第2話 2011年の真実

2011年5月4日、世間がゴールデンウィークだということを忘れて、神戸からタクシーで淡路島に日帰り旅行をしていた俺は、海辺で、ふと体調の悪さを実感した。求めていた潮風をまったく感じない。このだるさと、しんどさがメンタル的なものとも思えない。俺は早めに帰ろうと、再びタクシーに乗りJRの舞子駅に着いた。行きのよう な渋滞もなく、そこからは電車で家まで帰った。


2011年の2月に会社を辞めてすぐに、311の東日本大震災があった。俺は事務所を設立し、計画的に仕事をする予定だったが、どうにもモチベーションが上がらなかった。俺は5月の予定をすべてキャンセルした。


体調は悪かったが、良くなりたいという気持ちもなかった。鬱といえば鬱なのかもしれない。そんな中で、救いようのなく暗い思想家、イヴァン・イリイチの著作 を何冊も熱心に読んでいた。寝る間も惜しみ、気がつくと朝になっていることも多かった。そして、ますます俺は暗くなった。厭世観の限界に挑むような思いがあったのかもしれない。


ほとんど家に引きこもる生活だったが、Mさんによるビジネスコーチングだけは続けた。そこでは大切な気づきが得られた。俺が本当に望んでいるのは、気の合う仲間との知的な対話なのだと知った。


「1回、計画を全部捨てたらどうですか?」


そんな提案も嬉しかった。実は、計画を作ってそれを遂行するというパターンに自分を当てはめることに対する嫌悪感が増殖していたからだ。そんなものはサラリーマンがやることだ、と。


もどかしさ。やりたいことをすぐに行動に移せない体質。いらなくなった古い戦略が習慣化しているのだと思った。俺はこの「ためらい」という体質を打破しなければ前に進めない。そう考えた。


月末には病院にも行った。内科医は精神科へ行けと行った。精神科医は内科で良く調べてもらえと言った。また、別の内科医は別の精神科医を探せと言った。現代医療とはそんなものだと知っていたが、むかついた。


2011 年7月8日。大学病院のY教授は、俺に処方すべき精神科の薬は無いと言った。睡眠薬も貰えなかった。この日、俺はとあるバーでのイベントに参加した。俺は、シャンパンや寿司を皆にふるまうなど大いにはしゃいだ。この日のイベントとは美女勢揃いというイベントだったからだ。そんな中で、一本のメールが来ていることに気がついた。それは、老舗の経済雑誌からの取材依頼だった。俺はキッチリ0時に店を出て、タクシーで家に帰った。


家に帰ると、パソコンがネットに繋がらない。電話も不通になっている。何とかWIFIでつないで、メールに返信を送った。NTTと連絡をとり、朝には修理の人が来てくれた。装置の老朽化というのが結論で、新しい装置に取り換えて作業は終わった。


日曜には趣味のサークルがあり大阪へ行った。夜はいつもなら仲間と食事をするのだが、俺は別行動をとり、タクシーで帰った。普段は電車を使うのだが、とても疲れていたのだ。


月曜日は朝から電話取材に応じた。その日に大手出版社から手紙が来た。俺は前途が開けるようで、気分が高揚した。


水曜日は体調が気になり、内科で総合的な血液検査をしてもらった。HIVや梅毒も調べた。5月以降、白血球が1万を超えており、町の病院で可能な全項目を検査してもらった。


その日、タクシーで昔行っていた美容室に行った。美容室には数年振りに会うマネージャーのHさんがいた。待ち時間が長いようなので経済雑誌を買い近所の喫茶店に入る。そこでもいきなり雑誌社の編集部に電話をするなど、明らかに普段の俺ではなくなっていた。ふと「夏は夏休みだ」と思った。そして、その気分で髪を茶色に染めた。


7月23日、同居している母を食事に誘い高級な中華料理屋に行った。俺は牛バラ肉と青菜のオイスターソース飯など、いろいろとオーダーした。もちろん金を出すのは俺だ。食事の途中でウーロン茶を注ぎにきた店員に母が言ったひとこと「ありがとう」に俺は切れた。どうしたら、そんなに上から目線の「ありがとう」が言えるのか。この人は何様のつもりなのか。俺は「その傲慢な態度は何だ」と言い、グラスの中のノンアルコールビールを母の顏のど真ん中にぶっかけた。俺は財布から2万円を出して机の上に置き、店を出た。その日、俺は遅くに家に帰ったのだが、母はいなかった。どうやら出ていったようだ。


俺は家にいるのが不気味で、荷物をまとめタクシーに乗った。大阪を目指したのだが泊めてくれる家は見つからない。仕方なく、とあるバーに行った。俺はそこで眠ってしまった。起きたら午前4時だった。とにかく寝られない日が続いていたのである。マスターがNというホテルをとってくれた。俺は6泊ほどここに泊まろうと思った。事件はここから始まった。


7月24日の朝。睡眠不足ながら8時には目が醒めた。ラウンジでコンチンンタル・スタイルの朝食を取り洋服などを買いに出かけた。眠りたいのに眠れない。俺は睡眠時無呼吸症候群という病気を持っていて、シーパップという空気を送り込む機械のマスクを使用して眠らないといけない。これが面倒なのだが、つけると楽なのでやめられない。この機械は、以降シーちゃんと呼ぶことにしたい。


さて、昼過ぎにホテルに戻り少しうとうとしていると、机の上のマックブック・エアから音が聞こえてきた。どこかの部屋の電波が漏れていたのか、それとも幻覚だったのか、俺は狙われていると思い込んだ。エレベーターホールに行くとボタンが使えなくなっている。仕方なく非常階段で4階から降り、貴重品をすべてフロントの金庫に預け、キャリーバッグを持ってホテルを出た。新しい宿泊先を探す必要があった。


深夜、俺はタクシーで大阪駅前のSHというホテルにチェックインした。とにかくシーちゃんを連れて歩かないといけないので荷物が大変なのだ。それに本当はHIというホテルに泊まりたかったのに、タクシーの運転手が間違えてSHになったことが不快だった。電波系とでもいうのだろうか、私は電波が気になってホテルの部屋のテレビを電源から抜いた。シーちゃんをセットすると、マスクの部分が煤のようなもので黒く汚れている。これは毒に違いないと俺は思った。そしてシーちゃんをバスルームに移動させて横になった。


インソムニア、つまり不眠症。結局眠れない。俺は荷物を置いて24時間営業のファミリー・レストランに向かった。とにかくSOSのサインを誰かに出さないといけない。午前8時。俺は辞めた会社のオフィスのそばのマクドナルドにいた。午前9時を待って会社に電話をし、会って欲しいとお願いしたのだ。


ここからがトンチンカンだった。応接室に案内された俺は、総務部長と法務担当2名と話をしたのだが、なんと弁護士を紹介してもらっただけで終わったのだ。この時、医務室に連れて行ってくれていたら、と思うと残念でならないが、会社も家族の問題には介入できないし、したくないという判断も分らないではない。とにかく俺はその弁護士は知っているので、後日の話とし、会社を後にした。


俺は再び大阪に戻り、英会話学校のスタッフをしている女性を呼び出した。これも得体の知れないSOSの筈だった。ホテルSHのチェックアウトを助けてもらい、シーちゃんをキャリーバッグに入れた。この時はまだ、数千万円の退職金を持っていた。危ないと感じ、カードや印鑑の紛失届を出した。とにかくシーちゃんを使える状態にしないといけない。俺は神戸のU病院を目指した。本当は介助人として英会話学校のAさんについてきて欲しかったのだが、仕事中ということで断られた。後日、この時の俺は凄い形相をしていたと聞かされた。


電車で神戸に向かったのだが、芦屋でどうしても体調が悪くなり下車した。駅のデパートの事務所で休ましてもらったのだが、救急車は呼ばなかった。30分ほど休んで、俺はタクシーでU病院に向かった。


ただ、どうしようもなくタイミングが悪かった。診察は午後5時から。まだ、午後3時前だった。待てなかった。荷物を近所の顔見知りの薬局に預けて、一度実家に戻ろうと考えた。


しかし、狙われているという妄想は消えない。タクシーは危険だと判断して歩くことにした。真夏の昼間。1時間近く緩やかな坂道を歩いた。駅前のイタメシ屋に入ったが水がぬるくて不快だった。それから知り合いの小さなカフェに行き、冷たいコンクリートの上で30分ほど横にならせてもらった。そして夕方の5時前、実家に着いた。実家には母がいた。


畳の八畳の部屋で俺は倒れ込んだ。


「もう死ぬ。生きている意味ない」


俺がうわ言を繰り返すと、母は精神科救急に問い合わせの電話をし、それから病院とタクシー会社に電話をした。この手回しの良さの理由を俺が知るのは数年後のことだった。


俺はMという精神病院に連れて行かれ、入院となった。保護室という窓もない隔離室に入れられ、今日が人生最後の日なのだなと思った。ここで殺されるのだろうと思った。しかし、俺は死ななかった。


俺が精神病院に送り込まれるまでに何があったのか。それは当時のことを調べようと、2014年にカルテの開示請求を行ったことで判明した。簡単に経緯を言えば、俺は1998年に大阪に単身赴任となり、1999年に一人暮らしのワンルームマンションで発病した。躁うつ病と診断されての私傷病休暇を繰り返し、2001年に母が一人で暮らす実家に転居。以降、入退院を来り返しながらもサラリーマンを続け、2011年2月に50歳で会社を辞めた。その間、一貫して大学病院のY教授が主治医だった。母も昔は、絶対にY教授から離れてはいけないと言っていた。


そのY教授が2011年7月8日に寛解(治った)と診断したのだ。薬も使っておらず、診断は妥当だったに違いない。しかし、母は困った。会社を辞めた息子との同居では世間体が悪いし、このまま実家にいられると困ると思ったに違いない。


カルテによると、寛解の診断後すぐに母はY教授に電話し、俺の病状が良くないと告げている。さらに、7月24日には俺が転院を希望しているという嘘をついて、3ページにわたる詳細な診療情報提供書を書いてもらっている。しかも、同日の診療でY教授は母に「精神科救急について説明し、安易に利用することのないよう強く指示した」とカルテに書いている。ここで母が大学病院とY教授に嘘をついて裏切ったのである。


さらに、調査によるとこの頃、警察や保健所にも頻繁に相談に行っていたようだ。後日会った、保健所の相談員からは「母から聞いていた話とまったく違う人だ。あの時は、今にも殺されるようなことを言っていた」と聞かされた。とにかく母は俺を精神病院に入院させようと考えていた。目的は不鮮明だが、この意図だけは明白だろう。


7月25日、母にとって幸運なことに俺が実家で倒れた。これ幸いとタクシーを呼んでM精神病院に入院させた。もちろん俺はM精神病院のカルテも入手しているが、その驚くべき内容を書くのはまだ早い。時計通りに話を進めよう。


7月27日、俺は病院の喫煙室で煙草を吸う許可をもらえた。また、電話もかけることが許可された。ただ、財布も携帯も母が持ち帰っており、貴重品が何もかも無くなっていた。私は父に電話をし、タバコの差し入れを要求した。同日の午後3時に父が病院に来てくれることになった。


俺はいろいろと考えた。初めての病院。母が医者に金を渡して俺を葬ろうとしているのではないのか。さらに、背後で何らかの組織が動いているのではないのか。この病院にいては拙いと思った。そして、面会人に紛れて病院から脱走した。それほどに俺は正常だった。


もちろん金は持っていない。まず、タクシーを拾って、途中で知り合いのカフェに寄り事情を話して5000円を借り実家に向かった。鍵は持っている。家に入ると、ダイニングのテーブルの上に、俺の財布と携帯、そして小銭入れやカードケースが無造作に置いてあった。しばらくすると母が帰って来た。何事もないように普通に会話をした。


家の電話が鳴り、母が出た。後日取り寄せたカルテからすると、脱走したM精神病院からだった。母は「今は本人がいるので話ができない」と言って電話を切った。信じられない。なぜ、本人がいたら話が出来ないのだろう。とにかく、Nホテルにある荷物と超貴重品を取りに行かないといけない。俺は行き違いになった父のことも忘れてしまっていた。


やらなければいけない事は他にもあった。薬局に預けたシーちゃんの修理と回収、金融機関の口座やカードを止めておくこと。各種アポイントのキャンセル。携帯からいろいろな人に電話をした。親友のO君がシーちゃんを取りに行ってくれると言う。俺は母とタクシーでNホテルに荷物を取りに行った。そうだ、脱走しなければチェックアウトも出来なかったのだ。とても、ほっとしたのを覚えている。


1泊は実家に泊まったのだが、室内に誰かが入った形跡があるなど不信な点が多く不気味だった。おれは再びホテルを転々とすることになる。


2011年7月30日、俺は芦屋のTホテルから大阪の巨大ホテルNへ移動した。Nホテルは中心街から離れており、夜は僻地だ。しかも、24時間営業の店が施設内に無い。ルームサービスもだ。これは地獄だった。結局30日は眠ることが出来ず、31日も眠れそうになく、深夜に例のバーのマスターに電話で相談した。マスターは仕事を従業員に任せて、メルセデスで大阪まで飛んできてくれた。もう、日付は8月1日に変わっていた。


とにかくチェックアウトせよとの意見に従った。そして、二人で車に乗り24時間営業のチェーン店で食事をして打合せをした。朝を待って大学病院に行くか、いったん実家に帰るか。マスターは実家に戻ることを勧め、私を家まで送ってくれた。時間は午前3時過ぎだったと思う。俺は御礼として、とりあえず10万円を渡した。


詳細は省略しよう。午前9時、俺は自宅で警察に保護され、M精神病院に連れ戻されたのだ。その時の俺は何の話も知らないのでいろいろな想像が駆け巡った。どこかで政治団体か宗教団体の地雷を踏んだのではないかと思った。従って、何も話をしないことが賢明だと考えた。


M精神病院では大きな会議室に俺、複数の医師、看護師、ケースワーカー、警察が集められた。どんな話がなされたのかは記憶にない。ただ、あまり質問もなく、私からは何も質問しなかったと記憶している。カルテ記録を読むと、T医師は「会話可能」と書いている。


しかし、驚くべき記録はカルテではなくケースワーカーが書いているPSW(精神保健福祉士)記録だ。母が俺について何を語ったのか。この記録を読んで俺は愕然とした。父の名前が漢字ではなくひらがなにされている。妻の名前はなく10年以上別居中とある。さらに子供の名前がない。冗談ではない。この年の4月に4人で食事をしておいて音信不通とはどういうことか。さらに、私は高校時代に4件の精神病院に行ったと書いているがそんな事実は全くない。長年の東京勤務の話が欠落していて、性格は大人しく、いじめられていたとなっている。こうなると虚偽を越えて妄想とか創作に属すると思ったが、医者はそれを信じたに違いない。さらに、数日前に取り寄せている診療情報提供書は渡さずに、通っていた病院まで別の大学病院にしている。さらにさらに、同日付で俺の保護者を妻から自分に変える手続きを裁判所で行っている。これが犯罪に問えないところが悔しい。


結局俺は1ケ月の医療保護入院と1ケ月の任意入院となり、貴重な2ケ月を無駄にした。大事なアポイントがいくつも飛び、フリーランスとしての命を絶たれたのも同然となった。


退院後はもちろん大学病院に行き、減薬治療が始まった。そんなに仲の悪い母親との同居は良くない、実家を出ろと指示された。私は駅前のマンションを借りて引っ越した。そこが、新しい住居兼オフィスになった。私はまだ、研究者兼コンサルタントだった。もっとも、仕事の依頼は来なかったが。

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