3月16日―食堂―
勿忘草と結花の日記を手に、食堂へ向かう。
そこには主である料理人のたまきと、自身も病気を抱える入居者たちがちらほら集まっていた。みんな、結花が亡くなった時に周りを囲んでその最期を看取った者たちだ。
分かっていたこととはいえ、まだ誰より未来があったはずの、ずっと年若い女性が先に亡くなったことに、少なからずショックを受けているのだろう。いつもにぎやかだったその場は、シンとお通夜のように――結花の通夜も葬式も、すでに終わったが――静まり返っていた。
普段は何らかの花を挿した花瓶が置かれており、今は何もない棚に、近藤があるものを置いた。コトリ、と何かの当たる音が、辺りの沈黙を破る。
「それは……」
たまきが呆然と呟く。つられてそちらを見た入居者たちもまた、驚いたように口々に声を上げた。
それは結花が育てた、勿忘草。
あの日、結花の母親から譲り受けたプランターの花を、近藤は小さな植木鉢に植え替え、施設の食堂に置くことにしたのだ。
鮮やかな、青色の花。無邪気な笑い声が、今にも聞こえてきそうで。
まるで、結花のようだ。
小さな青い花を見て、年若いあの女性を思い出したのだろう。辺りから、むせび泣くような声が次々と聞こえてきた。
「泣かないでくださいよ」
自身も涙をこらえ、近藤が言う。
「みんなが笑っている食堂が、結花さんは好きだったんです」
一緒に持ってきた、結花の日記を取り出す。たまきを筆頭に、回し読みが始まった。既に涙で汚れた顔の人々が、半ば群がるようにして、黙々と結花が残したメッセージに目を通す。
シンとした空間に、誰かの声が響いた。
「ありがとう、だなんて……こっちが、言いたいくらいなのに」
余命いくばくもない人間ばかりが集まるこの施設は、入居者みんなの仲がよく、明るくてあたたかい場所だ。
でもそれは、半ばただの仲間意識だった。いずれ死ぬ人間同士だからこそ分かり合える、同情のようなもの。
もちろん常に付きまとう死の影に、怯えて。どれほど執着してもなお、確実に近づいてくる余命に、絶望して。
どこか、投げやりに生きている者も多かった。
そんな中で現れた、自分たちよりもずっと年若い女性。ここに姿を現したということは、彼女もまた、残された時間が少ない末期患者ということで。
それでも彼女は――結花は、いつも明るかった。可哀想なんて、感じる暇さえ与えてはくれなかった。
あたたかく迎えてくれた入居者たちに感謝していると、日記には綴られているが、むしろこちらの方が感謝したいくらい。
明るく屈託ない笑顔に、辛かったときは何度も救われて。
そんな彼女と一緒に囲んで食べる食事は、ことさらに美味しかった。
それまでの食堂ではくだらない喋りが中心で、合間にただ栄養を取るだけでしかない存在だった食事も、三食健康的に楽しめるようになった。
入居者の一人が、結花より一足早く世を去った時には、その場にいた全員で悲しんだ。けれど誰よりも、結花が一番悲しんでいたように思う。
それまで、来たるべき時が来たのだとどこか冷めたように思うだけで、誰かが誰かの死を悼むなんて、そんなことは一度もなかったのに。
食堂の主である、たまきにとってもそうだ。
結花が来るまでは、ただ求められるがまま、患者のために淡々と食事を作るだけだった。手際が大雑把で早いのも、そのせいだ。
けれど、たまきさんの作る食事は格別だと、結花が言ってくれたから。
美味しいねと、心の底から嬉しそうに食べてくれるから。
たまきは自分に自信を持てるようになった。生田を始めとした弟子たちに対しても、まっすぐに接することができるようになった。
全部、結花のおかげだ。
いつしか食堂という場所が、そして結花の存在が、彼らにとっては大切なものになっていた。
何よりの、心の支えとなった。
そんな彼女がいなくなって、心に穴が開いていたけれど。
日記を読んで、彼女の存在が残っていることを実感して。
彼女の残した勿忘草に見守られながら、残された人生を今まで通り、楽しんで過ごすことができるような気がした。
「結花ちゃん、ありがとうな」
自分たちの前に、現れてくれてありがとう。心の、支えでいてくれてありがとう。
いつになるかは分からないけど、また、向こうで会える日が来たら。
たくさんたくさん、土産話を持っていくからね。
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