第2話
ツヅキハ──
「……っ!!」
息が詰まるような感覚を憶え、脊髄反射的に上半身を起こし、絶え間なく空気を求め喘いだ。
薄いカーテン越しから射し込む陽光は眩い。きっと昼に近い時間なんだろう。寝室は光に満たされ、明るかった。
急に目に入った光の強さに眉をしかめながら、荒い呼吸を繰り返す。
眩しい光を見た事による頭痛がするし、心臓と肺は着ていたTシャツの上からでも絶え間なく上下しているのが分かる程だ。しかも、脳裏にこびりつく血塗れのピエロがいつまでも離れず、明るい外に反して気分はどんどん暗く沈んでいった。
「最悪だ。気持ち悪い」
額に滲んだ脂汗を手の甲で拭い、悪態を吐く。それでも一度沈んだ気持ちは浮上することなく、小さなため息が零れていた。
枕元に置いた携帯電話には、数件のメールが着ていたが、憂鬱な気分では開く気にもなれず、俺はベッドから出て顔でも洗おうと洗面所に向かうため、リビングに続く引き戸を開こうとした所で手が止まる。
一瞬、躊躇する心が湧く。
もし、夢と同じ光景だったら、と。
不安に包まれるも、固唾をひとつ飲み込み、思い切って引き戸を大きく開いた。
俺の予想に反して、カーテンで閉じられたリビングは薄暗さを残すものの、夢で見たピエロの姿はなかった。気づけば安堵の息を漏らしていた。
(そう……あれは夢なんだ。俺自身でもはっきり認識してたじゃないか)
何度も自分に言い聞かせる。だが、目ではピエロの痕跡を執拗に探っていた。
頭の中で否定を繰り返しながら。
ひとしきりリビングを確認して安心した俺は、傍にある洗面所へと足を向ける。引き戸を横に滑らせると、正面に三面鏡が俺の姿を映す。
鏡の中の俺はひどく顔色が悪く、今にも倒れそうな様子だ。
「ひでぇ顔してるな」
寝乱れた髪を掻き上げ、一歩洗面台に近づこうとした俺の目に、
「……っ!!」
さきほどまで青ざめた顔をした自分の姿を映していた鏡。だけど今は、夢に現れた血まみれピエロが、表情の分からぬメイクでこちらをじっと見ていた。
いつもは雨で衣装が濡れていたから気付かなかった。ところどころの赤は水分を奪われ、今にもねちゃりと粘ついた音をしそうなくらい、黒味を帯びていた。
「……マジ……か……よ」
思わず後ろへと後時去る。普通の鏡なら、向こうも同じ動きをするものだ。だが鏡の中のピエロはただただ佇み、闇のような虚ろな瞳でこちらをじっと見ていた。
鮮血の赤と乾きかけの黒赤。まるで赤のマーブル模様のようで、ただでさえ悪い気分が更に悪化しそうだ。
不快に包まれた俺に構わず、俺と同じ顔を白く塗りつぶし、血の染料で染められた衣装を着た鏡の中のピエロはこれまで固まったように一変もしなかった表情を、不意に嘲笑うかのように唇の端をニィとつりあげ、じっとりと細めた目で見だした。
「ひ……っ」
情けない話だが、不覚にもみっともない声が溢れていた。霊なら、ここまで怯える事もなかった。
これまで色々な霊と遭遇してきた。そんな俺でもピエロの存在は不気味であり、恐怖に震えるには十分の、謎めいたものだったのだ。
思わず、不気味な視線に耐え切れなくて、固く両目を結びながら、早く消えてくれ、と強く願っていた。
しかし、鏡に映るピエロから逃げたくて目を隠したはずなのに、瞼の裏でさっき見たピエロの残像が浮かぶ。
(なんで、俺ばかりがこんな目に遭うんだ)
逃れられないと知るや、次第に腹が立ってきた。それに、俺が|唯一の拠り所にしている
なぜこんな訳の分からないヤツに怯えなければいけないのだ。ピエロの正体を把握できてないが、いっそのことこちらから反撃するか。
”窮鼠猫を噛む”と言ったところだろうか。
鏡の相手にどう攻撃してやろうか、と目を開けた俺の前に、アルカイックスマイルを浮かべていたピエロの姿は──なかった。
「あ……あれ?」
静まった空間に間抜けな声が響く。
何度も瞬きして、何度も鏡に顔を近づけてみたものの、ピエロの姿は忽然と消えてしまっていた。
鏡の中にいたのは、少し寝癖のついた胡乱げな表情をしたいつもの自分の顔。
「何だったんだ、一体」
思わず漏らした声と共に首を傾げていたのだった。
平日にもかかわらず、渋谷の街は今日も人でごった返している。
好天なのも災いしてか、予想以上の人ごみに内心辟易しつつも、スタジオ練習の前に時間を潰そうと、楽器店へと行こうと考えを巡らす。
暦的には秋に突入したものの、太陽は夏を忘れきれないのか、ジリジリとアスファルトを焦がしていた。地面から立つ陽炎が、街の輪郭をぼやけさせ、揺らめいている。
「しかし今日は暑いな」
人のさざめきの中、自分が発した声は、あっという間にかき消される。
それが当然だと思うようになったのは、自分が都会に慣れてしまったからだろうか。それとも、都会の波に飲まれてしまったからか。
たくさんの人の中にいるのに、孤独を感じる。それは心が乾いているからかもしれない。
「……何をセンチメンタルになっているんだ、俺は」
苦笑を唇に乗せ、暑さに追い立てられるように、ビルの中へと足を早めた。
商業ビルの中は、同じように涼を求めて人で溢れていた。心なしか冷房の効きも良くない。予想より温い風を頬に受け、落胆の息が落ちた。
それでも、外の暑さに比べたらましだと言い聞かせ、楽器屋のある七階へとエレベーターに乗る。
鉄の箱は滑らかに上昇していく。
目的の階で止まり、ドアが口を開けた瞬間、方々から試奏している音が不協和音となって押し寄せてくる。
妙な安堵感を憶え、フロアに足を踏み入れた俺の正面。店内を広く見せる為に柱に貼り付けた鏡の中、あいつ──ピエロが血まみれでこちらを見ていた。
相も変わらず、白く塗られた顔に浮かぶ黒い双眸は、微動だにせず、俺の姿を捕らえ続けていた。
刹那、あれだけ音に溢れていたフロアが、しんと静まり返る。
まるで耳に真空の塊を詰め込まれたかのようだ。痛いくらいの静寂が俺を襲う。
自分の呼吸音を上塗りするかのような心音が、体の中で脈打っていた。
まさか、こんな所まで追いかけてくるなんて。
これまでさまざまな霊体験をしてきた。
それなりに怖い経験もあったが、ピエロの不気味な恐怖に比べたら、どうってことなかったと、今なら思う。それに──
だけど今回に限って
目の前のピエロは、動揺する俺を嘲笑っているように、ニヤニヤと笑みを浮かべていた。目は細められていたものの、深淵が広がっているだけで、とても笑っているように見えなかったが。
俺は弱っていきそうになる気持ちを奮い立たせ、ギロリと朝と同じようにピエロを睨み据える。
朝と同じように睨んでいれば、きっとすぐに消えるだろう、と慢心していた俺の前で、ピエロは消える事なく、夢の中と同じようにパントマイムを踊りだした。
(……な……)
真っ赤な真っ赤な血に染まった衣装をまとい、怯える俺という、たった一人だけの観客に見せる為のパントマイムを。
ユラユラ、フラフラと同じ動作を繰り返しながら……。
音は消えてしまっていたが、視界だけはやつに奪われなかったようだ。
フロアにいた人たちはピエロの存在に気づかず通り過ぎる。
時折、邪魔な場所で固まってしまった俺は、不審な視線で見られていたけども。
好きでこんな場所で立ち尽くしているんじゃない。そう反論したかったが、俺一人の時間が止まってしまったかのように、体も声も自分の意思で制御できない。
唯一できたのは、ピエロを睨むために動かした目だけだった。
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