老婆の居たホテル

ダイナマイト・キッド

老婆の居たホテル

 2008年の冬頃。東京。寒い夜に彼女とお酒を飲んだ流れでホテルに入った時の話。

 週末のこと、あの一帯のホテル街は何処も満室で酔いが醒めれば興も冷めるとばかりに飛び込んだのが、問題の場所だった。


 新しく買ったばかりの黒地に白い水玉のワンピースに合わせた薄手のコートが良く似合う、背が高く顔立の整った黒縁眼鏡の彼女と手を繋いで街中を歩くのはいい気分だった。そのまま古ぼけたホテルのフロントに上がる異様に急な階段を上ってゆく。


 今思えば、この時の外観や古臭くて80年代からそのままなんじゃないかと思うようなカウンターに違和感を覚えるべきだった。


 部屋番号の釦を押すと、形ばかりの目隠しが施されたカウンターから皺だらけの手がすっと出てきて「どうぞ」という嗄れ声と一緒にルームキーが出てくる。ああ、店番してるのお婆さんなのかな。その時はそのぐらいに思って、さっさと鍵に書かれた番号の部屋を目指して、エレベーターを呼ぶ。ドアが開く。すると、中には何故かティッシュの山。

 エレベーターも古くて小さくて、がっちりむっちりの自分と背が高くて肉付きの良い彼女が二人で乗ればいっぱいなぐらい。このまま乗り込むと密着した腕の当たりに彼女の豊かで柔らかい胸の感触が心地よい。がしかし、お楽しみを前に気になるのは、その狭い床にこんもりとアリ塚のようになったティッシュだった。うわー……と思っていると彼女がフロントに駆け寄って事情を話しはじめた。ガチャッと音がして通用口が開き、奥からよぼよぼのお婆さんがゆっくりゆっくり歩いてきて

「あいすみません」

 と何度も詫びながら、ゆっくりと掃除をしてくれた。山盛りのティッシュを分厚いビニール袋に詰め込んで引き摺ってゆく老婆の後姿が、なんとも遣る瀬無くさせた。気を取り直してエレベーターに乗ると、一瞬照明が落ちた。ふっと真っ暗になり、すぐ復旧。パっと点滅した白い光が、彼女の黒縁眼鏡のレンズに反射してキラリと光った。

 オイオイ大丈夫か、と思った瞬間、また停電。今度は、フッ、フッ、と二度。掃除と一緒に消毒もしたのかツンと鼻を突く匂いがする。ボタンを押すとエレベーターは普通に動いた。かこん、と音がしてドアが開く。廊下に降りる、すぐ足元にティッシュの山……。もうあのお婆さんを呼びに行くのも面倒だし、無視して進む事にした。

 廊下も、これがまた暗い。明かりがちゃんとあるのに、古いせいか掃除が行き届いていないせいか、まるで廃病院のよう。在不在を示す部屋のランプはどれも消えていて、自分たちがキーを受け取った302号室だけがパカッ、パカ……と壊れかけたような音を立てて点滅していた。そのドアの足元に、またティッシュ。なんなんだココ! とアタマに来て、軽く足で蹴ってどかす。ごろ、と嫌な感触。なんかある。逃げるように部屋に入り、無理やりおどけてみる。

「なんだよーここ!」

「なんかヘンだよねー!」

 彼女も笑ってはいるものの、なんだか落ち着かなさそうだ。「もう今日はそんな雰囲気じゃない」とでも言いたげに早足で風呂場に向かってゆく背中を、とりあえず視線だけで追う。

 

 やがて蛇口をひねる音と勢いよく飛び出す水音が聞こえてきた。お湯を張っているようだ。このホテル、水は大丈夫なんだろうか。ドドドド、という音とホテルのお湯独特の匂いが浴室から漂ってくる。

 ふと目にした洗面所のラブホテル特有のデカい鏡。その向こう側に何かある。何かが変だ。気づいた時には遅すぎた。脱衣所のカゴの中身が、バスタオルではなく山盛りのティッシュ。

「げっ!」

 つい口に出てしまった。彼女が飛びのいて軽い悲鳴を上げる。

「何よもお……」

 そのまま勢い込んで壁のスイッチをぽんと押すと、ぐぶぐぶごぼおっ、と物凄い音がしてジャグジーのスイッチが入った。ごぼ……ごぼごぼ……浴槽に半分ほど溜まったお湯の中に、何かが浮き沈みしている。おや、と二人でじっとジャグジーを見つめた瞬間。

 

 どぼぉっ!!

 

 と凄まじい音がして、お湯の中に躍り出た大量の木屑。それも、赤黒く腐りきっている。いつから詰まってたんだコレ。こっちの驚きと恐怖にはお構いなしに、どぼどぼどぼ、と腐った木屑の溶け込んだどす黒い液体が溢れ出てきてバスタブを満たして異臭を放っている。焦げたような、錆びたような、とにかく不快な臭いが蒸気になって肺の奥まで染み込んでくるようだ。

 ギャアーッ! と叫んで、彼女が風呂場を飛び出した。そのままベッドに突っ伏して泣き喚いている。酔いも手伝ってか余計に気が立っているのだろう、宥めようとベッドに近づく。彼女の突っ伏した顔の真横。枕元の乱れたシーツに紛れるように……ティッシュの山。

「!?」

 声にならない驚きと怒りが気配になって彼女に伝わった。猛然と顔を上げ、

「こんちくしょう!」

 と叫ぶや否や左手でそのティッシュの山を跳ね除けた。ばさっ、と薄紙の舞い散る音にまぎれて、べちゃっ! と明らかに粘膜質の音がしてテレビの方に向かって何かが跳んで行った。どす黒い、もとは素肌の色だったであろう何かが。大きなテレビの画面に、それはしっかりと張り付いていた。半分腐った人間の耳だった。初めはなんだかわからない腐肉の塊に見えた。だけど、思わずじっと見たせいでハッキリわかってしまった。

 

 待てよ。

 

 という事は、今まで見てきたティッシュの中身って……風呂場に目をやるのと同時に、半狂乱になった彼女が再び駆け出して風呂場のカゴに盛られたティッシュを掴み撒き散らした。その指と指のあいだをすり抜ける紙屑は赤黒く染まり、中からボトリと何かが落ちた。……鼻?

 ぞおっ、と背筋が寒くなる。遅すぎた。ココは駄目だ。早く逃げよう! そう思ってドアの方を見ると、彼女が真っ青を通り越してどす黒い顔をして呆然と立ち尽くしていた。

「早く出よう!」

 そう言って手を掴んで走りだそうとしたら

「嫌! イヤ! いや!!」

 と凄まじい力で抵抗する彼女。何故?こんな恐ろしいところ、一刻も早く抜け出さなくては

「ドア! 外! アレ何!?」

 思い出した。この部屋に入る前に蹴飛ばしたアレ。あのティッシュの山の中には、いったい何が……。気が付いてしまうと途端に怖くなってきた。アレが今、あのこんもりとしたチリ紙の山をかき分けて姿を現し、ドアの外で待ち構えているようで。

「でも」

「嫌!!」

 ラチがあかない。だけど、やっぱりココには居られない。どうしよう、どうしたらいい!?

 ……そうだ!内線で助けを呼ぼう!この際、あのお婆さんを酷使する事になっても致し方ない。というか、むしろ被害者はコッチじゃないか!

「で、電話!」

 漸く上ずった声でそれだけ叫ぶと、彼女が電話機に飛びついた。焦っているせいで幾つかのボタンを叩いた後、漸くフロント直通のボタンを強く押した。受話器を顔に押し付ける手が震えている。プルルルル、と大きな音が室内に鳴り響く。一瞬、背骨ごと飛び跳ねるほどビックリしたが、スピーカーボタンを押してしまったらしい。だけど、それを言いだしたり電話を掛け直すような余裕など無かった。出ろ、出てくれ、電話に出ろ! 実際には数コール、わずか10秒も無かった時間が、まるで1時間も2時間も経ったように感じた。ガチャ「あー?」

 予想に反して如何にも気怠そうな、若い女の声が部屋中に響き渡った。彼女が鼻声を絞り出す。

「あの、この部屋、なんかヘンなんですけど!」

「はあー?」

 不快極まりない声が古いスピーカーでビリビリ震えている。

「其処ら中にティッシュがあって、ジャグジーからゴミが」

「えー意味わかんないんですけど」

「あの」

 ガチャ、ブツッ。

 切られた。オイオイ、どうなってるんだ。呆気にとられていると彼女が静かに、しかしさっきよりもぐっと力を入れてボタンを押した。

「オイ! 人の話聞けよ! このホテルどうなってんだ! ふざけんな!!」

 今度はオンフックにならず、彼女は受話器に向かってありったけの怒鳴り声をあげた。

「あっ、はい。あの、あ、お願いします」

 急に語気を下げた彼女がそっと電話を置いて力なく振向いた。

「お婆ちゃん出ちゃった」

 だろうと思った。

「掃除に来てくれるって。その時にひとこと言って帰ろっか」

「そうしよう」


 しかし、待てど暮らせど老婆は来なかった。

 一度落ち着いてしまうと、なんだか余計に不気味さを感じてしまう。部屋のカギは閉まっていて内側からは開かない。もうかけてみようか、と受話器を上げてボタンを押すが、今度は老婆も若い女も出ないどころか電話が何処にも繋がっていない。ただ無音が聞こえてくるだけだ。発信音もノイズもない。受話器の向こう側には、まるで何もかも消滅してしまった真っ黒の空間だけが広がっているみたいだ。

「どうしよう……」

 そう言いながらベッドのふちに腰掛ける彼女の隣へさりげなく座ってみる。当分出られそうにないし、不安と焦りを悟られまいと肩に手を伸ばす。すと触れるか触れないか、という瞬間に彼女は立ちあがった。釣られて立ち上がったついでに軽く体を抱き寄せた。さしたる抵抗も無く胸板に顔をつけた彼女の髪の毛から、乾いた汗と女の子特有の甘い匂いが交じり合った空気が立ち上ってくる。そのままおとがいに手を差し込み、顔を近づけると


「しないよ」

 

 とひとこと。

 しないのか。そりゃそうか。

「ねえ」

 おっどうした?

「こんな時にごめんね、実は」

 うんうん。

「……怒ってる?」

「ん? い、いや!? どうしたの? 大丈夫だから言ってご覧」

「あの、あのね」

「うん! なあに?」

「お……おしっこしたい」

「へ?」

「おしっこ……」

 彼女は俯いて、ポツリと呟いた。確かにこんな時にだが、あの狂乱状態が収まってしまった今になって、たらふく飲んだ酒が分解されつつあるのだろう。

「あ、そうなの? 行っておいで……よ」

 と自分で言いかけて俯いた。この状況、あの風呂。トイレに何が待っているかわかったもんじゃない。彼女はいち早くそれに気づいてしまい、さっきからずっと尿意を堪えていたのかも知れない。

「飲もうか」

「バカじゃない」

 割とホンキだったのだが。

 彼女はそのまま背を向けて玄関に向かった。落胆と後悔で項垂れていると、ガチャリと太い音がして彼女が快哉を叫んだ。

「開いたよ! ねえ、開いてる!」

 あれほど嫌がっていたのに、今度はアッサリ出ようとしている。この期に及んでもなお怖いのと残念なのが半分ずつ渦巻いてずっしり重たくなった頭を上げて、ベッドから立ち上がった。


 重たい色をした絨毯が砂漠のように延々と広がっているように思えた、狭い部屋。その絨毯の色が心の動きを表しているようで。玄関のドアを少し開けた彼女がそーっと廊下を覗いている。思えばあまりに静かだ。ありがちな有線放送も空調の音も聞こえない。

 

 ィイ。

 イヤーな音がしてドアが開かれた。足元をゆっくり見る。白くこんもりした山。ティッシュの塊が、まだある。中に何が入ってるんだろう……とフト気になってしまい、白い紙と紙の隙間に目が行ってしまう。さっき蹴飛ばしたせいで捲れ上がった、その隙間から覗いていたのはどす黒く膨れた人間の手首だった。

「うわぁーっ!」

 僕の悲鳴を合図に二人して廊下を転がるように走った。剥き出しの白すぎる蛍光灯がブン、と嫌な音を鳴らして点滅を繰り返す。如何にも安っぽい装飾が過剰に施された客室に比べて異様なほど無機質で素っ気ない設えの通路は所々が薄暗く饐えたような匂いがした。古い病院の様な薄緑色のつるつるした床がところどころ剥げて黒茶けた地肌を見せ、そこに薄っぺらく色褪せたエンジ色のカーペットが敷かれている。その廊下の幅に比べて狭いカーペットの上にはティッシュの切れ端が点々と……。もうティッシュなんか見たくも無かった。だけど、足が止まらない。そのまま走り続けると、ティッシュはエレベーターのドア前で途切れていた。

「……」

 もう声も出ない。行きのエレベーターの中には特大のティッシュがあった。あの時、老婆が片付けてくれた事も今となっては何の気休めにもならなかった。そうだ、あの老婆さえ何者なのかなんてわかったもんじゃない。

「あ、あのさ」

 僕が何か言う前に彼女が黙ってボタンを押した。他に乗った人が居るのか居ないのか地下に居たエレベーターがヒューーーーンと音を立てて上ってくる。

 来るな来るな!

 と、

 早く来てくれ!

 が猛烈な勢いで交錯する心の内を知ってか知らずか、古くて狭いエレベーターは呆気なくやって来た。


 かこん。


 という音がして扉が開き、エレベーターの床中央にみっしりと積み上げられた白い紙が視界に飛び込んできた。うげ、と込み上げてくる嗚咽を無理やり飲み込む間もなく背中を強く押された。無表情を通り越して鉄仮面のようになった彼女の黒縁眼鏡が、エレベーターの味気ない照明を反射してキラリと光っている。ティッシュの山を踏まないようよろけながら狭い箱の中に入る。彼女は何の躊躇いもなく乗り込んで、ど真ん中の一番ティッシュの盛り上がった部分をお洒落な靴で「ドン!」と踏み抜いた。

 

 ぐぢ、


 と、


 ぶぢゅ、

 

 が混じった様なイヤーな音がして、すぐさま白いティッシュにどす黒いシミが浮かんできた。

 床一面に広がった黒い液体からは何とも言えない異臭がする。その臭いが狭い室内に充満して、さっき待機状態に入ったままの嗚咽が再び込み上げてくる。が、さすがにこの状況で、彼女の目の前で嘔吐するわけにもいかない。壁に向かってしゃがみ込んだまま天井を見上げ、手で口を抑えるのが精いっぱいだった。既に彼女の様子を気にする余裕も無くなっている。吐くな、吐くな……。

 

 ぢょろ。


 今度は背後で水音がした。ぢどどど、と鈍い音を立てている。思わず体をそちらに向けると僅かな飛沫が唇にかかる。見上げた彼女のワンピースの裾と寒さで赤らんだ太ももが暗く濡れている。そうしてやがて暗い流れは膨らみ滴る石清水は濁流となって、エレベーターの床に降り注いだ。あっ、と開いた口の中に空中で分散した支流が注ぎ込まれた。

 苦みともエグみとも塩気とも言える強烈で濃厚な味。

 出したての尿独特の芳香が口の中で広がって染みわたる。体が飲み込むのを本能的に拒もうとするが、その味わいに舌が痺れて心も喉元も逆らえない。気道のすぐ手前まで来た甘露がより強く薫る。床に染みた水たまりは既に乾きつつあり、お馴染みの香ばしい匂いが立ち上ってきて狭い室内の空気にどんどん溶けだしていった。

「うっ…、うごぼご、ぎゅげええええええぇぇ、うえええぇ!」

 音と匂いとこの世のものとは思えない声とともに、今度は眼鏡もそのまま手も添えずエレベーターの床いちめんに吐き散らかした。目の前の光景と自分の排泄物の匂いや失禁という事実に脳が追い付かなくなったかのように、僕の大好きな素敵な美人の彼女がガクガクと痙攣しながら吐く吐く。吐瀉物がばちゃびちゃと音を立てて頭から顔から、そして問題のティッシュの上にまで土砂崩れのように降り注ぐ。酸っぱい匂いが鼻の奥から部屋中隅々まで充満して悪臭を放つ。地獄絵図の真っ只中でただひたすら恋人の排泄物と吐瀉物に溺れている自分が酷く惨めで、哀れで、倒錯的に思えた。もう、限界だ……ついに詰まっていたものを吐き出そうと俯いた瞬間、

 かこん。

 と音がしてドアが開いた。埃臭く黴臭いが、エレベーターの中よりは幾分かマシな空気が素早く流れ込んでくる。よろけながら廊下に出る。彼女は、と振り向くと突っ立ったまま微動だにしない。瑞々しくも最近ちょっと大人びた美しい顔に涙と青っ洟と吐瀉物の汁と具が乾いてへばりついている。まるで出来の悪いトーテムポールにでもなったみたいだ。くくん、と低い音がしてドアが閉まろうとする。慌てて腕をつかみ、体ごと引っ張り出す。

 かこーん、と、どこか名残惜しそうにドアが閉まると、シンと静まり返った廊下に彼女の静かな息遣いだけがぴー、すー、と響いた。どうやら立ったまま気絶していたらしい。

「ねえ、ねえ起きて!」

 吐瀉物まみれの頬を軽く揺すり、肩を掴んで呼びかける。眼鏡がころりと床に落ちた。彼女は上体だけを起こして息を整えた。

「ひぃっ」

 と小さく息を吸い込み、途端に震えだす彼女の人差し指が指し示す先には。


「お、お、おばあちゃん! 目が、目が無い!」


 ひどく酸っぱい匂いのする彼女の吐息を胸いっぱいに嗅ぎながら指さす方を凝視しても、誰も居なかった。何もない、そこにはただ薄暗い廊下が広がっているだけだった。

「誰も居ないよ」

「居るよ! あのお婆ちゃんがコッチ見てる! 目が無いの! でも、目が! 無いの!」

 完全にパニックを起こしてしまっている。じたばたと手足を振り乱しながらお婆ちゃんお婆ちゃんと言うのは、フロントに居たあの老婆の事だろうか。気丈に振る舞ってはいたが、恐怖のあまり幻覚を見たのだろう。

「誰も居ないよ! 大丈夫だって。」

「ダメ! お婆ちゃん怒ってる、ああ怖い!」

 彼女は半狂乱で泣き出して、髪の毛を掻き毟りながら立ち上がっておもむろに走り出した。老婆が居るという廊下の暗がりとは逆方向の、短い廊下の先にある鉄製のドアに向かって一目散に走る。すぐにドアノブに取りついて勢いよく、ガチャリ! と回す。ドアは呆気なく、がば、と空気を吐き出しながら向こうへ開いた。


 彼女を追ってドアを出る。

 

 するとそこは、何事も無かったように騒がしい繁華街の一角だった。見覚えのある往来に自分の涙と鼻水と吐瀉物でとことん汚れた彼女と二人、呆然と立っていた。まるで立ったまま悪い夢を見ていたみたいだ。

 振り向くと、そこには薄汚れてサビの浮いたシャッターがびしゃんと閉まっていた。何処にも、鉄製のドアなんて見当たらない。このシャッターが恐らく何年も開かれて無いだろうことは想像がつく。コレは一体……? 何もわからないまま、公園で顔を洗って、猛烈な悪臭を放ったまま電車に揺られて彼女のアパートまで帰って寝た。その晩は結局、お互いに黙り込んだまま眠ってしまった。もはや指一本触れられる雰囲気ではなかったのだ。


 後日、同じ繁華街へ行ってみた。どうにも気になったがネットにも、電話帳にも、その辺りに古いホテルがあるような気配が無い。

 確かココだ、という街角に立ってみる。そこには見覚えのある急階段と古めかしい雑居ビル。ただし階段を登りきった所にある格子は長年降りっ放しになっているようだった。

 そこは、とっくに廃墟になった病院だった。割れたり汚れたりして読みにくい看板を見るに、産婦人科だったようだ。あの老婆も、愛想の無い女も、そしてあの古めかしいホテルも。結局何だったのかはわからない。都会の、ナニカヨクワカラナイ場所へ迷い込んでしまったのだろうと、そう思う事にした。

 

 ひとつ気になる事がある。あの老婆は、多分、本当に「居た」のだと思う。生きていたのかはわからない。だけど、エレベーターを降りたその時に彼女が見たのは、恐らく本当に老婆だったと思う。ひどい近視で眼鏡が無ければ何も見えない彼女が、あんなにハッキリ老婆だったと認識しているという事は……。明らかに周囲の景色とは異質の存在だったという事にならないだろうか。あの時、彼女にだけ見えていた老婆が、いったい何を伝えたかったのか。何と言っていたのか。もう知る術は無い。あのティッシュの中身と、その持ち主のことさえも。

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