第3話 感情の平板化

2011年9月30日、M病院を退院。通院するよう指示されたが、そんな飛んでもない病院に行く筈もない。俺はすぐに、10年通った大学病院の教授のところへ行った。リスパダールとデパケンの断薬を見据えての減薬が始まった。

教授から鬼畜である母の実家を出るよう指示され、駅前にマンションを借りた。バーのマスターがいろいろと手伝ってくれた。

そして、忘れもしない、2011年12月24日。クリスマスパーティーで京都に行っていた俺は、突然、意識を失ったかのように感情が消えた。原因は分からないが、その時は薬の離脱症状だと思った。しかし、今は統合失調症の陰性症状だと思っている。この、感情の平板化は長い間続いたが、教授は一過性のものだからと薬を処方してくれなかった。

そうしているうちに、3月になった。耐えかねて、教授に紹介状を書いてもらい、別の大学病院に行った。そこの医師は紹介状を読むと、目を合わせることもなく、M病院に行けと言った。そして、生きることを考えなさいと言った。

近所のHクリニックにも行った。そこの医師は変わっていた。日本は上場企業や公務員の豊かな世界と、それ以外の貧困世界に分かれている。貴方は2度と豊かな世界には行けないことを覚悟してください、と言った。おい、こいつ、小学生かよと思った。しかし、それはそれ、ソラナックスを処方してもらった。これは効いた。

2012年4月。俺は大いに悩んだ。悩み、悩み、悩み続けた。M病院に行けば、未来はなくなる。仕事は禁止され、いずれは生活保護だ。しかし、感情の平板化はとても苦しかった。俺は、M病院に電話をし、PSWのA氏と連絡をとった。診察してもらえるかどうかの確認である。A氏は信頼できる人だったのだ。

どうやら受け付けてもらえるらしい。また、主治医は入院時の嫌な野郎になった。まずは障害年金を申請しろと言う。俺は手続きに追われた。年金事務所に行き、4月に書類を出して、結果が来たのは7月だった。

2012年6月。俺は「実録・躁うつ病」というブログを始めた。そこには、躁うつ病の研究対象として俺を使えという驕りがあった。まだ、誇大妄想の中にいたのだった。

2012年7月。役所に相談員がいると聞き、電話をした。話をするから来いという。だだっ広い応接室で、1時間以上話をした。前年に母が入院を画策してであろう、役所や警察に頻繁に行っていたという話を聞いた。障害者手帳を取れと言われた。ヘルパーを入れろと言われた。家賃の安いところに引っ越せと言われた。自炊しろと言われた。大人しい俺は、黙ってそれを聞いていた。行政は権力である。権力に逆らってはいけないと思った。

この時には感情の平板化は治っていた。しかし、この時の判断は人生で一番重要だったのかもしれない。何しろ、相談員に主体性を握られて、障害者としての人生に転落することになったのだ。

きっかけはM病院への転院だ。感情の平板化は治まった。しかし、その代償が何であったのか。後悔はしていない。それでも、「もしも」を考える。いや、耐えられなかったのだ。感情の平板化と言っても伝わりにくいかもしれない。とにかく何も感じないのだ。砂を食べている感じだ。躁状態や鬱状態ではない。

離脱症状なのか、陰性症状なのか。精神医療は解釈学でしかない。とにかく俺は、こうして精神障害者世界に入っていった。

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