パントマイム

藍沢真啓

第1話

 夢──というのは、一般的に起床時に起こった出来事を、整理する為に見るものだという。

 楽しかった出来事、悲しかった出来事、記憶に残らないが脳に強烈に何かを刻んだ出来事。

 人の容量は無限ではないから、夢によって整理したり、奥底にしまいこむ為に見るのだという。

 だが、一概に記憶の整理と呼ぶには、説明しがたい夢もあるだろう。

 予知夢だったり、宿業の見る夢だったり、名状しがたい夢もあるはずだ。


 俺が──俺たちが体験した夢。

 そのどれもに属さない、奇妙な夢だったのだ。


 これは『夢』を起因して、その後俺自身に起こった体験の物語のひとつである。







 俺──アキは夢を見ていた。

「あぁ、夢か」

 背中に柔らかな感触を感じながら、目を閉じたまま呟く。

 今呟いたのは、さきほどまで夢の世界にいた、というのではなく、この現状が夢であるのだと認識したためだった。

 微睡みから目覚めたような気怠い感覚に包まれながら、静かに閉じていた瞼を持ち上げた。

 霞む眼前には見慣れたキッチン、トイレ、浴室が並ぶ。足元にあるテーブルには、すっかり冷め切った珈琲が置かれていた。

 リビングには、今身を預けているお気に入りのソファベッドに、オーディオセットと曲作りに使う楽器類。

 お世辞にも綺麗だとは言えないが、男の一人暮らしにしては、割と片付けられたほうだろう。

 地元から遠く離れた東京に、飛び出すように出てきてすでに数年。バイトとバンド活動で肉体は疲弊していたものの、心は充足感に包まれていた。

 ぐい、と冷めた珈琲を喉に流し、空になったカップをテーブルに戻した途端、カタリとベランダの方から物音がしたのに気付いた。

 住んでる部屋は三階。まさか泥棒でもあるまいに、と視線をベランダに移すと、そこにいた異様な姿の人物に、思わず息を飲んだ。

 いつの間に降り出したのか、大粒の雨がコンクリートの床を叩き、空は灰色の雲が重く立ち込めていた。

 そんな中で、真っ白に塗りたくったメイクに、赤黒い衣装をまとったピエロが、己の姿を恥じる様子もなく踊っていたのだ。

 まるで見えない壁でもあるように、宙に置かれた手が滑らかにすべる。虚空であるはずの場所に、本当に物質があるかのようだ。

 サッシ窓に大粒の雨の雫が貼り付いた景色は酷く非現実的で、歪んだテレビ画面を観ているかのようだった。

 普通なら、三階のベランダに見知らぬピエロがパントマイムなんて踊っていようものなら、不法侵入として警察に連絡するだろう。

 だけど、俺は知っていたんだ。今ここにある全てが「夢」だって事を──。

 現実でない、というのもあって、少し気が大きくなっていたかもしれない。

 おもむろに立ち上がると、キッチンにある冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出す。再びソファに腰掛けてプルトップを指で引いた。

 カシ、と小気味良い音と共に、炭酸が弾ける音色が飲みたい欲を誘う。

 一口飲み込むと、冷たく弾ける感触が、たまらず声を漏れさせた。

 俺はビール片手に、ずぶ濡れの中パントマイムを踊り続けるピエロを鑑賞し続ける。

 曇天の空から落ちる大粒の雨が、コンクリートの床に叩きつける音色。まるで拍手喝采しているかのようだ。

 にも拘らず、ピエロは無機質に同じ動作を繰り返していた。

 ふと、何かもやっとしたものが湧く。

 次第にそこはかとなく薄気味悪さが胸に広がっていった。

 最初は夢である事、扉を挟んでいる内は危険ではない、と『過去の経験上』高を括っていたりもした。だが、頭のどこかで妙な警笛がピエロを見てから鳴っていたのだった。

 俺はすくっとソファから立ち上がり、リビングとベランダを隔てる窓の前に来た途端、気味悪さを払拭するかの如く、窓を勢いよく開いた。

 レールの上をアルミサッシが滑っていく。

 俺とピエロの間に遮るものがなくなると思った瞬間、バン! と耳を劈く音と共に意識は現実へと引き戻された──。


 同じ夢が数日続いた。

 豪雨の中、ベランダでパントマイムを踊り続ける不気味な赤黒い衣装をまとったピエロ。

 最初は呑気に鑑賞していても、相手の気味の悪さを憶えては、ベランダの窓を開き、夢はそこで終わる。

 夢の原因は分からなかったが、いつかはこのまま終わってしまうだろう、と思っていた。だが、思いに反して突然変化を始めたのだ。

 いつも窓をこちらが開けるまで、トレースするかのように同じ動きを繰り返してたピエロが、突如動きを止めておもむろに窓の枠に手をかけると、横に動かしたのだった。

「──え?」


 ベッドの中で、戸惑いの声と共に目が醒める。

 陽が昇って随分経つのか、晴天の眩い陽光がカーテン越しでもはっきり知る。これが夢と同じ雨だったなら、きっと錯乱していただろう。

 それはともかく。

 俺は妙な胸騒ぎを憶え、布団を蹴るようにして起き、隣のリビングへと急いだ。

 壁紙と同じ模様を貼った引き戸を勢いよく薙ぐ。激しい音をたてて開かれた視界の先にあるリビングの光景を目にした途端、思わず唇から安堵の吐息が漏れていた。

 そこにあったのは、昨日寝る前と変わらぬ景色。

「……そうだよなぁ。現実まで侵食するなんてないよなぁ」

 乱れた前髪を指で梳きながら、クツクツと笑い声を零す。

 安堵に包まれながらも、どこか不安は拭いきれない。だからこそ、今夜、夢の中でピエロと決着をつけようと、陽光で満たされたリビングを眺め誓ったのだった。


 今朝の夢は変化の兆しと判断したのは間違いなかったようだ。

「……お前……」

 いつもはザァザァと雨が降りしきるベランダでのみ存在していたピエロが、リビングの中央で佇んでいたのだ。

 全身ずぶ濡れで、受けきれなくなった水滴は、フローリングに敷いた黒のラグマットを更に黒く染める。

 俯いたまま微動だにしないピエロは、まるで自分の足元にできる水溜りが広がっていくのを、ぼんやりと観察しているように見える。

 そして俺も、急展開すぎる状況に、一言を発したきり身動ぎできずにいた。

 だが、すぐに本来の目的を思い出し、はっと我に返ると、大股でボウフラの如く立ち尽くすピエロに近づき、赤黒一色の胸ぐらを掴んだ。

「──!!」

 ぐっと握った瞬間、俺は時を止めたかのように固まってしまった。

 グジュ、と濡れた生地の感触が嫌だったのもあるが、そんな事でここまで驚愕しない。

 ラグマットが黒いせいで気付かなかったが、握った指の隙間から溢れたのは、透明な雨水ではなく、酸化して黒みを帯びた血液だったからでもない。

 俺の手を、つ、と黒い血が、幾重にも筋を作る。

 垂れる血は空を滴り、ラグマットの上へと新しい染みを生む。

 だけど、俺が驚いた理由はそこにはない。

 俺はこれまで様々な霊体験を経験してきた。中には命に関わる案件だってあった。

 過去には周囲の奴が心を病んだまま、現在でも入院しているのもいる。

 それに、今日の夢で何かしらの決着をつけようと決めていたのだ。血を吸った衣装を掴んだくらいで、ここまで驚くのもどうかと思う。

 だが、俺はピエロの胸元を掴んだまま、驚きに目を瞠り動けなかった。いや、動けなかったんだ。

(……なんで、なん、で)

 高揚と困惑が混じり合い、握った手が微かに震える。

(どうして……)

 小刻みに震える振動は次第に振り幅を大きくしたそれは、掴んでいた胸元を突き飛ばす形となっていた。

 抵抗らしい抵抗をせず、ピエロの体はグラリと傾ぎ、ゆっくり床へと吸い寄せられていく。

 ビシャ、と湿った嫌な音が部屋に響いた。

「はぁ……はぁ……」

 喘ぐように息をしながら、俺は床に座り込んだピエロを見下ろす。ピエロは逆に顔を持ち上げて俺を見返す。

 何故、この瞬間まで気付かなかったのだろう。

 白く塗りたくられたメイクに彩られてはいたが間違いない。俺の前に俺の顔があった。

 まるで鏡を見ているかのように、同じ顔が同じ場所にある。一方はピエロメイクの奇異な姿だったが。

 尻餅をついた形で座していたピエロが、おもむろに立ち上がる。動作する度にぐしゅぐじゅと湿った音色が鼓膜にまとわりついた。

 これはヤバイ、と脳内で警告音が響く。

 ここから離れなくては、と後時去るものの、上回る速度でピエロがパントマイムを踊りながら距離を縮めてくる。

 拒絶を言葉にしたくても、喉からは掠れた息が漏れるだけで、ピエロに届く前にあえなく霧散する。

 この時、俺は全身を恐怖に支配されていた。

(コイツは俺の手に余る)



 幼い頃から培ってきた武術の心得さえも、ピエロの持つ不気味さに抵抗できなかった。

 俺とピエロの差が数十センチとなった。

 万事休す、と固く目を閉じた俺の耳に



  ツヅキハ──



 囁くほどの声が耳の中で反響し、意識は急速に現実へと還っていった──。



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