第2話
木造の古い階段を、今にも折れてしまいそうな階段を、素足のまま、音も立てずにゆっくりと降りる少女。
俺は見惚れつつも、その1つ1つの動作に異様さを感じずにはいられなかった……さらに言えば、その異様な動作、容姿、格好をしながら、あまりに当然の事をしているかの様に振る舞う姿に、異質さを感じたのだ。
と言っても彼女は人間が不可能な事をしているわけじゃない。
例えば『突然現れる』なんて事は、マジシャンであれば容易だろう。
『物音を立てない』なんて事も訓練を積めば出来そうな感じはある。
けれど、少女は平然とやってしまう……当たり前の様に、日常の様に、普遍の定理の様に、特に気取る事もなく、ひけらかす様でもなく、平然と。
——これが、神様なのか?
俺はふと、そう思った。
自分でもなんでこんな考えに至ったのかと驚いた。
けれど、この子が人間だと考えた方がよっぽどファンタジーな存在……と言うより、ファンタジーにすら存在しない様な存在になってしまうのだから仕方がないのかも知れない。
『日常的に凄腕のマジックを披露し、どんな場所でも物音を立てない訓練を積み習慣的にやってしまう、人気のない神社で特に何のイベントもないのに着物を着ている少女』
なんて、どんな創作の世界でも聞いた事がないのだから。
「願い事はありますか?」
少女の言葉で、それは確信に近いものに変わる。
『願い事は何か?』と聞いたのであれば、その質問はなんの変哲もない、普通のものだっただろう。
有り難みの無さそうな神社に、しかも一万円を賽銭箱に入れて5分間も手を合わせている人を見たら、気になるのは当たり前の事なのだから。
けれど彼女は『願い事はあるのか?』と、そう尋ねてきたのだ——まるで、俺に願い事がない事を知っていたかの様に。
普通の人であれば、願い事の一つや二つ、特に何も考えなくても出てくるものだと思う。
お金、地位、名声。
そんなものより翼が欲しいと謳った歌があるけれど、その翼も歴とした願い事の一つ。
どんなに無欲は坊主でも悟りを開きたいと言う欲はあっただろうし、どんなに聖人であっても……と言うより寧ろ、聖人であればあるほど、他者の為の願い事が無ければならないはずなのだ。
——けれど、俺には、ない。
先程の『神様に会いたい』と言う願いで全て、終わったのだ。
その後どうして欲しいとか、例えば握手してみたいとか、そんな些細な願いすらない。
それにその願い事さえ、ただ妙に心に留まり続けるこの神社が気になっていただけであって、ただその理由が知りたかっただけであって、ただその為の行為に過ぎず——詰まる所、神様なんてどうでもよかったのかも知れない。
「何もない」
俺は『他に質問は』と教師やらがする業務的な質問に対し、またこちらも業務的に答える、そんな感じで言った。
嘘を吐いても無意味だと、そう思っただ。
それに対して、成る程と頷くわけでもなく、驚くわけでもなく、ただ淡々と「そうですか」と呟く少女。
それから。
「日向ユウトさん、神様は何故、願い事を叶えると思いますか?」
名乗ってもいない名前を言われた所で、もう特に気にならなかった。
それよりもこの興味深い質問——道徳の様な、哲学の様な、でも本当はただ一つ決まった答えがあるだけのような、そっちの事の方が重要に感じた。
そしてきっと答えはちゃんと存在して、けれどその答えは多分、人が望む様な美しいものではなく……多分その質問の、答えな様な答えではない何かを俺はどこかで聞いた事がある。
***
小6の春頃の、国語の時間の話。
当時読んでいた小説は、『時間と命』と言うタイトルの少し変わったものだった。
その内容を簡単に簡潔に、作者の意図も登場人物の心情も無視して語るのであれば、
『神様にお願いをして、その対価に時間を払う』
と、そんなあたりのストーリーだった気がする。
こう説明すると何だか味気ないけれど、きっと教科書に載せる程だからもっと素晴らしい物だったのだろう。
授業はおおよそ順調だった。
発表してくれと言われれば馬鹿の一つ覚えみたいに一斉に手を挙げ、質問をすれば欲する回答がキチンと返ってくる、まるで宗教みたいなものが平然とそこにあった。
その空間には個性なんてまるで無くて、大抵は誰かが決めた『いい子』になる為に必死だったのだと思う。
馬鹿馬鹿しく見えるけれど、当時の彼らにとってはそれが凡そ全てだったのだから。
そんな中、一人の女の子が手を挙げた。
先生が誰か質問ありますか、と言ったわけでなく、誰も発表してくれと言われていない、そんなタイミングで。
腕を垂直に指の先まで伸ばして、耳にしっかり腕をつけて、少女は手を挙げた。
それは最早、真面目なんてものではなくて、一周回って不真面目なんじゃ無いかと思うほど完璧な挙手だった。
高槻カエデ、それが女の子の名前だ。
頭は良かったが優等生と言うイメージよりは変わった奴と言う印象を受けて居た人の方が多く、「頭はいいけど……」とそんな紹介をしたくなる様な、そんな奴である。
当然クラスから孤立してたし、本人もその事を気に留めている風では無かった。
先生は黒板に書き終え、少女の右手に気がつくと、「はい、何でしょう。高槻カエデさん」と優しく語りかける。
するとカエデは、やはり立ち上がれと言われていないのに椅子を引き、スカートの裾を正す。
「先生、神様は何のメリットがあって願い事を叶えたのですか?」
それは素朴で、小学生がする様な質問ではなかった。
ボソボソと「神様は時間を貰ったじゃねーか」なんて言う奴もいたけど、カエデが聞いてるのはそんな事ではないのだろう。
もしただの教科書的解答を求めていたのなら、彼女が分からないはずがないのだ。
だから、それではない。
恐らくだけど、カエデが聞きたかったのは、
『何故そんな無駄な事をしたのか』
時間を対価に願い事を叶えて貰う。これは人にとって、等価交換だ。
何を持って命の価値を決めるかはまた別の話として、兎に角それは人間からすれば行う価値のある物だろう。
けれど、神様は違う。
神様が寿命で死ぬと言うイメージは少なくとも俺にはないし、むしろ不死のイメージが強い。
まぁここは寿命があったとして、それでも人間一人から寿命を貰った所で自分の寿命の足しになるとは思えないのだ——仮に人間の寿命が100年だとして、その全てを貰ったとしても。
「そうですね……」
先生はそう呟くと、沈黙。人差し指を眉間に当てて目を瞑る。
本来、こんな質問をされれば適当にそれっぽい事を言うのが教師という生き物だが、この先生、亀野園子は違った。
当時、彼女は既に教師歴20年のベテランで、熱が冷めていたのか授業自体はマニュアル通りのお世話にも良いとは言い難いものだった。
下手に干渉して来ないから面倒事は起きなかったけど、基本誰からも好かれない、大人になればその内忘れてしまいそうな、そんな教師だった記憶がある。
しかし、彼女の拘りなのか、信念な様なものからなのか。
まるで無関心の様な態度を取りながら、どういう訳か聞かれた質問には真剣に答えると言う一面があった——例えそれが小学生に見られる純粋な質問であっても、小学生らしからぬ奇妙な質問であっても必ず答える一面が。
亀野園子は瞼を開くと、ゆっくりと顔を上げ、次の瞬間。俺は驚いた。
彼女は突然、手にしていた白のチョークを手放したのだ。
トン、と教壇にぶつかり砕けたチョーク。戦慄する生徒を前に先生はこう言った。
どうして私がチョークを落としたのかわかりますか、と。
正直、あの時の俺には何が言いたいのかさっぱり分からなかった。
しかし、カエデはその砕けたから先生の顔に目線を移すと、「ありがとうございます」と機械的に言って席に座ったのだった。
***
今なら分かる。あれが何を意味していたのか。
『分からない』
これが多分、あの教師の出した回答である。
単純な話だった。
先生はなぜ私がチョークを落としたのかと聞いたけれど、考えてみれば分かるはずなんてなかったのだから。
予想は出来た。恐らく何かを示唆する為にチョークを落としてみせたのだろう、と言う程度には。
けれど、それは答えにはならない。そこに絶対たる何かが足りないのである。
例えば、チョークを落としたのは手が滑ったからなのかも知れない。ストレスが溜まっていたのかも知れないし、そもそも意味なんて無かったのかも知れない。
その可能性は限りなく低いと思うけれど、しかしその可能性は他人には決して否定できない。本人が答えを言わない限り、可能性が高いと言うだけの予想に過ぎないのだ。
もし、答えが分かるとしたらその方法はただ一つ、直接本人に聞く他にないし、それだって真実とは限らない。
結局、何処まで行っても分からないのだ。
そして、人間一人の気持ちも分からないのに、神様の気持ちなんて分からないだろうと、先生は少女の質問に対し、そう答えたのである。
俺は今更、カエデがそんな物を示唆されて、仕方なく席に着いたのだと知ったのだった。
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