3月15日―近藤―
最後の日記を書き終えてすぐ、力尽きたようにぐったりと気を失い……それからおよそ一週間の、昏睡状態ののち。
花をつけた勿忘草と、家族と、主治医の近藤と、食堂のメンバーと。
部屋いっぱいにベッドを囲んだ、たくさんの人たちに見守られ、
二十一の誕生日を迎える、数か月前のことだった。
「――近藤先生、ありがとうございました」
主のいなくなった部屋を片付けながら、目に涙を湛えた結花の母親が、近藤に向けて深々と頭を下げる。その腕の中で、畳まれた萌葱色のカーテンがふわりと揺れた。
「たくさんの人たちに、可愛がってもらって、見守ってもらえて。お葬式には揃って、見送りにまで来て頂いて。きっとあの子、最後までずっと、幸せだったと思います」
「……そう、ですね」
そうだといいんですが、と口の中で呟く。
医者として、もう手の施しようがない病に苦しむ彼女を、傍で見ていることしかできないのが辛かった。
それでも彼女は、覚えている限り――たった一度を除いては――いつも笑顔で、どんな環境にも感謝や気遣いができる、優しくていい子だった。
彼女の姿勢に、表情に、言葉に、どれほど救われただろう。繰り返される『ありがとう』に、『大好き』に、どれほど元気づけられただろう。
柔らかな声は、弾ける笑顔は、もう二度と還らない――……。
勿忘草を含む色とりどりの花、楽しみに読んでいた小説、病室で繰り返し聴いていたミュージックプレイヤー……結花が好きだったたくさんのものに、囲まれた仏壇。
その中心に飾られた写真は、いつか食堂で、施設の入居者とスタッフ全員が集まって撮影した時のものだった。その場の誰より弾けた、満開の笑顔。むしろ誰かを元気づける側じゃないかと思うほどの、無邪気さ。
そして、結花が生前姉に貰ったという、オレンジ色の膝掛けを纏った棺。中に納まる、まだ年若い彼女の身体は、その場に似つかわしくないほどのアンバランスさだった。
生前気に入りだった道具を使って死に化粧が施され、薬の副作用で髪の抜けてしまった頭には、正月に実家へ帰った時にしていたウィッグが被せられていた。
全身を蝕む癌が潜んでいたなんて、ましてやそれで今しがた心臓を止められたなんて、とても信じられないほど美しくて。すぐにぱちりと目を開けて、元気に動き出しそうなほどで。
それがなおさら、周りの涙を誘った。
余命の告知をし、この部屋で入院することになった時、彼女は勿忘草を育てると言っていた。
自分が体調の悪い時や、外出しているとき以外は、毎日自分の手で世話をして。手塩にかけて育てた花が、ようやく咲いた日の――近藤が最後に頭を撫でてやった日の、心の底から嬉しそうな笑顔は、今も忘れることができない。
いや。きっと、一生忘れない。
「これを」
結花の母親に、プランターを譲り受けた。ベランダに置いてあった、結花が育てた勿忘草だ。
「先生。あなたに、託そうと思うんです」
ベッド傍に常に置かれていた、植木鉢の勿忘草は、結花の実家が引き取った。母親は今後、結花と二人で住んでいたその家で、姉家族と一緒に暮らすという。
僕でいいんですか、と半信半疑に近藤が問えば、彼女はにっこりと結花によく似た笑みを浮かべて、
「あなただから、です」
そう、断言した。
その後、結花がいつも使っていたベッドテーブルに、大学ノートが一冊置いてあるのを見つけた。当然ながら使い古されていたらしく、あまり綺麗とは言えない。
それは、彼女がいつも書いていた日記だった。
これは家族が持っていた方がいいだろうと、結花の母親に渡したら、彼女は首を横に振って
「あの子は優しい子だった。だから、ここの人たちすべてにメッセージを残していると思うんです。もちろん、あなたにも」
ですから、先に読んでやってください。わたしたち家族は、最後に読ませて頂くので十分ですから。
いつになく強い語気と、結花を思わせるまっすぐな色合いの瞳を向けられ、近藤は思わずうなずいていた。
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