ラピス・ラズリィ 前日譚 ~母~

谺響

第1話

 誰かの怒りを体現するかのように、黒い竜巻が激しく渦を巻いて天を覆う。ガーネットは強い風にあおられるローブを胸元でしっかりと握り締め、歩みを進めた。

 目を背けるわけにはいかない。いつの日か村を襲うであろう災厄に備え、その脅威から村を護ることが彼女の使命だったから。だが今の彼女にとって、一族に代々受け継がれてきた使命と力も、戦う理由の一端に過ぎない。

 可愛らしい、何物にも代え難い愛娘が。

 まだ幼い、この世にたった一人の家族が。

 何も分からぬまま、自分の帰りを待っている。それ以上の理由はない。

 そして彼女は――母は、強かった。




 災厄を退けたあの日から、ガーネットは物思いに耽ることが多くなっていた。

 その日も軒下の長椅子に腰掛けて、昼下がりの空をぼんやりと眺め続けていた。

 村人たちは皆一様に再び見えた青空に喜ぶばかりで、ガーネットの胸の内など、知る由もなかった。

 ガーネットには、二つの悩みがあった。

 一つは、先の災厄との戦いで、想像以上に力を使ってしまったこと。

 災厄を退け、村を護ることは出来たが、そう遠くない未来に再び災厄が到来するのは確実なことのように、ガーネットは感じていた。その時に、誰が、どのように対処するのかは、いくら求めても解の得られない難題だった。


 災厄の黒石――


 ガーネットの胸元に提げられた、禍々しい色の石は、彼女の祖先が平和と調和と融和を願い、災厄を抑え、封じたものと伝えられている。人々がその災禍を忘れれば災厄は石から抜け出し、害を為すという。その伝承が本当ならば、つい先日に顕現し、村人達の胸にその脅威を刻みつけたばかりの災厄は、当面再来する恐れはない筈だ。だが、そんなお伽噺を鵜呑みにして楽観視出来るほど、今のガーネットは幼くはなかった。

 そしてもう一つの彼女の悩みは――


「お母さん!」


 呼び掛けられてガーネットは、我に返った。目の前では幼い娘が心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「あら、ごめんなさい。あんまりにもいいお天気だから、お母さん、ぼーっとしちゃってたわ。どうかしたの、ラピス?」


 ガーネットが微笑んで取り繕うと、ラピスは小首を傾げて母を見上げ、それからおずおずと言葉を紡いだ。


「あのね、目、つむって?」


 可愛い娘の意図は分からないが、ガーネットはその要求に黙って従う。


「そしたら、手、出して?」


 言われるままに両手を差し出すと、小さな手がその右手を取った。柔らかな感触が手首を包み、馴染み深い濃厚な香りが流れ込んできて、ガーネットは目を閉じたままで娘の意図を理解した。と同時に、幾つかの感情がガーネットの中から溢れ出てきた。


「目、開けてもいーよ」


 目を開けてみれば予想通り、手首にはラベンダーを結ったブレスレットが巻かれていた。


「あのね、お母さん、こないだから元気ないみたいだったから。元気の出るおまじない」


「……まぁ!」


 はにかんで笑う娘の笑顔を見ては、感嘆の溜息より先を言葉にすることは、ガーネットにはなかなか難しいことだった。


「……また、一人で村の外に出たのね?」


 その言葉ではっと思い出してラピスは目を瞑って頭を抱え、俯いた。

 森の向こうの、一面にラベンダーが咲き乱れる丘は、ラピスのお気に入りの場所の一つだ。しかし、村の外は危ないからといって、ラピスが一人で出掛けることは禁じられていた。

 その禁を破ったことを咎められると思って、思わず身構えてしまったラピスだったが、ガーネットが伸ばした手はラピスを罰するではなく、両脇を掬って抱え上げ、そのまま胸元へと抱き寄せた。


「そんなに心配させてしまって、ごめんなさいね、ラピス。ありがとう」


 ガーネットはラピスの顔が笑顔でくしゃくしゃになってもなお、その小さな頭を撫で続けた。撫でる毎に愛しい我が子からは誇らしげな笑みが、手首に連なる紫色の小さな花からは心安らぐ香りが、零れて止まないのだった。


「こんなにも優しいこの子に、どうか、多くの幸がありますように……」




 想ってくれる誰かが直ぐ側に居るのは、とても幸せなこと――

 それはとても単純で、ごく当たり前の真理だったが、ガーネットは長らくそれを忘れていた。ラピスはそれを思い出させた。まだ幼い我が子に教えられた。

 このことがきっかけで、ガーネットは一つの決断を下すことになる。その決意が実を結ぶのに、1年近くの歳月を要したが、想いは実った。

 ガーネットとラピスにもう一人、家族が加わったのだった。




 急に家族が増えることに対して、幼いラピスがどのような反応を示すのかは、全くの未知数だった。しかし、フタを開けてみれば心配するようなことはまるでなく、ラピスは喜んで妹を迎え入れた。姉らしく妹を思い遣る姿は微笑ましくも、頼もしい。立派な姉として振る舞ってみせるかと思えば、ガーネットが妹を構う姿に妬いたのか、昔のように夜な夜なこっそりと母の布団に潜り込んでくるようにもなった。それもまたガーネットにとってはどこか懐かしいような、それでいて少し新鮮な気もする、彼女の心をくすぐる喜ばしいものだった。

 むしろ問題は妹のラズリィの方で、とてもよそよそしく、消極的な子になっていた。消極的どころか、一つ一つのことに物怖じして、優しさや幸せといったものにまで怯え、それを素直に受け入れることが出来ない有様だった。ガーネットはそれこそ身を削る想いで心を砕き、胸を痛めて育てていったが、そうやってガーネットが必死になってゆくほど、ラズリィは閉じ篭っていくのだった。

 幼いながらにして他人の顔色を窺うことに長けてしまっていたのも、ラズリィの健全な成長を妨げる、大きなマイナス要素の一端だった。

 ある晩、ラズリィはガーネットの寝室に忍び込んできた。寝間着の裾を掴んだまま固まってしまったラズリィに、ガーネットは一緒の布団に入るように促したが、頑としてそれに応じようとはしない。いつも何かに怯えて縮こまっているラズリィが、その時は殊更小さく見えた。ベッドの上で体を起こし、手を差し伸べてようやく、手の届く所まで引き寄せることは出来たが、そこからラズリィの話を引き出すまでには、また少し時間が必要だった。ガーネットの手のひらが、ラズリィの頭の天辺から背中へとゆっくりと滑り落ち、ラズリィの心を解きほぐしてゆく。

 やがてラズリィは、ポツリと呟いた。誰にも聞いてほしくないかのような、消え入りそうな呟き声で、ガーネットへと問い訊ねていた。


「わたし、ジャマな子じゃない?」


 肩を震わせ、今にも泣きだしそうなラズリィに、ガーネットは問い返す。


「どうして、そう思うの?」


 優しく背中をさする手のひらに押されて、ラズリィは少し口ごもりながらも、今度は口を開くのにそれほど時間をかけなかった。


「……だって。あたしがいたら……ラピスお姉ちゃんが、おっ…………甘えられない、から……」


 幼いラズリィは、まだまだ母親に甘えたいラピスを慮り、遠慮していたのだ。気遣いだとか健気と呼ぶには、余りにも痛々しい。ガーネットは笑顔を崩さぬよう、締め付けられる胸の痛みに必死で耐えた。


「誰かを思い遣ることはとても尊いことよ。ラズリィは偉いのね。

 でもね、自分のことを蔑ろにするのは、絶対にダメ。

 誰にだって、愛される権利はある。

 誰もが、愛されて然るべきである。

 まずは自分を そして隣人を愛しなさい、ってね。

 あなたがあなたを愛さなかったら、私があなたを愛さなかったら、一体誰があなたを愛するの?

 例えお姉ちゃんや村の皆が――――いいえ、世界中の誰が何と言っても、それこそあなた自身が何と言っても、私はあなたを愛することを止めないわ。だって私は、あなたのお母さんですもの」


 そう言って抱き締めるガーネットの腕の中で、それでもまだラズリィはぐずって小さく呻いた。


「でも……ラピスお姉ちゃんは…………」


「だったら、あなたがお姉ちゃんに甘えられるようになりなさい。

あなた達は姉妹なんだから、お互いに愛し合い、満たし合えばいいと思わない?」


「あたしが、ラピスお姉ちゃんを……?」


「そう。きっといつの日にか、お姉ちゃんがあなたの助けを必要とする時が来るでしょう。あなたにしか、お姉ちゃんを支えられないこともあるでしょう。その時には、お願いね?」


 逃げ場のない温もりに包まれて、戸惑いながらもラズリィは小さく頷いた。まだどこかで心を引き摺っているラズリィの顔の前に、ガーネットの手が差し出される。


「約束、してくれる?」


 無言のまま、そこにラズリィから小指が絡められる。小さくも確かに繋がる感触は、それまで思い悩んできたガーネットの胸を十分に満たすものだった。




 ラピスは夏が来るのをずっと待ちわびていた。

 ラズリィは以前よりも幾分マシになったとはいえ、まだまだ内気で、遠慮がちで、気の弱い、姉の目から見ても心配の絶えない妹だった。

 しかし夏はやって来た。あの妹から不安を取り除き、勇気付けるとっておきの作戦を決行する日が、遂にやって来たのだ。

 結論から言えば、作戦は大成功だった。


「うわぁ……!」


 目を丸くして溜息を漏らすラズリィ。心を震わせる妹の横顔だけでも既に、ラピスは大いに満足できた。

 森を抜けた先に広がる、一面に紫色のカーペットを敷き詰めたかのような風景に、ラズリィは目を奪われていた。涼風が濃厚な香りを運んで来れば、思わず息を呑んでしまう。それはラピスもガーネットも始めて見る、ありのままの心をさらけ出すラズリィの姿だった。

 丘の上でラピスは妹に花のブレスレットの作り方を教えてあげた。ラズリィも必死になってそれに倣うのだが、何がいけないのかどうにも上手く結べず、すぐに解けてしまうのだった。結局その日はラピスが一人で3つ、編んでしまい、ラズリィは悔しそうに後日のリベンジを誓うのだった。




 愛があるから、見失ってしまうものがある。

 愛がなければ、見過ごしてしまうものがある。


 大切なことはすぐ目の前にあって、でも当たり前のようにそこにある。だから人はそのありがたさをつい、忘れてしまう。日々当たり前のように享受している、かけがえのないもので自分たちが包まれていることをどうか、忘れないでいて欲しい。災厄の黒石が災禍を忘れるなと戒めるのも、きっと同じことだ。

 笑いあう姉妹の傍ら、この笑顔溢れる景色がいつまでも続きますようにと、ガーネットはそっと祈るのだった。

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