第4話

 ベランダに続く窓を塞ぐように引いたカーテンの隙間から陽が漏れる。瞼をじかに照らされ、その眩しさに意識が急浮上した。

「……うぅ」

 細く開いた双眸に太陽の光が突き刺さる。

 寝室で寝てるのなら、こんなに眩しくはないはず。もしかしてリビングのソファベッドか?

 首を左右に動かしてみると、寝室のベッドよりも近い距離で壁を認めた。

「なんでここで寝てるんだ?」

 普段から、飲みすぎてソファベッドに寝てしまう事はあったが、昨日は意識を失くすほど飲んではいないはず。

 疑問に首を傾げ、妙に気だるい体を起こし、昨日の出来事を思い出す。

 確か、スタジオの後シンゴを誘って家で飲んで、それから……。

 酷く重い頭の中で邂逅していると、トイレのドアが開く音が聞こえ、シンゴが姿を現す。

「あ、アキ起きたのか」

「あぁ……、いま目が醒めた」

 そうか、と話すシンゴの声をぼうっと聞きながら、昨日の出来事の続きを思い出そうとした。

 だが、まるで靄がかかったように、上手く思い出せない。

 ピエロが現れ、シンゴに襲いかかろうとするのを妨害するため、無理やり金縛りを解いて、シンゴに駆け寄ったあと、俺はどうしたんだっけ……。

「それより、腹すかないか?」

 シンゴの言葉にチラリと時計を見ると、すでに昼は過ぎていて、途端に自分の腹からきゅう、と空腹を訴える音色が、体の中で反響していた。

 昨夜は晩飯を食べることなく、酒のツマミを代用していたからか、胃がきゅうっと縮み、急激になにかを口にしたい欲求で口内に唾液が湧く。

 とはいえ、男の一人暮らしなんて、冷蔵庫の中にはアルコールしかないのがお決まりで。

「でも、冷蔵庫には何もないぞ? あ、そういや、食パンなら確かあったかな」

「じゃあ、それと一緒に食うか。勿体無いし」

 シンゴが指さしたのは、食い散らかされたツマミの、ポテトチップスやサラミ。いささかパンに合うのか疑問に思ったが、今更食べに出かけるのも、嫌だと反論するのもしんどくて、シンゴの言うままキッチンから食パンと、味付けにマヨネーズやケチャップを持ってきて、テーブルに置いた。

 言った張本人は、いそいそとテーブルにあったツマミ類をかき集めている。本当に、こんなギャンブルなメシで大丈夫なのだろうか。

 二人で向き合って、各々パンに乾いたサラミやさきいか、ポテトチップスを挟み、ごまかすようにシンゴはケチャップを大量にかけて口に運ぶ。

「うわっ、さきいかにケチャップは合わないわ」

 シンゴは実験的ともいえるツマミサンドウィッチを、悪態つきながらも食べる。よほどお腹が空いていたようだ。

 俺は何となく合うだろうといった理由から、ポテトチップスを挟み、マヨネーズと共に口にした。

 空気を吸って湿気ったポテトチップスは、口の中でパンと混じり合い、ポテトサラダみたいだった。これは意外と当たりのようだ。

「こっちは成功だったかな」

「じゃあ、次はポテトチップスとサラミにしてみるよ」

 内心、まだ食うのか、と呆れながら、淹れたての珈琲で、咀嚼したサンドウィッチもどきを胃袋に流した。

 ある意味空腹だけを満たすだけの食事をしつつ、俺は寸断していた昨夜の出来事を最初からなぞっていく。

 シンゴと一緒にテレビを観ながら飲んで──そうだ、あの血まみれのピエロが突然部屋に入ってきたんだ。

 俺は必死に、いつの間にか飲み疲れて寝てしまったシンゴを起こした。にもかかわらず、昏倒したシンゴは目を醒ます事はなく、ゆっくりと俺たちにピエロの魔の手が伸びてきたのだ。

 今まで靄のかかっていた記憶が、追いかける内に鮮明になっていく。そうだ、あの時俺はシンゴのいたテレビ側に移動したはず。なのに、起きた時は離れたソファベッドで寝ていた。これは一体全体どういう仕組みなんだ。

「なぁ、シンゴ」

「んぁ?」

 マズイマズイと言いながら、懸命にパンを頬張っているシンゴへと声をかける。

「昨日、俺が何度も起こしただろう? それなのに、どうして起きてくれなかったんだ」

 泥酔してても激しく揺さぶられ、耳元で大声で叫ばれたら、どんな人間でも多少は目を開くだろう。そう──普通なら。

 だけど、シンゴはあの状況でも覚醒する事はなかった。ツアーでもあそこまで意識をなくすほど深い眠りになったことがない人間が、だ。

 向かい側に座る仲間に疑問をぶつけると、シンゴは口に溜まったパンを珈琲で流し込むなり「何を言ってるんだ」と眉根をひそめ告げた。

「俺はずっと起きてたよ、アキ」

 一瞬、シンゴが何を言ったのか理解できず、口をポカンと開く。

「……は?」

「だから、俺は起きてたって言ったの!」

 憤然と唇を尖らせたシンゴは、証拠とばかりに昨夜見たバラエティ番組の内容を話し出す。

 語った内容は、俺の記憶にある内容と寸分も変わらなかった──。

「……」

 一体どういうことなのだ。俺はシンゴが寝ていたという幻でも見ていたのか。それとも、ピエロが俺に何かをしたというのか。

「結構飲んだから、寝ぼけてたんじゃないのか」

 シンゴの揶揄する言葉が、次第に遠ざかっていく。

 再び襲う、いつもの金縛りの前兆である耳鳴りと目眩。無声映画のように、モノクロの景色の中で、シンゴが口をパクパクさせ続けている。

 唯一、鼓膜に響く耳障りの悪い電気信号音が、現実感を突き付けた。

 今ここで意識をなくすわけにはいかないんだ。

 懸命に手を伸ばし、まだ薄く湯気の立つ、珈琲が入ったマグカップを掴む。

 霞む視界で、カップをたぐり寄せる俺の耳に。声が届いた。

「アノトキ、オマエハ、ネテイタジャナイカ」

 シンゴの口から発せられた声に、全身が凍りつく。

(本当に、もう、やめてくれよ……)

 耳を塞ぎたくても、全身を襲う泥沼に沈んでいくような倦怠感に阻まれ、意思通りに動くことさえ困難だ。

 なぜなら、声はシンゴの物ではなく、自分の……俺自身の声だった。

 まさか、という言葉が、ぐるぐると脳内を駆け巡る。

「どういうことだ」と、シンゴに詰問する寸前、ぷつりと漆黒の幕が降り、意識は奈落の底へと沈んでいった。


 次に目を醒ました時。ものすごく近くに、昨日から泊っていたシンゴと、もう一人。

「……タツヤ?」

 呼びかけた相手──タツヤは、苦い笑みを浮かべ、手を掲げる。

「よ。シンゴが泣きそうな声で助けを求めてきたから、来てやったぞ」

 いまだぼんやりする頭で、タツヤがどんな経緯で現れたのかを考えるが、上手くまとまらない。

 タツヤの自宅は、練習に使うスタジオを挟んで、こことは対角線上にあるはずだ。それがなぜ……。

「偶然だよ、偶然。たまたまシンゴがSOSを出した時、俺はこの近くにいたんだ。アンダースターン?」

 表情に出ていたらしい。タツヤは問うよりも先に、俺が欲しい答えを話した。

「そうか……」

 起きようとした俺の体は、二人揃って寝てろと押し戻され、仕方なく横になったまま、今度はシンゴに尋ねる。

 食事中、急に倒れた俺を心配し、最初は救急車を呼ぶはずだったシンゴは、よほど動揺していたのだろう。間違ってタツヤに連絡をしていたそうだ。

 冷静な……というか、からかいながらも俺の霊能を信じてくれたタツヤは、しばらく寝かせておくようシンゴに進言し、自分も訪問したんだと経緯を語る。

「そうか……。わざわざ来てくれてありがとう、タツヤ。あと、心配かけて済まなかった、シンゴ」

 顔を動かし、シンゴへと謝罪を零すと、そのシンゴは目を剥いて無言で俺の顔──ではなく、わずか上の部分を凝視していた。

「……? シンゴ?」

 顔色は青を通り越して白く、唇を小刻みに震わせ、明らかに様子がおかしいシンゴへ声をかける。そこを起因に、彼は血走った目で「帰る!」と叫ぶなり、猛烈な勢いで玄関へと走り出した。

「シンゴ!!」

 部屋の廊下を、ドタドタと蹴る二つの音が段々小さくなっていくのを追いかけるため、咄嗟に体を起こす。

 意識を失うほどの霊障を受けたはずなのに、不思議とすんなり体が動く。倦怠感も耳鳴りの残滓も、すっかり消えている。

(もしかして……)

 一瞬湧いた疑問を振り払い、慌てて飛び出したシンゴを、タツヤの後に続いて追いかけた。

 まるで霊障がなかったかのように足が動く。とはいえ、ラグがありすぎて、俺が一階にある駐車場へ降りた頃には、敷地から出る寸前の場所で、タツヤが取り乱すシンゴを捕まえていた。

「離せよ、タツヤ! 俺は嫌だ! こんな所に一秒もいたくない!!」

「落ち着け、シンゴ! そんな言い方、アキに失礼だと思わないのか!?」

 駄々っ子のように全身を左右に振ってタツヤの拘束から逃げようとするシンゴを、タツヤが叱責する。

 だけど錯乱するシンゴの耳には届いていないのか、今にもタツヤを殴ってしまいそうな力で暴れ続けていた。

「シンゴ、さっき俺の頭上を見てたよな。お前何を見たんだ?」

 乱れた息を整えるように、一つ大きく溜息をつくと、ゆっくりとシンゴに近づきながら問い質す。

 あの時、シンゴは俺の頭上に何かを見たのだろう。元々怖がりなシンゴは、部屋にいることが耐え切れなくなって飛び出したのではないか?

 先ほどまでの目眩などなかったかのように妙に頭の中が冴え、俺はひとつの答えの筋を見出す。

「お前が怯える何かを見たんだろう? 教えてくれよ、シンゴ」

「……っ、アキ……俺……俺……」

 シンゴは俺とタツヤを交互に見た後、ぎゅっと目を閉じたまま声を迸らせた。

「俺は見たんだ! アキ、お前の頭上に白い手が伸びて、お前をどこかへ引きずろうとしてたのを! どうしてお前が気づかない、霊感があるっていうのは嘘じゃないのか!?」

 感情を爆発させたシンゴは、一気にまくし立てると、タツヤの手を振り払い「こんな所にいられない」と吐き捨て、足早に駅のある方へとかけていった。

仲間から告げられた痛烈な言葉。

 同時に、本当にシンゴが言ったように、元々霊感などない彼が、白い手を見たというのを、信じていいのだろうか。

 白い手が俺へと伸びて、俺をどこかに連れて行こうとしていた。

 しかし、あれだけ怯え逃げ出したシンゴが嘘を言ってるようには見えなかった。だとしたら、虚言じゃないとしたら。

 なぜアイツ・・・は……。

「まぁ、落ち込むなよ。シンゴも気が昂ぶってたと思うからさ」

「いや……。シンゴにも、タツヤにも迷惑かけてすまない」

 消沈しているように見えたのか、タツヤは慰めの言葉をかけてくれるが、俺の内心は怒りで燃え上がっていた。

 ピエロに対して。

 だが、それ以上に仲間を巻き込んでしまった自分に。

 これだけ大事になっても現れない、もうひとりの俺の人格──カエデ──に。

 俺の胸の中で、真っ赤な怒りの炎が、ごうごうと燃え上がっていた。



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