第3話

「おーい、アキ。ぼーっとしてどうしたんだ?」

 バラバラに止まる演奏の合間から、シンゴの声が聞こえ、はっと我に返る。

 顔を上げると、正面の壁全体に貼られた巨大な鏡には、呆然と立ってこちらを見ている自分の姿と、怪訝な表情を浮かべて俺を見つめるバンドメンバーの姿が映っていた。

 マズイ。バンドの練習なのに。ぼんやりしてしまった。スタジオも無限に使える訳じゃないのに。

「あ、あぁ、ごめん。ぼんやりしてた」

「ぼんやりするなんて、アキらしくないな」

 素直に謝罪すると、揶揄を含んだ声で言ってきたのはベースのユウイチ。

「まあ、残暑でバテてんだろう。そうからかってやるなよ、ユウイチ」

 苦笑してユウイチを嗜めるのは、ドラムのマサ。

「しんどいなら、少し休憩でも入れようか」

 肩からギターストラップを抜きながら提案してきたのは、シンゴと対をなすギターのタツヤ。

「悪い。そうしてもらえると助かる」

 ぼんやりしていた俺に責任があるが、すぐに気持ちを変えきれないのもあって、タツヤの提案に頷いた。


 密閉されたスタジオを出て、歓談スペースに座った俺は、買ったばかりの缶コーヒーを飲みながら、先ほど楽器屋で起こった出来事を邂逅する。

 突然鏡の中に姿を現したピエロが、何度も目にした血に汚れた衣装を身にまとい、パントマイムを踊りだす。

 その技巧は何度観ても素晴らしいものだと思うが、俺に厄災をもたらすピエロが踊っているというだけで、目を背けたくなる。

 無音の中、永遠に続くと思われた鏡の世界のピエロは、ふとした瞬間、忽然と消えたのだった。

 一瞬、自分は幻でも見たのか、と訝ってみたものの、微かに鼻先に残る血の匂いと、全身から吹き出た汗が、ピエロが現れたのは事実だと知らしめる。

 あれは|夢でも幻でもない。

 かといって、アイツ・・・が出てこないということは、ピエロは霊でない可能性が高い。

(一体どうすればいいんだ。八方塞がりというのは、こういう事を言うのか?)

 ようやく戻った人の小波の中、俺は途方に暮れるしかなかった。

 俺はやけに冷房の効いた歓談スペースで、湧き上がる恐怖におのれの肩を抱く。

「寒いのか?」と、タツヤに問われ、自分が怯えていた事にそこで気付いた。

 メンバーには一部の事実は隠しているものの、俺がよく霊体験している事は知っている。

 アイツ・・・も出てこないし、ピエロの正体が分からない以上、もしかしたら何か妙案を言ってくれるのでは、という藁にもすがる思いで、俺はゆっくりと口を開いた。

 数日前から謎の悪夢に悩まされてる事。その夢の登場人物であるピエロが、現実世界まで出現した事。ピエロが霊とは違う存在のような気がする事。

 そして、いつか俺の生命を奪うのでは、という事を、語って聞かせた。

 話終えると、タツヤ、ユウイチ、マサは腹を抱えて大爆笑を弾けさせた。

「なんだよ、笑うことないだろ?」

「いやいや、いつもながらアキの想像力は素晴らしいな、と」

「そうそう、おかげでうちのバンドは、アキがいないと成り立たないんだけどなっ」

「うんうん」

 褒めているのか、けなしているのか、複雑な思いで軽く揶揄する三人を睨む。

 だけど、シンゴの一人だけが、顔を青白くさせ、小刻みに全身を震えさせていた。

 シンゴが、この手の話は苦手なタイプなのを忘れていた。

 多少むかっ腹は立ったものの、他人に話したことで、心が少し軽くなった気がする。それに、こうして改めてピエロの事を口にしたのが幸いしたのか、ピエロの存在理由を真剣に考えようと思った。更なる恐怖が蓄積すると分かっていながら。


 玄関のドアを開錠すると、俺は後ろに立つシンゴへと振り返る。

「ま、あんま綺麗じゃないが入れよ」

「それは知ってる」

 シンゴは軽口を叩き、お邪魔しますと告げてから家に上がる。俺も途中のコンビニで買ったビールやつまみの入った袋を下げ、後に続いた。

 俺はソファ代わりのベッドに腰掛け、シンゴはキッチン傍にあるテレビ前に陣取り、テーブルに買って来た惣菜や乾物を広げると、二人だけの宴会を始める。

 アルミ缶が奏でる鈍い音で乾杯し、ビールを一気に煽る。炭酸の弾ける刺激が喉や胃に響き、カッと熱くなっていく。後から苦味が爽快感を連れてきて、この一瞬だけピエロの存在を忘れていた。

 シンゴも喜色満面でビールを飲み、つまみを口に運んでいる。

 本当は、一人で家で過ごす気にならなくて、シンゴを誘ったが、もうひとつは、ピエロの話をしたために酷く怯えさせてしまった事の侘びもあったのだ。

 誘って良かったかも。

 俺は、微かな罪悪感を胸の奥にしまい、酒宴を楽しむことにした。


 午前二時を過ぎた辺りだろうか。

 テレビでは旬の芸人たちが、ネタを交えながらトークを繰り広げている。

 丁度ゲストのグラビアアイドルを中心に会話が盛り上がってる時だった。

「……?」

 不意に、眠気と共に耳鳴りが俺を襲う。

 飲みすぎたか、とテーブルに視線を移すも、まだ酔いつぶれるには程遠い量の空き缶が目に映る。

 シンゴの様子も、ほろ酔い程度で、テレビを見て笑っているのが見えた。

 次第に耳鳴りがひどくなり、これは酔いからくるものではないと気づくよりも先に、思考はピーという耳障りな音にかき消されてしまう。

(これは……何度も経験している。……金縛りの予兆だ!)

 かつて、自分の身に降りかかった霊体験の端緒には必ず、こうしてテレビの警告信号音に似た音が、遠く、近くから複雑に絡み合い、俺を取り囲む。

 同時に思い通りに体は動かず、搦め取られてしまうのだ。

(く……っ、シンゴ頼む、気付いてくれ)

 横になりながら、俺に背を向けてテレビに集中してるシンゴに助けを求めるも、声は何かに塞がれたように出てこず、届くことはなかった。

 底なし沼に引きずり込まれるような睡魔の合間に覚醒を促すような無機質な高音が幾重にも重なって襲ってくる。

 気が狂ってしまいそうになる中、ベランダから、カラリと小さいながらもはっきりとした音が耳に届いた。

(まさか……)

 俺は起きている。目の前にはシンゴもテレビを観て肩を揺らしている。それなのに、何故ベランダからピエロが自然に入ってくるんだ!

 鏡の中なら、仮想空間なのもあり、逃げるなり視線を逸らせば何とかなった。しかし、ピエロは夢も仮想も超え、現実世界に現れた。

 底知れない恐怖に全身がわななく。

 金縛りで身動きの取れない俺の視界の先で、ピエロはいつもの奇妙なパントマイムではなく、海藻のようにユラユラとした動きで、シンゴとの距離を縮めようとする。

(マズイ! あいつはシンゴを取り込もうとしているのか!?)

 何とかしてシンゴをピエロから引き離そうと、必死でもがく。だが、体はベッドに縫い止められたように動けない。

 シンゴ逃げろ、と何度も声を振り絞って叫ぶ。声は届かなくても、俺の様子の異常さに気づいてくれ、と祈りながら警告を続けた。

 ピエロは俺に一瞥の視線を投げた後、乾いた血の衣装で、テレビ観覧に興じるシンゴへと、一歩近づいていった。

 金縛りの中、昼に続き、再び姿を現したピエロがシンゴへと食指を動かす。

(だめだ、シンゴ! 今すぐそこから離れろ!!)

 俺は縫い付けられた体を強引に動かし、強制的に金縛りを解く。

 背中にブチブチと引き剥がすような感覚を憶えながらも、痛みも忘れ全身を動かす。

 今までこんな無茶な事をしたことがなかった。精神的にも肉体的にも疲労度が半端ない。

 だが、ピエロの件でこれ以上人を巻き込みたくない思いから、体中の筋肉が悲鳴をあげながらも無理やり体を起こすと、シンゴの元へと飛んでいった。

「シンゴ!!」

 いつの間にか、シンゴはテレビを観ながら眠ってしまったらしい。すうすうと寝息をたてていた。

 バイトとバンド練習のハードな生活をしている辛さをわかっているから、本当は寝かせてやりたい気持ちがあったが、今は呑気に寝ている場合ではないのだ。

「起きろ、シンゴ!」

 ぎこちない手でシンゴの体を揺さぶり、いつの間に声が戻ったのか、耳元で声を張り上げているのにもかかわらず、シンゴは目を覚ます気配が全くなかった。

 頼む、シンゴ起きてくれ!

 テレビの音量を凌駕する大声で叫び続けるも、俺の必死な願いも届かず、シンゴは何もしらない安穏とした表情で眠り続けていた。

 ピエロは焦る俺の気持ちなど知らず、水中にいるようにフラフラと近寄ってくる。その白く塗られた顔貌に恐怖を感じ、ぞわっと背中の産毛が逆立つ。

 張り詰めた緊張感は、ピエロがおもむろにしゃがみ、俺の顔を覗き込んだ瞬間、耐え切れなくなった緊張の糸がふつりと途切れ、意識が暗転したのだった。

 その完全に暗闇に落ちる刹那。俺はもう一人の俺・・・・・・──カエデの名前を呟いていた。


 ピエロは無表情に笑みを描いた顔をアキへと寄せる。

 ふと、釣り上がったメイクの唇は、さらに両端を持ち上がる。それはアルカイックスマイルを保持していたピエロが唯一、表に出した感情だ。

 ピエロは初めて見る男を守るように倒れたアキへと手を伸ばす。ゆっくりと、確実にピエロの黒く塗られた指先が、意識をなくした青年へと近づく。

 意識を完全に失ったアキは抵抗すらできない。アキ──は。

 白い手があと僅かな所までアキに触れようとした瞬間。

「──!?」

 バツンッ、と見えない皮膜がピエロを拒絶するかのように、その白い手を強烈に弾く。まるで、接触面から火花が散っているみたいだ。

「アキに触れないで」

 ピエロの耳にはっきりとした声が届く。

 それは誰が発したのだろうかと周囲に目を動かすが、アキは意識を無くして言葉を紡ぐなどできないし、彼が庇う友人はこの空間に介入などできないはずだ。

 ピエロは一瞬、首を傾げたものの、改めてアキに近寄る。倒れる青年をを見下ろし、彼の意識がないのを確かめ、今度は確実に取り込もうとした。だが──。

「何度も同じことを言わせるな」

 今度は火花と呼ぶには桁が違う、爆発のような圧迫がピエロを襲う。

 空気の弾丸がピエロの全身を貫き、血に染まった衣装をズタズタに裂いていく。

 予想以上の霊弾を受け、ピエロの形は次第に霧散していく。

 しばらくすると部屋の中にはアキの寝息だけが聞こえる。

 安らかな表情は、大事なものを守って満足したような笑みがそっと浮かんでいた。



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