第24話 家族

1998年、単身赴任。1999年4月、発病。4ケ月ほど休みました。出向から復職したものの大阪での単身赴任は継続でした。最初は産業医のクリニックに通っていましたが、2000年の4月に大学病院に変わりました。教授が主治医になりました。

1998年。埼玉に一戸建てを買って3年しかたたないのに、妻は娘を都心の有名私立幼稚園に入れるから、都心にマンションを借りて引っ越すと言い出しました。私は反対できませんでした。経堂の駅から徒歩3分のマンションに引っ越しました。

これが子会社の社長の鼻についたのでしょう。大阪への異動は明らかな嫌がらせ人事でした。

1999年躁転。私は大阪のワンルームマンションの7階に住んでいました。会社から病院に行くように促され、母が来ました。弟が来ました。妻が来ました。妻は動転していました。1ケ月ほどは、山中湖の別荘で過ごしました。

2001年になり、入院しました。うつでした。会社も当初は窄病だと疑っていたようでうすが、疑いは晴れました。

それにしても、発病した段階で、なぜ大阪勤務継続なのでしょう。会社の嫌がらせではないでしょうか。それとも引っ越さない私が悪かったのか。とにかく、仕事の継続が最優先される治療でした。

いろいろと問題を起こしました。会社から、一人暮らしをやめて母の住む実家に住むよう命じられました。この時、父と母は別居していました。その後、離婚調停があり、母は実家を譲り受けます。父はその後、再婚します。因みに、父は大学教授です。

会社からは、月に2回、東京ー大阪間を往復できる交通費が支給されていましたが、多分、年に2回ほどしか帰っていません。そのうち、妻は、賃貸ではもったいないからと世田谷に一戸建てを買いました。

それから10年。私は定期的に躁転し、都合4回入院しました。だいたい、1ケ月の入院です。3ケ月ほど休んで復帰。保護室にいた人間が最先端のオフィスにいることには、違和感がありました。

2010年に事件が起きます。詳しくは書きませんが、この一件で私は世田谷の家を出入禁止になります。埼玉の家は、とっくに売り払いました。2010年には休職扱いになり、会社を辞めると決めていました。ならば、東京に戻る。それが、そうは行かない。今思えば、不思議な家族でした。

12年に渡る単身赴任で出来た溝。大きな溝でした。

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