けた。鼓動が早くなった。そこに印刷されていたのは、彼がある客との間で交わしあった、メールのメッセージの数々だった。
「これは何ですか?」
彼は冷静にも、「どこでこれを手に入れたんですか?」なんて語るに落ちるようなことは言わなかった。だが、桜子は相変わらず魔王のような笑みを浮かべていた。
「見覚えない?」
「ありませんね、こんなの」
更にしらばっくれるのに、桜子は鼻を鳴らした。
「君さ、一度、会社で支給している携帯失くしたことがあったでしょ?」
思い出した。確かにそんなこともあった。一度東京駅で社用の携帯を失くしていて、駅の忘れ物届所から会社に連絡が入ったことがあった。その時彼はどうしても抜けられない大きな現場を受け持っていて、総務の誰かに、代わりに受け取りに言って欲しとお願いをしていた。
「あれね、取りに行ったの私なのよ」
「そうですか。それはありがとうございました」
水城は一瞬冷や汗をかいたが、すぐに気持ちを立て直した。〝客〟とのやり取りには私用の携帯しか使っていないが、あの紛失があった少し前に、私用の調子が悪くて、仕方なく社用の携帯で〝客〟と連絡を取り合っていたことがあった。だがたった一人だけのことだ。しかも受信メールも送信メールも、読んだその場、送ったその場で間違いなく削除をしていた。あれを読まれることなど、あり得るはずがない。
しかし桜子は、そんな彼の心を透視したかのようにククっと笑った。
「今、メールは削除したはずだとか、そんなこと考えていたでしょ」
水城は、思わず視線を泳がせてしまった。
「でも残念ね。あまり知られてないけど、削除したメールの復元なんて、復元ソフトがあって条件が揃えば、割と簡単に出来るのよ。勝手に復元して、プライバシーの侵害なのは判ってるけど、どうか悪く思わないでね。社長命令だったんだから。どこかでいたずらされて、顧客との大切な連絡消されていたら困るから、一応調べなさいってね。まあ、社長としては社員を信頼してるから、社員が社用電話を社用以外で使うだなんて毛ほども思ってないし、まさかそれで社員がジゴロの副業してるだなんて思ってないし」
頭の中が、真っ白だった。彼は手元のコピー用紙を一枚一枚見た。日時の打ち合わせ、報酬の交渉、その他要望にアフターフォローのやり取り、そこに書かれているのは、確かに見覚えのある客と自分とのメールだった。しかも彼が、この女性から金を受け取っていることを明確にしている文面まで。だが彼はそれでも、悪あがきすることにした。
「いやだなぁ、本条さん、辞めてくださいよ」
水城は、頭を掻きながら乾いた笑みを見せた。
「俺、確かにその女性から金は受け取りましたよ。でもそれはたまたまです。ジゴロの副業だなんて、人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。俺、〝遊吾〟ってハンドルで女の子と遊んでただけです。俺は女遊びが好きなんです。でもそれって、何かいけないことですか?」
「勘違いしないで、私、別にあなたを責めてるわけじゃないのよ」
突然、桜子の雰囲気ががらりと変わった。今まで状況を楽しんでいるように見えたのが一変、深く真面目な眼差しで水城を見つめていた。
「水城君、私ね、むしろ感動してるのよ。その女性、レイナさんだっけ? レイナさんからのアフターフォローの返信、心打たれたわ。涙が出そうになった」
言われて彼は、用紙をめくった。
レイナは、ヴァージンを彼氏からのレイプまがいのDVで失った女性だった。それ以来男性が怖くて受け入れられなくて、そんな自分を変えたくて水城に連絡を入れたと言っていた。彼女からのお礼メールは、水城への感謝の気持ちで溢れ返っていた。あなたに会えてよかったです。男性にも、優しい人がいるんだと、やっと理解できたような気がします。これからは勇気をもって、男の人ともお喋りしたりできそうです。本当に、本当にありがとうございました……
水城は、桜子を見た。彼女はどこか、誇らしげだった。
「私ね、そのメールを読んで思ったの。水城君には、女性を癒す、特殊な能力があるに違いないって。能力はね、他人の為に使うものよ。そしてそれで報酬を得るのは全うなことなの。だから私はあなたを責めない。あなたの秘密を他人にばらしたりもしない。あなたにはこれからも、堂々とジゴロの仕事をやって欲しい」
桜子の眼差しが痛くて、水城は顔を背けた。裏の仕事を、客でもない第三者に評価されるなんて、当然ながら初めてのことだった。彼は桜子を見ないまま、それでも「副業なんかじゃありません」と言った。
うつむく彼に、彼女は「やれやれ」という溜息をついた。
「そっか、まだ違うって言い張るんだ。なら、これでどう?」
彼女は徐に、自分のスマホを取り出した。そして慣れた手つきで操作した。
プルルル……プルルル……
どこかより近いところで、着信音がした。それが自分のポケットの私用電話だと気が付いて、水城は愕然とした。
目の前の桜子が、スマホに耳を当てたまま、ニヤリとしていた。
「どうぞ電話に出て、水城遊吾さん?」
「ど、どういうことだっ?!」
「私、ハンドルネーム、サクラ。今夜十九時、新宿駅で。目印は青いテーラードシャツ」
「サクラちゃん? 今夜、予約入れてくれたサクラちゃん?!」
彼は遂に語るに落ちた。目の前の桜子が、キャハハと笑った。
「案外簡単だったのよ、〝水城遊吾〟の書き込み見つけるの」
電話を切ると、桜子は言った。
「正直に言うとね、削除されたメールを見ただけじゃ、水城君がジゴロだって確信は持てなかったの。メールの文面からしてそうだとは思ったんだけどね。それで、ネットで検索して〝水城遊吾〟の正体を知ったんだけど、それがうちの社の〝水城君〟だって物的証拠が欲しくてね。だからちょっと、予約入れてみちゃった」
彼女はテヘっと笑って、肩をすくめた。この状況でなければ、可愛いと思えたかもしれない仕草だった。
水城の完敗だった。今まで誰にも悟られず細々と続けてきたジゴロ稼業もこれで終わりだ。いやそれだけじゃない。タニチューの女帝にこの秘密を握られて、俺は一体これからどうなるんだ……?
そう、がっくりと肩を落とす水城に、桜子は再び楽しんでるような笑みを見せてきた。
「ねえ、これで私があなたを営業開発部に引き込んだ理由、判ったでしょ?」
「いや、判んないっすよ、全然」
桜子の言葉に、しかし彼は気力なく答えた。言ってることが唐突すぎて、真面目に答える気にもならなかった。
「〝サクラ〟としてあなたとメールのやり取りしているうちにね、私、いくつか気づいたことがあるの。まず第一に、あなたのジゴロとしての時間は限られている」
「ああ、そうですねー」
工事営業部は現場第一の世界だ。顧客の現場が動き始めれば、水城たち営業のスケジュールも過密に、慌ただしくなる。〝サクラ〟ともそうだったが、現場の都合に合わせて逢う日を調整してもらったり、時間をずらしてもらったりを、幾度となく繰り返すのが常だった。そのため、〝客〟を取るのも月に二、三人が限界だった。
「第二に、あなたは時間の限界に後ろめたさを感じていて、きちんとした報酬の設定を今までしないままにしていた」
それもその通りだった。〝客〟の要望にはなるべく応えたいが、工事営業部にいる以上、時間だけはままならないことが多かった。それでこちらの都合に合わせてもらうために値引きなどを繰り返すので、基本的な報酬は設定しないままにしているのだ。
「だったら何だっていうんですか? 本条さんには関係ないし、開発に持ってこられる理由にもなりませんよ」
「とんでもない、理由なら大ありよ」
待ってました! と言いたげに、桜子は瞳を輝かせた。
「水城君、営業開発部はね、サラリーマンしながらジゴロやるのに、打ってつけの部署よ。土日は必ず休めるし、毎日ほぼ定時で帰れるし。しかも上司なんかほとんど来ないから、有給だって取り放題のサボり放題。これからはいくらでも〝客〟が取れるし、報酬だってきちんと決めることができるわ。おまけに私のサポート付きよ」
「は、はあっ?!」
水城は思わず変な声を出した。目の前の女が何を言ってるのかさっぱり判らなかった。
「一体どういうことですかっ?!」
「だからぁ、これからはもっとジゴロの仕事にも身を入れようって言ってるの。お客さんに予約スケジュールみたいなの開示して、報酬もきちんと設定して。そういうのの管理は私がするわ。得意だから。開発の仕事も、私ができるだけ肩代わりする。だから水城君は、何の憂いもなく外で女抱いてきてよ。あ、私へのマージンは報酬の一割でいいから」
「じ、冗談じゃないよっ!」
あまりのことに、水城は爆発した。
「俺は、確かにジゴロの仕事副業にしていますよ。でもね、そっちの仕事を大きくしたいなんて思ったこと、一度もないんですよ。自分にできるだけの範囲で女性の相手できれば、それでよかったんですよ! それなのにあんた、そんなことの為に俺から工事営業の仕事奪ったのかっ? 八年かけて築いた俺の実績ぶち壊しにしてくれたのかっ? 俺にだって、工事営業部員としてのプライドぐらいあるんだぞっ!」
辞令が出てからの悶々や鬱憤が、突然噴火した。裏の仕事にプライド持っているように、表の仕事にも誇りをもって挑んでいた。それを、こんな女の妄想の為に奪われたのか。この女の妄想に付き合わされて、閑職に追いやられることになったのか。ふざけるなっ、俺の人生を、俺の身体を、何だと思ってるんだっ?!
しかし桜子は、水城の怒りにも動揺しなかった。彼女は彼の喚きを静かに受け止めた。そして彼が吐き出し終えると、確かな口調で言った。
「ねえ水城君、うちの会社、時々中途採用の募集かけたりするけど、その度に、採用枠一人の席の為に、何人の人間が集まると思う?」
「知りませんよそんなの」
「八人から十一人」
怒りの収まらない水城に、桜子は言い渡した。
「うちみたいな中小企業でも、募集かければ入りたいって人間はそれだけ集まるのよ。勿論即戦力になれる人間なんて皆無だけど、その内の誰を採用したとしても、そのほとんどが数か月のうちに仕事を覚え、ある程度会社に貢献できる人材に育つわ。十一分の一の確率で採用しても、結果はほぼほぼ同じ。これってどういうことか判る?」
水城は答えなかった。今、二人が話し合っていることとどうリンクするのか、さっぱり判らなかった。桜子は僅かに口元を歪めた。
「会社の仕事なんて、代わりにやれる人間はいくらでもいるってことよ」
桜子の言葉に、胃の奥が重たくなったような気がした。
開発への異動を言い渡された時、彼の中にあった反発はそれだった。横暴だ、理不尽だ、あの顧客は俺じゃなきゃ噛み合わない。あの現場は俺がいないと回らない。工事営業一部には俺が必要だ――彼はそう、憤慨した。
だがしかし、実際にはそんなことはないのだ。彼が抜けた穴は、同僚や新人が抜けたその場から上手い事埋め合わせ、割と時間を要さない内に、穴があった形跡すらなくなり、誰もが穴があったことすら忘れ去ってしまうのだ。会社とは、そういうところだ。彼一人抜けたところで、替りはいくらでもいる。誰も困りはしない。そうしてどうにでも回ってしまうものなのだ。
うなだれる水城に、桜子は言った。
「水城君は、優秀な社員よ。それは社長も認めているわ。けどね、水城君にはそれ以上の能力がある。それは、会社の仕事とは違って、あなただからこそ持てる、発揮できる能力なのよ。そしてあなたの能力は必要とされている。この世には、あなたを必要としている女がいる。水城君、あなたはその能力を、一人でも多くの女性に還元すべきよ。私はね、あなたをサポートすることで、一人でも多くの女性を癒したいの」
彼はたじろいだ。桜子の口調はいつの間にか熱を帯びていて、うっかるしているとそれに巻き込まれる気がした。彼は熱心な眼差しを避けるように顔を背けた。
「買いかぶりですよ、そんなの」
「ううん、そんなことない」
「〝客〟を取ってるのだって。もしかしたらただの気まぐれかもしれませんよ」
「気まぐれで出来るほど楽な仕事なんて、この世にはないと思ってるわ」
「けど、そのために本条さんを巻き込むつもりはありません。これは俺一人の仕事です」
自分から手を引いて欲しくて、水城はきっぱりと言った。桜子の雰囲気が、またもや一変した。
「全くもう、カッコつけちゃって!」
彼女はあの悪魔のような笑みを取り戻した。彼女は彼の肩を突然パァンと引っぱたいた。
「い、いたぁいっ!」
「上等上等、生きてる証拠! まあとにかく、これからは私が面倒みてあげるから!」
――ということがあったのが、半年ほど前のこと。
以来、水城遊吾の仕事は、桜子のマネジメントの元、恐ろしいほど潤滑に回っていた。
神か悪魔か、とにかく何らかの見えざる手に回されているかのように。
閑職と言われている営業開発部だが、やることがないわけでは決してない。確かに定時には上がれるし休みも取り放題だが、決まり切った日程の中で動いている工事営業部とは違い、入札説明会で数日飛び回る日が続いた直後に膨大な資料作りの為数週間内勤が続くといった、どちらかと言えば不規則な勤務内容が多かった。桜子と一緒に開発部に配属されて、水城はまず、彼女のスケジュール管理の能力に驚かされることになった。彼女は営業開発部に関わる仕事を完璧に把握し、それを柔らかいバターをパンに撫でつけるような手さばきで水城と自分に振り分けた。勿論水城の分は、ジゴロの仕事をきちんと掌握しつつの管理だから恐れ入る。彼女のおかげというべきか、彼女のせいというべきか、そうして二人で開発の仕事をするようになって一か月後には、ジゴロの仕事は以前の五倍までこなせるようになっていた。
水城は自分の席で、んーっと背伸びをした。今日は朝からずっと、見積書を打っている。もうすぐ午後四時半。昼間のほとんどをデスクワークに費やすだなんて、工事営業部にいた頃は想像もしていなかったことだ。無駄に広いオフィスに電話が鳴り響く。桜子の手がさっと伸び、ベル音が止まる。
「はい、谷川厨工開発部でございます。お世話になっております……価格がやっと出たのですね。まあ、助かります――」
自分のデスクから桜子を横目で見て、水城は感心した。彼女はとても楽しそうに仕事をする。会社の仕事も、水城のサポートも、どちらも平等に。それが彼女の美点であるのは間違いないが、彼の中には、そんな彼女をどこか冷めた目で見ている自分も存在していた。
二人が今日から取り掛かっているのは、新規ホテル一軒分の仕事を取る為の入札見積もりだ。タニチューの顧客のほとんどはファミレスや個人経営の小さな飲食店だが、ホテル丸ごと一軒分となると、仕事の桁が違ってくる。ホテルには複数のレストランをはじめ、各フロアごとにはバンケットルームやバックヤードが存在する。それを全て手掛けるということになれば会社にとっては莫大な利益となり、また、業界での信用度も格段にアップする。水城と桜子は今、そのプレゼンのための見積もりを作成している。
まあ、この仕事を取れる見込みなんて、ほとんどないのだが。
ホテルほどの大口は、大抵メーカーも務める大手が攫って行ってしまうのは、この業界の常識だ。本来なら、タニチューのような傾倒企業など、入札権すらもらえるはずもなかった。水城は、この件に関して、非常勤の花山部長がお情けと長年のよしみで、辛うじて入札権を恵んでもらっただけなのを知っていた。花山部長は、社長よりも長く厨房業界にいるとかで、あちこちに顔が利くらしい。要するに、顔を立ててもらっただけの入札権で、もっと言えば、単なる年寄り孝行の産物なのだ。
開発の仕事はこんなのばっかりだ。取れるあてのないプレゼン資料に相見積。とりあえず〝厨房業界なう〟に手垢をつける為だけの仕事。つい最近まで、現場で本物の厨房を作っていた水城にしてみれば、これほど空虚な仕事などなかった。
「桜子さんさ、今の仕事楽しい?」
電話を切った桜子に、そんなことを聞いていた。
「今の仕事って、開発の?」
「うん。総務の仕事ってよく知らないんだけど、少なくても開発よりは実務的で、実が成ってる感があるんじゃないかなぁ、なんて」
「あんまり考えたことないなぁ、そういうこと。昔の私の所属は総務で、今は開発って、それだけよ」
桜子は、からっとした声で言った。
「それより、旧館のバックヤードの見積もり、まだかかってるの? もっとチャッチャとやっちゃいなさいよ」
「別にいいだろ。プレゼン再来週だし。それだけあれば全部終わるよ」
「ふざけないで。もうすぐ定時よ。他にやらなきゃならないことあるでしょ――ああっ、もうじれったいなぁ」
言うなり、桜子は水城のキーボードを取り上げた。彼女はとんでもない速さでキーボードに触れると、見たこともない怪奇な数式を、画面に向かって打ち込んだ。彼は唖然とした。彼が一日かけてやった作業が、桜子の魔法の手でたった十秒でカタがついていた。
「このぐらいの数式は常識」
キーボードからパッと手を離して、彼女は手をひらひらさせた。この人は、やっぱり開発にいるべき人じゃないなと、水城は改めて思う。自分のジゴロの仕事をサポートしたくてわざわざこの部署を志願したことを、彼女は後悔していないのだろうか。社内に、開発の仕事に期待している人間なんか誰もいない。そんなところにわざわざ所属している自分を、空しく感じたりはしないのだろうか?
そんなことを思いめぐらせているうちに、社内のチャイムが鳴った。
「よっし、今日もこっちの仕事は終了っと。お疲れー」
桜子はそう言うと、デスクのパソコンをサクッとオフにした。ここからがいよいよ、〝水城遊吾〟の時間だ。
「さぁって、今日も確か予約入ってるんだよね。待ち合わせは十九時だから、会社は十八時に出れば間に合うね。それまでにさっさと終わらせるよ」
「了解」
彼女に倣ってパソコンの電源を落とし、彼も少し気持ちを切り替えた。
桜子がデスクの下から取り出したのは、小さめのノートパソコンだ。これは彼女の私物で、曰く「水城遊吾の為に格安で用意した」とのことだった。薄くて白いボディで、端のほうにお洒落な桜のワンポイントが入っている。彼女が電源を入れると画面が命を吹き込まれたように明るくなり、プラウザを立ち上げると、月夜の海岸を背景にした、全体的に水色がかったロマンティックなサイトが表示された。
≪女性専用性感マッサージ Blue Blue Blue≫
画面の上のほうには、大きな飾り文字でそうサイト名が記されており、その下には、こんな宣伝文句が添えられている。
≪水城遊吾による快楽と癒しの世界にようこそ
リラックスした雰囲気の中で、貴女に、心で、身体でご奉仕します≫
画面いっぱいに展開されたホームページを見て、水城は何度見ても慣れないなぁと思った。このサイトは桜子が一人で作ったものだ。彼女は営業開発に配属されたその日のうちに、手打ちタグでこのページを作成し、そしてパッと公開してしまった。ジゴロの仕事をここまで仰々しくするつもりのなかった水城は、正直迷惑だと素直に訴えたが、桜子は聞く耳を持たなかった。私の目標はより多くの女性に癒しを与えること。その為にはまず水城遊吾を知ってもらわなくちゃ。突発的に掲示板に書き込むよりも、ネット上にきちんとした〝拠点〟があったほうが色々楽よ。集客も顧客管理もしやすくなるし――というのが彼女の言い分だった。サイトのコンテンツは「プロフィール」「サービス内容」「料金」「スケジュール」「ご予約フォーム」「お客様体験談」の六つ。そしてそのどれもが、桜子の管理下にある。
「やっぱこれ、恥ずかしいよ。俺のイメージってこんな感じなの?」
「今更何を言ってるの? 心配しなくても、あんたは間違いなく水も滴るイイ男よ」
桜子はフフッと笑った。
サイトのメールボックスには、未読メッセージが数件入っていた。手早く送り主のチェックをする桜子。
「今日のメールは新規の問い合わせが二件と、先週からの引き続きの問い合わせが三件、それに今夜予約の入っているお客様からも一件来てるわね。全部転送していい?」
「勿論」
水城がそう返事をすると、数秒も待たずにスマホが着信音を鳴らした。
彼が転送されたメールに目を通してそれに返信している間、桜子はノートパソコンで同じメールを自分用の管理簿にコピペする作業をしていた。客とのメールのやり取りをひとつの表にして管理すると言い出したのは桜子だ。サイトを立ち上げて以来、月に二、三人だった客は突然五倍に膨れ上がった。その分、客とのメールのやりとりはより頻繁に、複雑になった。問い合わせだけのメールも含めれば、水城のメッセージの作成量は以前の十倍以上になっている。桜子はただの問い合わせぐらいはこっちでもやると申し出たが、水城がそれを拒否した。〝彼女〟たちは水城遊吾と話をしてると思っているのだから、そこは誠意を示さなくてはならないというのが彼の考えだ。だが、突然メール量が増えれば、当然そこに混乱や行き違いが発生する。一度、ある問い合わせ客からのメールを無視してしまったことがあり、「返信が来ないのは、自分のような女は抱けないという意味か」という怒号のクレームを受け、水城も桜子も大慌てしたことがあった。それ以来、桜子は顧客管理を徹底するようになった。桜子のノートパソコンの「顧客管理簿」には、ただの問い合わせから施術まで及んだ全ての客とのやり取り、施術した場合の日時や出張先など、全てのことが記録されている。
新規の問い合わせ二件には、質問されたことへの回答。先週からの三件は、質問交じりのちょっとした雑話になった。水城は言葉を選びながら誠意を心掛け、その一つ一つに返信し、返信したものを桜子のパソコンにも転送する。そうして残されたメールは『今夜の予約の件』とタイトルのついた一件だけになっていた。彼はそれを読むと、少し驚いた。
『水城遊吾様
こんにちは、今夜七時から予約を入れているハルキです。
実は今日、会社に退職願を出してきました。今まで、いろいろ相談に乗ってもらっていたのに、申し訳ありません。水城さんが励ましてくれたのに、結局私は、会社に所属するには不向きな人間だったんです。
こんなことになって、なんだか水城さんにお会いするのが申し訳なくなってしまったので、予めメールさせていただきました。もしそれでも嫌でなければ会ってもらえますか?
ハルキより』
「桜子さん、ハルキさんとのメールの履歴って、すぐに出る?」
メールに目を通すと、水城は桜子に言った。
「ハルキさん? 今日のお客さんだっけ? 確かこの人とのやり取り、長引いたのよねぇ」
言いながら、桜子は管理簿を操作した。数秒後、桜子が画面を指し示すと、そこにはハルキと水城の往復メールが一語一句残さず表示されていた。
最初のほうは、ごくありふれた問い合わせメールだった。水城を利用したいのだがどうすれがいいのかとか、会ったその日に必ず施術をしなければならいのかとか。水城もそれにいつものように回答している。それが水城が何らかの切っ掛けで自分の本職がサラリーマンだと打ち明けると、話の方向性が一変していた。簡単に言えば、仕事の愚痴だった。私はOLをしているのですが、最近、会社にいるのが辛いんです。私の居場所はどこにもありません。私の存在意義って何なのでしょう? もう辞めたいです――そんな内容のメールが数回続き、彼はそれに根気強く付き合っていた。そして最終的には、特にこれと言った他意もなく、そんなに難しく考えないで、頑張ってみてはいかがですか? 良ければお会いした時詳しく聞かせてくださいね、という感じのメールで最後を締めくくっていた。
「頑張ったわねぇ、水城君」
同じく画面を覗き込みながら、桜子は呆れて言った。
「典型的なかまってちゃんね。会社辞めるだの辞めないだの、勝手にすればいいのに。要するにこれ、水城君に愚痴こぼせればそれで満足だったんじゃないの?」
「俺もそう思ってた。だから会った時には、そんな愚痴もまとめて抱ければいいと思ってたんだ。でも彼女本気だったみたいだよ」
そう言って最後のメールを桜子に読ませた。
「益々もって嫌な感じね。こんなこと、わざわざ水城君に報告しなくてもいいことじゃない。何だか、自殺したいって言ってる人間が、誰かに止めて欲しくて私は自殺するぞーって大声で叫んでるみたい」
「物騒なこと言うなよ」
「本質は同じよ。人生の一大事を、意味もなく他人に言いふらしているっていう意味じゃね。ねえ、相手もこう言ってることだし、気乗りしないんなら今日の仕事はキャンセルしてもいいと思うな」
水城は桜子を見た。彼女は僅かに心配そうな顔をしていた。彼は苦笑した。
「気が乗るとか、乗らないとかじゃないよ。俺を選んで予約してくれた以上、今夜会うよ」
「無理しなくていいのよ。ていうか、ちょっと嫌な予感がするわ」
水城は首を傾げた。桜子は溜息をついた。
「彼女、最初のメールでは、ただ〝自分を癒してあげたくて〟みたいな、他愛もない理由を言ってきたじゃない。それがさ、水城君が自分と同じ会社員だと知ると、突然人が変わったように愚痴こぼし始めてるわ。こっちが自分の話を聞いてくれそうな相手だと判ったとたん、まるでストーカーみたいにね。彼女、本質的に子供なのよ」
「本質的に子供でもさ、法的に成人だったら拒めないよ。サイトにもそう書いてあるじゃないか」
「それは確かにそうよ。ただ、こういう相手と一度向き合っちゃって、それに味しめられたら、しんどいのは水城君なのよ」
「しんどいかな? だってそれって、常連になってくれるってことじゃないの? 新規の客よりも常連の相手してるほうが俺も楽だし、言うほど悪いことじゃないと思うんだけど」
水城が不思議そうに言うと、桜子は柳眉を僅かに歪めた。そして水城の顔を見た後、画面のメールに視線を移した。
「ただ無言で会って無言で抱いてくるだけならそれでもいいのかもしれないけどね。でも、水城君はそうじゃないじゃない。水城君ってさ、お客さんの人格とか、下手すると人生まで背負い込んじゃうところがあるじゃない。実際、このかまってちゃんは、水城君を巻き込む気満々よ。自分の身体以外に情を移すなとは言わないけど、こんなやり方続けていって、いつか飽和状態になっちゃうんじゃないかって、それが心配よ」
桜子の言葉に、水城は少し気分が悪くなった。これは実際に客と寝ている自分と、後ろで管理しているだけの桜子だからこそ出てくる違いだと思っている。セックスは本来会話だ。会話は、お互いの人格を理解したうえでのほうが楽しい。金を払ってもらう客を心から楽しませるためには、相手の人格を自分に重ねるのは必要不可欠だ。そして人格を知る過程では、人生を知ることにだって当然なる。
水城は、無理に笑って見せた。
「大丈夫。金額以上に巻き込まれるつもりはないよ」
だが桜子は、歪んだ眉を元に戻そうとはしなかった。
「じゃあ聞くけどさ、このハルキさんが今まで以上に水城君に絡んでくるようになったとして、いつかもっと、人生の大事なことを相談吹っかけてくるようになったらどうするつもり? それこそ、本当に自殺ほのめかされたりとかさ」
桜子の顔に、冗談はなかった。水城はそれに答えなかった。彼は、彼女から視線を逸らすと、スマホに打ち込み始めた。
『ハルキ様
こんばんは、水城です。退職願を出されたのですね。こちらは特に気にしませんよ。本日、お会いして色々お話ししましょう。それでは楽しみにしています』
送信。
桜子は、やれやれとかぶりを振った。
「ま、そうするんじゃないかと思ってたけどね。じゃあもうすぐ六時だし、準備しよっか」
彼女はすっくと立ちあがると、顎でしゃくって水城をパーテーションに促した。水城は倣って立ち上がると、彼女の後をついて更衣室に入った。
「はい、今夜のブルーシャツ」
彼女は更衣室の隅にある引き出しから、クリーニングのビニールに入ったままのテーラードシャツを取り出した。引き出しの中には、全く同じブルーのシャツが、やはりビニール入りで何着か入れられている。水城は着ているものを脱ぐと、桜子から放られたそれに袖を通す。どこのクリーニング屋に頼んでいるのかは知らないが、身を包むたびに、柑橘系のさわやかな香りが立つ仕上がりになっている。
シャツを着こむと、今度はヘアメイクだ。水城はいつものように、更衣室備えつけの鏡の前に座らされた。
「今夜のお客さんは新規さんでOLさんだから、爽やかなイケメンってのを全面に出す感じにしよっか。なるべく顔を見せるようにして、厭味にならない程度に前髪作って……」
開発に配属になって以来、客と会う前の身だしなみは桜子の担当になっている。彼女はその日のお客に合わせて、水城をどんな男にでもすることが出来た。相手が経験の少なそうな女なら清楚でやさしいお兄さん風に、現実を忘れたがってる主婦ならホストっぽく、というように。
水城君は元がいいから弄り甲斐があるのよねー。桜子はそう言うのだが、水城は鏡の中の自分を見て複雑な気分だ。桜子をして「水も滴る」「色香の立つ」と言わしめる自分の容姿が、彼は好きではなかった。自分の顔はどことなく軽薄で、それで女性を騙しているような気がしてならないのだ。尤もそれも桜子に言わせれば、「イケメンのイケメンたる悩み」ということになるらしいのだが。
鏡の前に座って数分。水城は、初夏の風が吹き抜けるような好青年に仕上がっていた。
「うん、今日も上出来」
桜子は自分の仕事に満足そうだった。
「じゃあ、俺そろそろ出るね」
鞄にエンデを詰めながら、水城は言った。
「おおう、今夜もしっかり稼いでおいで」
「桜子さんは、まだ帰らないの?」
「私? 私は、ちょっとね」
言いよどむ彼女の口調に、彼は僅かに顔をしかめた。
「さあ、そんなことより行った行った。待ち合わせに遅刻するよ」
何かを言おうとする水城を、桜子は追い立てた。彼は成す術もなく入り口に追い立てられた。
「最後にさ、水城君」
オフィスを出る時、桜子に一瞬引き留められた。彼女は美しい顔を、彼の為に歪めてくれていた。
「本当に、金額以上に巻き込まれちゃ駄目だからね」
水城はそれにニヤリと笑うと、オフィスを後にした。
残された桜子はほうっと溜息をつくと、デスクに戻って再び会社のパソコンを起動した。
山手線のドアの脇に立ち、水城はどこを見るでもなく車窓の夕焼けを眺めている。オフィスで桜子とハルキの話をしていたことが脳裏を過り、そしてそれが、更なる過去へを彼をいざなっていた。
今夜は、美咲のことを思い出す日だ。
それは水城にとって、特別な名前だった。彼の青春の一片であり、忘れられない影であり、今の彼の重要な一部を形成している、透き通ってて質量のある柱だった。
美咲とは高校生の頃同級生として知り合った。小動物のように華奢な身体と零れるような大きな瞳を持った、能天気とも言えるほど底抜けに元気な女の子だった。水城は、この美人とは言えないが人目を惹く娘と十六歳で同じクラスになり、すぐさま意気投合した。最高の悪友だった。一緒につるんでくだらないことをするのが楽しくて、二人でいれば意味もなく笑って過ごせた。その関係は、美咲に彼氏ができても変わることはなかった。
美咲の彼氏は演劇部の先輩で、将来は必ず役者になるのだという情熱に燃えていた。美咲はそんな彼を愛し、そして彼の夢を愛した。誰の目から見ても魅力的な男だった。水城は「お前みたいなちんちくりんにあんな彼氏ができるなんて、世の中どうかしてるぜ」とからかい、美咲もはにかみながら「私もそう思う」と答えた。
やがて彼らは高校を卒業した。美咲は進学も就職もせずに、既に東京で貧乏役者生活を始めていた彼を追いかけて上京した。彼女は彼と一緒に暮らし、売れない劇団員である彼を支える道を選択した。定職に就かずアルバイトでい続けたのは、彼の小さな劇団の公演の時、裏方のボランティアをしやすくするためだった。彼らは同じ頃進学のために上京していた水城のアパートから電車で十五分ほどのところに住んでいた。水城は暇を持て余しては彼らの家に上がり込み、三人で酒を飲んだりした。女に振られて辛い時も、彼らの家に駆け込んだ。美咲が忙しくて会えない時は、SNSで二人の様子を知ることができた。彼の誕生日にハンバーグを焼いたんだと言って不味そうな飯の写真をアップすれば、当てつけんなコノヤローとムカムカした。今日は劇団の千秋楽だと裏方たちと一緒にピースしている写真をあげてくれば、それなりに上手くいってるんだと安心した。美咲は、幸せそうだった。
だが、その日は突然訪れた。
水城がタニチューに就職して三年ほどたったある晩、美咲から電話があった。彼女の声には覇気がなく、水城は不安になった。そして話を聞いているうちに、頭が真っ白になった。
「あいつが出て行ったって、どういうことだよ?」
『彼、就職して結婚するんだって』
美咲が何を言ってるのか、さっぱり判らなかった。気が動転する水城に、美咲は淡々と語った。実はだいぶ前から、彼には自分以外に恋人がいたこと。その恋人が、思いがけず妊娠したこと。彼は子供を養うために役者の道を諦め、地道に働くことになったこと。そして新しい家族の為に、美咲を捨てることになったこと。
水城は段々吐き気がしてきた。美咲の口調が冷静すぎて、本当の話というよりはドラマの台本を読んでいるようだった。
「それでいいのか?」
思わず、そんなことを言っていた。腹が立って仕方なかった。美咲を捨てる彼にも、彼の妻になろうとしている女にも、そして何より、美咲そのものにも腹を立てていた。
「お前、何そんなに他人事みたいに話せるんだ? 今まであいつを支えてきたのはお前じゃなかったのか? 許せるのか? 許せないだろ普通。てか、俺は許さねえよ!」
理不尽な思いが、そう叫ばせていた。だが電話の向こうの美咲は、静かにこう言っただけだった。
『仕方ないよ。赤ちゃんには勝てないもん』
その時水城は、美咲の透き通った笑顔が見えたような気がした。
美咲と電話を切った時既に夜中になっていたが、水城は眠れる気がしなかった。美咲のことがずっと頭の中にあって、いろんな思いがぐるぐると身体中を巡っていた。
美咲はあの彼と十七歳の時に出逢った。そんな少女だった頃から、全身を目にして彼だけを見続けてきた。彼女にとって彼は命そのもので、人生をかけて支えるべき存在だった。そして誰よりも、献身的だった。そんなあいつがこんな裏切りにあうなんて間違っている。そんなことあっていいわけない。美咲には彼が全てだったんだ。あいつには、あの男しかいなかったんだ。
それなのに、何であいつはあんなに冷静なんだ? なんであんなに穏やかに笑っていられるんだ? もっと腹を立てろよ美咲、怒り狂って泣き叫べよ美咲、お前はそうするべきなんだ、そうしなきゃいけないんだよ。あんな風に、全てを諦めているかのように笑うなんて、俺が許さねえよ。
水城は、心にひやりとしたものを感じた。
諦める……?
その時、水城は美咲と電話を切ったままの状態でスマホを握りしめていた。彼ははっとして電源を入れると、SNSを開いた。そして美咲のページをクリックすると、一番最後にこう書き込まれているのを見つけた。
『このページ、役に立つかな? → 』
矢印の先には、URLが貼られていた。そのページを開いてみて、水城は跳ね上がった。彼は身支度もそこそこに家を出ると、電車に飛び乗った。
揺られること十五分、ノロノロと進んでいるような気がして苛立った。美咲の家に着くと、彼は狂ったようにインターホンを鳴らした。美咲が迷惑そうな顔でドアを開けるまで、彼は鳴らし続けた。
「一体なあに? 何時だと思ってるの?」
現れた小さなシルエットに、水城は救われた気分になった。美咲が自分の前に立っていることが嬉しくて、切なくて、どうにもならなかった。彼は衝動的に、美咲を抱きしめていた。
「ちょ、ちょっとっ?!」
美咲は驚いて、身を捩って水城を引き剥がそうとした。だが彼は彼女を離さなかった。彼は、彼女の項に頬を寄せて泣いていた。初めは静かに、そして次第に押し殺すような声で。
彼女は彼の涙に気が付くと、身を捩るのを辞めた。彼女はしばらくそうして抱かれた後、彼を抱き返してきた。すがるように彼の背中を掻き抱く彼女もまた、涙を流していた。二人は長い間抱き合って、涙を流し合った。十六歳の頃から温めてきた友情が、それまで二人の間には存在しなかった熱に変わるまで、互いに抱きしめ合った。
二人はその晩、一線を越えた。
ことが終わった後、二人はベッドに仰向けになり、腫れぼったい瞼で同じ天井を見上げていた。嫌な沈黙が流れていた。
「お前さ、死のうとしてただろ」
しばらくの後、沈黙に耐えられなくなった水城は、天井を見たまま言った。『このページ、役に立つかな? → 』の後に貼られていたのは、自殺のためのマニュアルサイトだった。 美咲は自虐の溜息をついた。
「ごめん、心配かけて。私、酷いよね。私さ、あれを書き込みながら、あれを見た誰かが心配して来てくれるんじゃないかって、助けに来てくれるんじゃないかって、そんなこと考えてたんだ。本当に死ぬ勇気もないくせに。馬鹿みたい。私はただのかまってちゃんだ」
「お前がかまってちゃんでいてくれて、本当によかったよ」
心からそう思って、彼は言った。美咲は声を出して泣き始めた。彼はその嗚咽ごと、彼女を抱きしめた。
「ごめん、本当にごめんね」
「もう謝るなよ」
彼女の髪を撫でながら、彼は言った。彼女が泣き止むまで、そうし続けた。彼女の涙が悲しかったが、もっと泣けばいいと思った。泣いて、ほんの一瞬でもあの男のことを忘れることができるのなら、いくらでも彼女の涙を受け止められると思った。
「男と女って、こんなに簡単なんだね」
しばらくして泣き止んだ彼女は、そんなことを言った。水城は、彼女が自分たちのことを話しているんだと気が付いた。
「今までずっと友達だったのにさ、こんなに簡単に、あっけなく、男と女になれちゃうんだね。男と女って、単純だね。そしてびっくりするぐらい、くだらない」
彼は何も言わなかった。彼女の言葉は続いた。
「だからさ、私もう、死にたいだなんて思わないよ。だって所詮はこんなものだもん。こんなもののためになんか死ねない。こんなもののために、死んでなんかやらない」
「それを聞いて、俺も安心だよ」
彼女の決心の言葉に、彼はそういい返した。心の奥が痛かった。自分はたった今、美咲を失ったんだということに気が付いていた。
「私、就職しようかな。公務員になりたい」
唐突に、彼女が言った。
「就職はいいけど、何で公務員?」
彼が聞くと、彼女は恥ずかしそうに笑った。
「正確には、制服を着た公務員になりたい、かな。私さ、今まで〝彼〟にしか所属してなかったじゃない。それしかない人間だったじゃない。でもさ、男なんて、簡単に離れて行っちゃうってことに、やっと気が付いた。そうなったら私には何も残らないんだってことにもね。もう、そんなのが嫌なんだ。だから今度は何かにしっかり〝所属〟したいの。すぐにどっかに行っちゃわない、何かに。その点公務員ってさ、いかにも〝所属してる〟って感じしない? それに制服って所属のしるしって感じで、安心できる気がする」
美咲の理屈に、水城も笑った。彼女が前を向いているのが嬉しかった。
「でもさ、制服の公務員って何だよ? 看護師とかか?」
「理数系は苦手だな」
「なら警察官か?」
そう言ったとたん、美咲は瞳を輝かせた。
「警察官かぁ、それいいかも」
「おい、マジで言ってんのか? お前みたいなちびっこが警察官とか、笑わせんなよ」
そう言い合うと、二人は声を出して笑い合った。
そしてそれが、美咲の笑顔を見た最後となった。
美咲から手紙が来たのは、それからしばらくしてからだった。そこには、彼の名義であるあの家から出たことと、今、採用試験に向けて勉強していること、髪を短く切ったことが書かれてあった。手紙の最後には、助けてくれてありがとうと、記されていた。メールではなくて手紙だったことを不思議に思ってスマホを見てみると、メールアドレスも電話番号も「現在使われておりません」になっていて、SNSも削除されていた。こうして美咲は、水城のもとから姿を消した。
男と女なんて、セックスなんてくだらない。美咲はそう言って死ぬのを辞め、水城を一人にした。彼女が置いていったその言葉は、今日に至るまで彼の中で生き続けている。
セックスなんて、所詮は〝こんなもの〟。
でも〝こんなもの〟で救える女性は確かにいる。
俺は、美咲との友情と引き換えに彼女を救った。
救ったと、思っている。
もうすぐ電車は、待ち合わせの駅に到着する。
車窓に映る自分の顔に、美咲の面影がぼんやりと重なる。桜子が整えた髪形を見ながら、ショートカットの美咲が頭に浮かばない。
待ち合わせのカフェは、この時間帯独特の、不思議な賑わいを見せていた。昼間見れば暖かな間接照明も、どこか妖しくて背徳的で、水城遊吾にぴったりだと思った。彼は辛うじて空いている席を確保すると、飲み物を買い、ミヒャエル・エンデの適当なページを開けてテーブルに伏せた。今夜も無事、待ち合わせの十分前に到着することができた。
帰りたいなぁ。いつもの悪い癖が、一瞬出てしまった。ハルキは初めての客。どうすれば悦ぶのか、どうすれば満足させられるのか、ベッドに入るまで未知数だ。閨の形は男と女の組み合わせの数だけ存在する。それを限られた時間の中で模索しなければならないのには、長く男娼をやっていてもプレッシャーを感じる。
待ち合わせの時間を五分ほど過ぎた頃、水城のテーブルに女が一人、おずおずと寄ってきた。肩まで髪を伸ばした、小柄な若い女だった。
「ハルキさん、ですか?」
席に座ったまま、水城は言った。女はエンデを見下ろして、頷いた。
「水城遊吾さん、ですか?」
躊躇いがちに、ハルキは言った。緊張が伝わってきそうなほど硬い表情をしていて、水城のスイッチが切り替わった。彼は立ち上がって軽く会釈をすると、ハルキに優しく微笑んだ。
「初めましてハルキさん。ご予約ありがとうございます。お会いするのを楽しみにしていましたよ」
彼はそう言って再び座ると、ハルキを向かいの席に促した。小さなハルキはゆっくり腰を下ろすと、水城をちらりと見た後、俯いた。今日はいい天気でしたねとか、どこからお見えになったのですかとか、当たり障りのない会話をした後、水城は微笑みながらこう聞いた。
「どうですか? 僕の印象は?」
初めての客とのとっかかりを作るための、いつもの質問だ。ハルキはちらりと水城を見た。
「案外、普通の人なんですね」
小さな声で、彼女は言った。身体つきにぴったりの、可愛らしい声だった。
「もっとポストっぽい人だと思った? 失望させちゃったかな?」
「いいえ。普通の人で、ちょっと安心したっていうか……水城さんはかっこいいです。でも明るくて爽やな感じで、どこにでもいそうで……本当によかったです」
水城は「ありがとうございます」と言いながら、舌を巻いた。相変わらず桜子の読みは完璧だ。
「あの、昼間は変なメールして、本当に済みませんでした」
突然、ハルキは頭を下げてきた。
「私が仕事辞めたとか、辞表出したとか、そんなこと水城さんには関係ないですよね。それなのに……ごめんなさい。判ってるんです。私、ただのかまってちゃんだって」
「ううん、気にしてませんよ。かまってちゃんは僕の好物だから」
そう言って、水城はフフッと笑った。一度スイッチの入った水城は、自分のやるべきことを完璧に理解している。まず第一は雰囲気づくり。これから男を買おうという女には、僅かなためらいがあることが多い。それを、これからの癒しの時間を妄想させ、罪悪感を上回る期待を持たせることが大事。そして次に大事なのは、目の前の女をいとしいと思うことと、愛しいと思っていることを理解してもらうこと。自分があなたを抱くのはお金の為ばかりじゃありませんよ。あなたを心から抱きたいと思ってるんですよ。彼はそう、心と言葉で訴える。
彼は改めてハルキを見た。美人ではないが、緊張さえしていなければ表情豊かな、愛くるしい女なのだろうと思った。
「好物、ですか?」
「うん、大好物。だから今日は、何でも我儘言ってね。今夜はハルキさんのかまわれてちゃんになるために来てるんだからね」
そう言うと、ハルキは小さく笑った。笑ったと思ったのに、すぐに悲しい顔に戻ってしまった。
「もしかして悩んでる? こんなことしていいのかなって」
「はい、少し」
「そっか、それもそうだよね。すごく判るよ。でも僕は、これを悪いことだと思わなくていいと思うんだ。だってさ、こういうことしたいって思うのって、ハルキさんが健康で生命力に溢れてる証拠でしょ? それはね、とても素晴らしいことなんだよ」
水城はそう、言い聞かせるような優しさで言った。
「そう言ってもらえると、少しホッとします。私ずっと不安でした。水城さんには私がどう映ってるのかなって。お金でこういうことをしようとしている女を、水城さんは本当はどう思ってるんだろうって」
ハルキは俯いた。彼女の前髪が、儚く彼女の瞳を隠す。それを見た水城の中に、彼女の像がぼんやりと形作られる。
この子はきっと、とんでもなく真面目な子なんだ。何でも突き詰めて考えて、そのことで損をしたり、悲しんだりすることが多いに違いない。もっと肩の力を抜いて気楽に生きることもできるのに、そういう生き方を自分自身に許すことができないのかもしれない。要するに、自分を愛するのがへたくそな子。
「どう思うって、どういうことかな?」
水城は、少し甘えた声で語りかけた。
「僕の目の前にいるのは、ただの可愛い女の子だよ。どこにもでいる普通の子。ただちょっと、自分に厳しいのかな? 昼間のメール見た時から思ってたんだけどさ」
ハルキは少し驚いた顔をして、水城を見た。彼は苦笑して見せた。
「退職願出したことで、僕がハルキさんに会うのを嫌になるかも知れないって思ったんでしょ? 僕はそんなこと全然気にしないのに、どうしてそんな風に思ったのかな? 良かったら教えてよ」
踏み込みすぎだと言って、桜子が顔をしかめるのが見えるような気がした。だがこれが水城遊吾だと、彼は自分に言いきった。女を救えない男娼になど、存在意義はない。
ハルキはそれでも遠慮がちだった。だが水城が笑顔のままでいると、ためらいを吹っ切るような息を漏らした。
「水城さんは、どうしてこの仕事をしているんですか?」
「この仕事って、こっちの仕事のことかな?」
「はい。水城さんは、普段サラリーマンをやっているんですよね。こっちの仕事で稼ぐ必要なんかないのに、どうして続けているんですか?」
彼は驚かなかった。こういう質問をされるのは初めてではなかった。
「女の人の喜ぶ顔が見たいからだよ。僕は、女の人を喜ばせたり楽しませたりするのが大好きなんだ」
「それじゃあ、こっちの仕事は趣味ですか?」
疑問に対して無遠慮になれるのは、若い女の特権だ。彼はニコニコしたまま答えた。
「勿論、僕は好きでこの仕事をしているよ。でも趣味とは思ってないかな。だってそんなの、お金を払ってくれるお客様に失礼でしょ? サラリーマンの仕事と同じように、お金をいただく以上、自分をプロだと思ってやらせてもらってるよ」
その時、嫌な違和感が胸をついた。開発の仕事に従事したこの半年のことが流れるように蘇る。俺は彼女にこんなことが言えるほど、きちんとあの四階の仕事に向き合ってきただろうか?
そんな疑問が身体を過り、そしてすぐに去っていった。
ハルキが悲しそうな溜息をひとつついた。
「水城さんは、立派ですね。やっぱり私は水城さんに相応しくないんじゃないかって気がしてきました。私、水城さんと違って自分の居場所もないし、やることも見つけられないし、何にも所属していないし。こんな、水城さんに見合わない人間なのに抱いてもらおうなんて、なんだか自分が情けないです」
所属、という言い方が水城の胸に刺さる。彼は心をそっと覆い、新たに微笑む。
「退職願出したばかりの女の子は、男の人と寝ちゃいけないのかな? 僕はそんな風には思わないけどなぁ。それともやっぱり、男の人を買うって気が引けちゃう? 嫌になったのなら、そう言ってくれてもいいよ。でも自分が僕に見合わないからとか、そんな風に思って辞めるんなら、僕は嫌だなぁ。だって、こうして縁があって一緒にいるハルキさんだもん、別れる時は笑顔でいて欲しいじゃない」
ハルキは目を見開いて、水城を見た。
「まさかこんな話までしてくれるなんて、思ってませんでした。お金払って、することして、それで終わりなのかと」
「そんなことしないよ。それだったら、カフェなんかで待ち合わせしないですぐホテル行っちゃうよ。僕、女の人には心から気持ちよくなって欲しいんだ。だからね、いつもこうして〝面接〟してもらってる。僕に会って気に入らないんなら辞めてもらってもいいし、戸惑いとか不安があるなら拭ってあげたい。心が気持ちよくなきゃ、身体だって気持ちよくなれないからね」
水城は、頬を撫でるような優しさで言った。ハルキはほんの少し、瞳を潤ませた。
「私の話、聞いてもらってもいいですか?」
「うん、聞かせて」
彼は大きく頷いた。
それからハルキは静かに語ってくれた。
私、今の会社に転職するまで、ずっとアルバイトでした。アルバイトでも、自分の仕事にはそれなりにプライド持っていたし、きちんと生活できるだけ稼げていたからそれでいいと思ってたんです。でも、同棲していた彼氏はそう思っていませんでした。いつまでもバイトなんかやって、俺に寄りかかられてばかりじゃ困る。きちんと定職に就けって。好きな職場だったから、そんなこと言われたのがショックでした。今まで自分がやってきたことを否定されたような気がして。でも彼に嫌われるのも嫌だったから、仕方なくバイトを辞めて、正社員の職を探したんです。就職活動ものすごく大変だったけど、それでもやっと採用が決まって、私生まれて初めてOLになりました。けど……私そこで、先輩のOLさんたちに目をつけられちゃって……
本当に、些細なことだったんです。指サックの使い方が判らないとか、定形外郵便の料金を知らないとか。でも先輩たちにはそんなのがイラついて見えたんでしょうね。段々の罵られるようになって、仕事もまともに教えてもらえなくなって、無視されるようになりました。辛かった。私にだけお菓子が回ってこなかったり、ランチに誘われなかったり、目の前で大声で私の悪口を〝ひそひそ話〟されたり……辞めたかったです。けど、彼氏に見捨てられるのが怖くてそれも出来なくて……でもある日どうしても耐えられなくなって、彼に泣いて訴えたんです。会社でいじめに遭ってるって。もう辛いから辞めたい、行きたくないって。そう言ったら彼、私を社会のゴミを見るような目で見ました。そして言ったんです。お前は社会不適合者、社会人失格者だって。私たち、それで結局別れました。そして今日、会社からも逃げることに決めたんです。
ハルキはそこまで話すと、一息落ち着かせた。水城は冷めたコーヒーを一口すすった。嫌な酸味が口にの中に残った。
「初めに水城さんと会おうと思ったのは、もしかしたら水城さんも、私と同じようにどこにも所属していない人なのかもしれないって思ったからなんです。こういうお仕事している人だったら、会社にも、恋人にも所属することのない、一匹狼みたいな人なのかも知れないって思って。そんな人と一緒にいれば、今の宙ぶらりんでいる不安を少しでも紛らわすことができるかも知れないって。でも、本当の水城さんは、私と違ってちゃんと社会に所属する場所を持っているんですよね。そんな水城さんが今、とても眩しいんです。私なんかがお客になっちゃいけないような気がします」
水城の心が、痛々しい懐かしさにふと動いた。
「君は自分が嫌いなんだね」
少し悲しそうな顔を作って、彼は言った。
「彼氏と別れたばかりじゃそれも仕方ないけどさ、でも、所属しているとかしていないとか、そんなに大事なことかな? 僕は、ハルキさんはどこにいてもハルキさんだと思うよ」
ハルキは首を振った。
「大事なことです、女にとっては。所属しているって、存在の前提みたいなものなんです。仕事でも家庭でも、ただの恋人でもなんでもいい。自分が〝どこか〟にいるって確証がないと、女は生きていけないんです。だから今の私は、どこにもいないも同然なんです」
刹那、水城の脳裏に笑顔が浮かんだ。何かに所属したいと、彼の腕の中で決意を固めた彼女の笑顔が。自分のこの手で初めて救った女も、こんな風に思っていたのだろうか? 所属しないと生きていけないと、そんな風に思って死のうとしていたのだろうか……?
「ねえ、僕、どうかな?」
唐突に、水城は言った。彼がニヤリとしているのを見て、ハルキは首を傾げた。
「もし僕でいいなら、そろそろ場所を変えたいな。二人きりになって、もっとゆっくり君の話が聞きたいよ」
彼女の顔はが、緊張で引きつった。
「本当に、いいのかな?」
「良いも悪いもないよ。こういうことするのに、権利も条件も必要ないんだよ。僕のこと、眩しいって言ってくれてありがとう。でも僕は今、ハルキさんが眩しいよ。きっと今まで、いっぱい泣いていっぱい悩んできたんだよね。今夜は僕に、涙を拭く手伝いさせてくれないかな?」
彼女の目が、みるみる赤くなっていった。彼女はバッグの中をまさぐると、封のされた封筒を取り出した。そしてそれを水城のほうに差し出すと、押し出すような声で言った。
「お願いします」
カフェを出ると、外はすっかり夜の街になっていた。ネオンの雪崩が今にも襲い掛かってきそうで、足早な人ごみに流されそうになった。水城はその中、ハルキを連れてゆっくりと歩いた。彼女の心が硬直しているのが歩調から感じられ、それを愛おしいと思っていた。二人はにぎやかな一角から離れると、どことなく隠微な匂いの漂うブティックホテル街へ入っていった。いつもこの辺りで客を取る時に利用している、安くて静かなホテルがある。水城はその前まで来ると、ハルキを先に入れた後、自分もエントランスに踏み入った。
部屋は、ありがちなラブホテルの構造その通りだった。大きなベッドがあって、ソファーがあって、そしてバスルーム。彼は先にソファーに腰を下ろすと、ハルキに手を差し出した。彼女がその手を取ると、彼は自分の隣に彼女を誘った。彼女が素直に自分の隣に座ると、その肩をそっと抱いて、自分のほうに引き寄せた。
「とりあえず、キスしてもいい?」
ハルキは黙って頷いた。彼は触れるようなキスをした後、少し強引に彼女の中に自分を押し入れる。ハルキが小さくため息を漏らす。唇を放すと、彼女はトロンとした目になっていた。
「可愛いね、女の子は、こうしている時が一番可愛いよ」
「私が、可愛い?」
「うん。すっごくね。ハルキちゃん、大好きだ」
そしてもう一度熱っぽいキスをする。ハルキが自分の愛撫に溺れかかってるのを感じ、水城も高揚する。
「でもやっぱりちょっと、自分が情けない……」
「そんなことないよ。真面目に考えちゃう子なんだね、ハルキちゃんは。そんなところも可愛いよ」
言いながら、ハルキの耳朶をパクリとする。腕の中のハルキがびくりとなる。
「ひとつ、聞いて欲しいことがあるんだ」
耳のあたりを弄びながら、彼は囁いた。
「どこかの所属していないと不安っていうのは、僕にも判る気がするんだ。でも、そうしてないといけないとか、そんなことはないんだよ。もしどこかに所属して、それで君が輝けないなら、そっちのほうが意味がないよ。君は就職して、辛い思いをしたんだよね。もしかしたら、彼氏と一緒にいるのも息苦しかったんじゃないの? そんなものに自分を無理矢理縛り付けちゃ駄目だよ。君はもっと、自由に生きていいんだよ」
「自由に……」
「そう、自由に」
水城は手を伸ばす。彼女の胸元に。ブラウスのボタンに触れて、それらを器用にさばく。
「真面目ないい子だよ、ハルキちゃん。僕はそんな君に、いっぱい輝いて欲しいんだ。どこかに所属したいなら、ゆっくり、焦らず、輝ける場所を探してごらん。僕、精一杯応援するよ」
ハルキの胸元があらわになり、白い肌が鈍く光る。彼女は夢の中にいるような眼差しで、彼を見つめる。
「水城さん、優しいんですね」
「君がそうさせてるんだよ。気付かない?」
「ごめんなさい……こんなの、リップサービスだって判ってるのに、本気で嬉しいです……」
それは水城を非難するためではなくて、彼女自身を抑制する為の言葉だと、すぐに気が付いた。彼は彼女の唇を軽く吸った。
「意地悪な唇だね。僕はこういう商売してるけど、本当のことしか言わないよ」
彼はわざとらしく眉をしかめた。それは本心だと、心で強く思っていた。これから俺は、この女を抱く。金だけて結ばれたこの女を悦ばせる。セックスなんて、金でだって買えるもの。所詮はこんな〝くだらないもの〟。男と女はくだらない。どうしようもなく、くだらない。
でも、それでも信じている。
そんな〝くだらないこと〟で、伝えられることもあると。そんなことでしか、伝えられないこともあると。
かつて美咲に、「死なないで欲しい」と伝えられたのと同じように。
「頑張れハルキ。僕は君の応援団。フレーフレー」
おどけて、身振りを使って行ってみた。ハルキは初めて、楽しそうに笑った。
「少しは緊張、解けてきたかな?」
頬に耳朶に項に、キスの雨を降らせる。ハルキから甘い吐息が漏れる。指に指を絡ませると、力強く握り返される。
「今夜はね、自由になる為の練習。それと、これから頑張る君へのご褒美の先渡し。僕に何でも我儘言って。ハルキのして欲しいこと、どんなことでもしてあげるよ」
「聞いても、いいですか?」
熱を帯びたハルキの声が言った。
「私、どんな仕事向いてると思いますか?」
水城はハルキを凝視した。大きな瞳に、唐突に懐かしさを覚え、胸が高鳴った。彼は肩まで伸びた彼女の髪を後ろで一つに束ねて言った。
「お巡りさんとか、どうかな?」
ハルキはきょとんとして彼を見上げた。水城は苦々しく笑った。
「なぁんてね。どこに所属したいかは、自分で考えてごらん。きっとハルキらしい答えを見つけることができるよ。だから今夜は、僕に気持ちよくしてもらう以外のことは考えないで」
彼女はばつの悪そうな顔をした。
「ごめんなさい。それこそ、水城さんには関係ないことですよね」
「いいんだよ。でも、今質問してるのは僕のほうなの、忘れないで。ハルキは僕にどうされたい? 僕にどんなことして欲しい?」
触れる彼女の肌が、急激に熱くなった。
「一緒に、シャワー入ってください」
「いいよ。それから?」
「優しくして、ください……」
『水城遊吾様
こんにちは、ハルキです。先日はありがとうございました。水城さんのおかげで、久しぶりにとても楽しいひと時を過ごすことができました。
水城さんは不思議な方ですね。実は実際にお会いして抱いてもらったというのに、どうして水城さんがこの仕事をしているのか、未だによく判らないでいます。水城さんほどカッコよくて優しい人、他にはいないというのに。
でも、私はこんな形でも、水城さんに会えて本当によかったと思っています。水城さんと色々お話をして、抱いてもらって、勇気と自信がわいてきました。彼氏と別れて以来、私は自分が底辺の人間だって思うようになっていました。存在意義のない、価値のない人間だって。でも、水城さんがあまりにも大切に私を抱いてくれるので、もしかしたらそんなことないんじゃないかって、そんな風に思えるようになりました。感謝しています。
男にはまだ自信が持てないので、これから、仕事のほうに、自分の所属する場所を探してみようかと思っています。正社員でもアルバイトでもいいので、自分の納得できる仕事を見つけるつもりです。もし私らしい仕事が見つかって、そこにきちんと所属できるようになったら、また会ってはもらえませんでしょうか? きちんと立ち直ってるところを、水城さんに見てもらいたいんです。
私きっと、水城さんが好きです』
「嫌な予感、ズバリ的中ってところね」
スマホの画面を渋い顔でねめつけながら、桜子が言った。水城がハルキと会った次の日の晩のことだった。
「今回も結局、金額以上にお客さんの人生に踏み込んじゃったみたいね。彼女、間違いなくあんたに惚れてるわよ」
そう軽く睨みつけられて、水城はつまらなそうに顔を背けた。
二人の頭上には、東京のしょぼくれた星空が、申し訳なさそうに張り巡らされていた。地上の星座に負けて肩身の狭い、京橋の侘しい夜空。でも、そんなものしか見られなくても、谷川厨工の屋上は、二人のお気に入りの場所だった。タニチュービルのフロアには各階ごとに喫煙場が設けられているが、花山部長と須崎課長が吸わないため、四階には灰皿すら置いてない。桜子が水城遊吾の管理をするようになって以来、二人は煙草にかこつけて、時折ここで話すようになっている。他の社員には存在すらほとんど知られないないこの屋上は、水城遊吾の仕事の反省会をするのにうってつけの場所だ。ジゴロの仕事のない晩毎に訪れるようになっているこの屋上を、二人は〝背徳の喫煙場〟と呼ぶようになっていた。
「俺さ、時々桜子さんの考えてることが判らなくなるんだけど」
水城は、紫煙を吐きながら言った。右手からは、白い煙が一本、細くたなびいていた。
「桜子さんが俺のサポートするのって、一人でも多くの女性を癒したいからなんだろ? それなのに、どうして俺が女性に深入りするのに嫌な顔するのさ? ある程度感情移入しなきゃ、本当に癒すことなんか出来ないって前から言ってるだろ」
桜子は溜息をついた。
「だってあんた、ある程度以上のことしちゃうんだもん。ハルキさんの事情ってのは判ったわ。それを癒して応援したいって気持ちも理解できる。でも、だからってここまで懐かせちゃってどうするのよ? ハルキさんの人生全部を支えることなんて出来ないくせに」
「それはお互い判ってるはずだよ。俺は男娼で彼女は客。俺たちの間で金が動いた事実がある以上、そういう関係だってお互い割り切ってるはずさ。それが出来ないほど、俺のお客さんは子供じゃないと思ってるよ」
そう言い切る水城に、桜子は一瞬、困ったような顔をした。
「全ての女が、そう割り切れるんならいいんだけどね。女って、一度身身体を許すと心も全て許されるって、錯覚しちゃう生き物だもの」
「それだったら、俺のほうから一方的に割り切ればいいんじゃないの? 感情移入は料金込みのサービスってことで」
「じゃあ聞くけどさ、もしこのハルキさんが、いいえ、彼女じゃなくてもいいわ。あんたのお客になったことのある女の誰かから、これから自殺しますなんて連絡があったとしても、絶対に相手しないって自信あるのね?」
その問いに、水城は一瞬黙り込んだ。彼は再び紫煙を吐くと、呟くように言った。
「そうしたら多分、止めに行っちゃうんだろうなぁ」
「ほらごらん。だから過度に感情移入するなって言ってるの」
桜子の叱咤に、水城は悲しくなった。彼女のことは、信用しているし信頼もしている。彼女は約束通り彼の秘密を誰にも明かさないし、〝水城遊吾〟の管理を完璧にこなしてくれている。月の半分を〝接客〟に当てている彼が、それでも会社に居やすいように、陰で心を砕いてくれているのだって知っている。彼女がいなければ今の水城遊吾の仕事が立ちいかないのは明らかで、口にこそ出さないが、彼は心から桜子に感謝している。彼女は彼に必要な存在だ。
けど、そんな彼女とも、このことでは永遠に判り合えないんだろうな、と彼は思う。桜子は言う。言葉がなくても、肌を重ね合うだけで女は癒され、勇気づけられることもある。水城には、その能力がある、と。だが水城は、それだけで女性を癒すには限界があると思っている。彼自身はくだらないことだと思っていても、女の大半は、セックスを人生の重要な一部だと感じている。そんな女を抱くというのは、彼女たちの人生の一部を垣間見るのと同じこと。つまり、身体を重ねることそれ自体が、大袈裟に言えば女の人生を背負うことと同義なのだ。
それは例え、金だけで繋がった一夜限りの相手であっても変わらない。むしろ、金を支払ってもらっているからこそ、相手をしているその時間だけは、彼女の人生を一緒に見るべきだと思っている。
それが、水城遊吾の抱き方だ。
「で、そのメールにはなんて返信したの?」
「いつも通りさ。またのご利用お待ちしていますって」
「罪な男」
「だってジゴロだもん」
そう言って、水城は煙草を咥えた。喫煙は、桜子と組むようになってから嗜むようになった。だが、この〝背徳の喫煙場〟以外の場所で吸ったことは一度もない。だから水城が煙草を吸う姿を見たことがあるのは、桜子だけだ。
傍らの桜子が、自分のポケットから煙草を取り出して一本咥えた。
「水城君、火」
命じられ、彼は自分の煙草を咥えたまま、顔ごと桜子に差し出した。彼女は顔を近づけると、自分の煙草の先端を彼のそれに押し付けた。
二人の間で、桜子の煙草の先が赤々と燃え始めた。
「ああ、おいしい」
桜子は、しなびた星空に気持ちよさそうに紫煙を吐き出した。
「いい加減、自分のライター買ったら?」
「嫌よ、面倒くさい」
「俺がいない時はどうしてるんだよ?」
「水城君と一緒の時じゃないと吸わないもん」
呆れた桜子の言い分に、水城は肩をすくめた。
ほんの少しの間、二人の右手から上がる白い煙だけが、屋上の空に漂った。
「桜子さんはさ、俺をどうしたいの?」
屋上の静かな空気を破ったのは、水城だった。
「何度も言ってるけど、俺、この商売をここまで大きくするつもりなんかなかったんだ。自分のできる範囲で女性を楽しませることができれば、それでよかったんだ。桜子さんは俺にこの仕事させる為に、俺から工事営業の仕事を奪った。そして俺に女抱いて来いって言いながら、感情移入しすぎるなとも言う。はっきり言って、めちゃくちゃだよ」
屋上の暗闇に、桜子の微笑みが浮かんだ。
「目指すところは、多分水城君と一緒よ。多少の行き違いはあるかもしれないけどね」
そう言う彼女の笑顔が、なぜか悲しかった。彼は彼女から顔を背けた。
「目指すところなんて……言っとくけど、俺、そんな大袈裟な目標とか持ってないよ。俺はただ、今まで俺に関わった全ての女性に、幸せになって欲しいって思ってるだけだもん」
言ってみて、水城は自分の中に、ストンと落ちるものを感じた。そうだ、俺は彼女たちに幸せになって欲しいと思っている。幸せにすることは出来なくても、幸せになって欲しいと心から願っている。今まで俺の中を過ぎ去って行った女たち、彼女たちの幸せを、願わずにはいられない。
金だけで結ばれた多くの客たちの一人ひとりにも、友情を代償に救った美咲にも、
そして勿論、桜子にも。
桜子は水城の言葉に、苦々しく紫煙を吐いた。そして吸殻を落とすと、足でぐしゃりと揉み消した。彼女はそうして空いた右手を水城に差し出さすと、早くよこせという風にヒラヒラとさせた。
水城は同じように吸殻を落とすと、財布を取り出した。そしてそこから一番小さな札を二枚取り出すと、桜子に渡した。桜子はにかぁっと笑って「毎度ありぃ」と受け取った。
「さって、これでご飯でも食べて帰ろうか」
「その前にさ、聞きたいことがあるんだ」
彼は彼女に向き直って、言った。
「桜子さん、今やってるホテルの見積もりのことで、俺に隠してることあるだろ」
「なぁに? 何のこと?」
「しらばっくれるなよ。今日、ホテルの平面図を設計のやつに見せてもらったんだ。バンケットルーム、別館にも入ってるって、どうして教えてくれなかったんだよ?」
その言葉に、桜子は「あちゃー」という顔をした。
「嫌だぁ、何でばれてんのよ?」
「嫌だぁ、じゃないよ。どうして隠したりするんだよ」
「水城君の負担になりたくなかったからよ。水城君はこっちの仕事もあるし。どうせ取れやしない見積もりの為に、無理な残業させたくなかったのよ」
「そんな言い方するなよ」
水城はぴしゃりと言った。
「俺、見積りやるからな。見積もるからには、仕事奪いとるつもりで打つからな。そうじゃなきゃ、俺が開発に所属している意味なんてないんだから」
刹那、桜子は打たれたような顔になった。その眼差しは驚きに硬直していたが、水城に見据えられ、段々と瞳を細くした。
「よく言ったね、敬治」
呼ばれて、彼は何となく恥ずかしくなった。桜子のククっという笑い声が聞こえてきた。
「じゃあ、今夜は残業でオッケーね」
「勿論」
「手伝わせては、くれるのよね」
「お願い、桜子さん」
二人はそう言い合うと、ジゴロのミーティングをお開きにした。
京橋の片隅、谷川厨工の屋上は、今夜は晴れていた。
END
【補足】
・この物語はフィクションです。
・対価を受けて不特定多数の相手と性交渉を持つ行為は、売春防止法により罰せられます。
サラリーマンジゴロ 水城遊吾 朝倉章子 @aneakko
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