ムッツリな君にまた明日

こみちひろ

どこへ行くこともできない君は

 それは突然に、何の前触れもなく、僕らに苦しみと悲しみを与えた。

 ムッツリ商会から長期休業の知らせが届いたのは、昼休みが始まってすぐのこと。

 彼の席を見ると、ひとり卓袱台にお弁当を広げ、淡々と箸を動かしているように見える。寡黙な彼がどんな表情を隠しているのか、僕にはまったく想像がつかないけれど、僕らにとって大切で尊いお宝たちの流通がストップしたことは大きな痛手だった。

 いったい何があったのか? 教室の中はそんな空気で覆われていたのに、当のムッツリーニからは何の説明もないまま、昼休みは終わりを迎えようとしている。

 閑散としているわけではないのに会話は少なく、死んだような教室。静かな昼休み。

「ガタッ」

 それがかえって他の雑音をうるさくしていた。風で音を立てる窓ガラスの音に、身を竦めてしまうくらいには。

 そして、そんな中でも普段から寡黙な彼は、傍目だけならばいつものように沈黙を守っている。友達だからこそ気付いてしまうひとつの異常さによって、僕らの目には「普段通り」を努めているように映っていた。

 今までの彼は、何を考えているかわからない「寡黙」というキャラクターでありながら、しかし非常にシンプルな考えを持ち、それを推察することは容易だった――寡黙にエッチなことを考えているに違いなかったから。

 でも、今は彼の考えを読むことができない。彼は今日、今の今まで、カメラのシャッターを切ることも鼻血を見せることもなく、不気味なほど静かに過ごしていた。

 需要と供給の関係が壊れてしまった今、消費者たちは混乱するばかり。ただ、このまま一週間も経てば混乱は不満へと変わり、いずれ暴動が起きてしまうかもしれない。

 だって僕たちは思春期の男の子なのだから、エッチな写真の一枚や二枚がかかっていれば友達を殴る理由には十分というものだ。

 そんなことが起きないよう、僕たちがまだシリアスな感情を保てるうちにムッツリーニとコンタクトをとらなければいけなかった。

 いつもお馴染みの――ムッツリーニだけが欠けた――メンバーで囲まれた僕の卓袱台は、筆談で使われたルーズリーフで埋まっている。どう声をかけ、何を言うべきか、ああでもないこうでもないと悩ませていた。

 僕や雄二は馬鹿だし、ムッツリーニはスケベだけれど、何も事情を知らない僕たちに理由はわからないけど、何かよくないことがあったのはわかる。だからみんなも、何とかしたいと思うんだ。

「どうした?」

「何か悩み事?」

 そう言うのは簡単だけれど、その言葉だけで解決したためしがない。その言葉は便利で危険だということに、高校二年生の僕たちはなんとなく気づいていた。

 散々悩んだ挙句、出来上がっていくのは段々筆談が面倒になって汚い、もう解読不能な暗号文だけ。縛られた雄二が霧島さんの目を盗んで逃げようと這ったような――もといミミズの這ったような文章で消費されているルーズリーフは決してタダではない。

 最善の案が浮かぶのを、いつまでも待っていることはできなかった。

 どうにか対処しようと思っていることを察していた周りのクラスメイトが、いつまでも動き出さない僕たちを見てヤキモキし始めている。見渡さなくても、そわそわした気配が伝わってきていた。

 いいと思えるアイディアはなかった。でも僕は腰を上げる。雄二も仕方ないといった感じで、それでいて僕に託したというように頷いた。

 隣に立つと、もうみんな食べ終わっているのにムッツリーニのお弁当は半分以上残っていた。

「今日は写真、撮らないんだね」

 僕の声は確かに静寂を破ったはずなのに、このとき、周りの音はさらに遠ざかった気がした。

 みんなが、息を飲んだんだ。

 すぐに返事は来なかった。こちらに少し顔を向けるだけで、目を合わせてはくれない。元々たいして進んでいなかった箸を止めて、長い長い間が訪れる。

 できれば長期休業の理由を尋ねたい。でも何があるかわからない以上、核心に触れることでさらなる不利益がもたらされる可能性を考えると、遠回しに探っていくしかなかった。

「……カメラは、家に置いてきた」

 嘘だと思った。

 ムッツリーニがカメラを持ってきていないなんて、そんな話は誰も信じない。彼という人間を知っている人ならば。

 でも、仮に何かの理由でカメラ等が使えないのだとしたら、ムッツリ商会の休業というのも頷ける。なにせ新しい商品が手に入らないのだから。

「カメラが壊れたとか?」

 彼が所有しているカメラの台数は一台や二台じゃないから、そんなはずはないけれど、理由を知るにはこう尋ねる以外になかった。

「……違う。――もう、必要ないから」

 きっと、みんな聞いていた。そしてきっと、誰ひとり意味を理解できていない。少なくとも今、この瞬間は。

 チャイムが鳴り響き、換気のために開けていた窓の隙間から教室に、すっかりと枯れた木の葉が一枚滑り込んだ。

 僕の席から立ち上がる面々の間を、枯葉を運んだ風が緩く吹き抜ける。

 そのとき僕は見た。風が姫路さんと美波のスカートを少しだけ捲り上げるその瞬間、見えるか見えないかの胸が疼くそんな瞬間、ムッツリーニが見向きもせずに教科書をしまっている信じられない姿を。




 5限が終わり、次の授業までの一〇分間で僕はAクラスへ赴いていた。パンチラのチャンスに反応しなかった姿は雄二も目にしていて、何がなんだかわからないけれど事態は深刻だった。

「あんなのはムッツリーニじゃない……頼む、こんなことお前にしか頼めないんだ。ムッツリーニを正気に戻してくれ」

 あそこまでスケベだった状態が正気と言われたら疑わしいけれど、彼を理解し得るのも、解決できるのも、同類なら可能性があると思ったから。

「……わかった」

 それだけを言うと、ムッツリーニに一番近い彼女――工藤愛子は、何も言わずFクラスの方へ走って行った。

 このことは彼女にとっても、むしろ彼女が一番ショックを受けたのかもしれない。事情を話してからは、工藤さんから普段の人をからかうような素振りは消えていたから。

「俺たちも行くぞ」

「うん」

 追うように僕たちも走り出す。途中で一度トイレへ寄り、彼女はFクラスの扉を開けた。静かに開けたはずだけど、なぜか滑りの悪い引き戸の音は酷く響いて聴こえた。

「ムッツリーニ君……」

 胡坐をかく彼の前に立った彼女に迷いは見られない。僕らのお願いはムッツリーニにエッチなことを仕掛けてほしいということ。僕たちはムッツリーニに鼻血を噴き出してほしいし、気持ち悪くローアングルでシャッターを切ってほしい。

 つまりは、いつものムッツリーニに戻ってほしかった。

 だから今、工藤さんはスパッツを履いていない。スパッツを履いていても卒倒していたムッツリーニが生パンを見たら死んでしまうかもしれないけど、もう雄二でも他の手を思いつくことができなかった。

 別にムッツリーニを重体にしたところで根本的な解決にはならないけれど、まずはムッツリーニが僕らとの間に作った距離を元に戻したい。その思いに工藤さんは応えてくれた。

 でも、このままじゃFクラスのいやらしい視線に晒されてしまう。僕の行動は速かった。先ほどAクラスで調達したビニール袋から布を取り出し、廊下に放り投げる。

「ああっ! なぜ廊下にこんな可愛らしいパンツが落ちて!?」

 一斉に廊下へと出ていこうとする哀れな男ども。それは雄二のパンツなのに……僕はパンティだなんて言った覚えはない。ただ、あとでゴミ箱から回収して霧島さんに返さなければ。

 隣で雄二が「任せるんじゃなかった」と言っているけどおかしい。僕は視線を外す役割を完璧にこなしたはずだ。

 騒がしさは廊下へと移り、僕らのもくろみ通り教室の中は僕ら関係者だけになる。

 そして、タイミングを見計らって工藤さんはスカートの裾をつまんだ。僕は息を飲んだつもりで生唾を飲み込んでいた。でも姫路さんと美波が僕の目を塞ぎにかかる。やめるんだ、ここまできてそれはない。

 抵抗しながら雄二を見ると、いつの間にか来ていた霧島さんにもう目を潰されたあとだった。

 しかし、そんなワチャワチャした攻防は無意味に終わっていた。工藤さんがたくし上げようとした腕を掴んで、ムッツリーニは制止していたから。

「そんなこと……軽々しくすることじゃない……」

 ムッツリーニが手を放すと、しばらく放心気味に立ち尽くしていた工藤さんは無言のまま教室を出ていった。その顔は血の気が引いていて、声をかけることができなかった。

 良き友人であるとともに、良きライバルとして存在していたムッツリーニはいなくなってしまった。その喪失感は想像に難くない。

 僕らの間にも似た感覚が走っていたのだから。




「もう、必要ないから――」

 放課後、僕はその言葉を呟いたりしながらまだ考えていた。

 パンチラを阻んだムッツリーニ。なぜあんなことをしたんだい? 君はどこに行ってしまったの? もう君の鼻血を見ることはできないの? 僕には君が何を考えているのか、想像もできないよ。

 それと、姫路さんと美波には声をかけずに僕と秀吉を教室に引き留めた雄二の考えも、僕にはわからない。

「どういう意味だろうね」

 そう零すと、卓袱台を指でトントンしながら、どういうわけかイラついた様子の雄二が舌打ちしながら言った。

「呑気に構えやがって、まだわからないのかお前は」

 頬杖をついてため息交じりに話す僕の姿は、確かに呑気な態度に見えるかもしれない。でも、とても背筋を伸ばしていられるような心境じゃなかった。

「じゃあ何か気付いたんだね?」

 すると雄二は僕に向けて、人差し指と中指の二本の指を立てた。しかたなくスマートフォンで写メっておく。なぜか人差し指をおろして中指を立てられた。

「二つ、俺が立てられるのは二通りの予想だけだが、ひとつはエロを辞めざるを得ない何らかの事情がある」

「普通はそう考えるのが一般的な感覚じゃの」

 こんな陳腐な推測ならわざわざ女子を排除した意味はない。なら、真打は二つ目の方だろう。

「もうひとつだが……ムッツリーニは『もう必要ない』と言ったな」

 僕は頷く。聞き間違えなんかじゃない。確かに言っていた、カメラはもう必要ないと。

「必要だったものが必要じゃなくなるのは――どんな時だろうな」

 秀吉の方を見ても首を傾げられるだけで、やっぱり僕の勘が悪いってだけじゃない。要領を得ないその言葉に、雄二はヒントを出すように付け加えた。

「……大は小を兼ねる」

 大は小を兼ねる。そんな……、だってつまりそれは、いままでのエロが小さく感じるほど大きなエロを得たということになる。

「そう、ムッツリーニは……アイツは、どのくらいかはわからんが、俺たちに黙ってワンアップしやがったんだよっ!」

 隣を見ると秀吉が『?』を飛ばしまくっていた。秀吉はそのまま育ってほしい。

「だから今日、これから俺たちは大きなエロの秘密を暴き、あわよくばアイツからそのエロを奪取する!」

「わしは帰ってもいいじゃろうか……」

 女子を遠ざけた理由はこれだったのか。これからと言うからには、どうせFFF団に尾行でもさせているんだろう。

 でも、本当にそうだろうか。僕はなぜだか、そんなふざけた話じゃないような気がしていた。




「やはり家にあるらしい。なら自分の部屋ってのはセオリーだ」

 雄二はムッツリーニの部屋の窓近くの壁に貼り付きながらそう言った。須川君からは直帰したことが報告されている。多分、部屋にいるだろう。

 雄二がコンパクトのような手鏡を取り出し、それを窓の隅に掲げて鏡越しに部屋の中を覗く。鏡が小さくて僕と雄二しか覗けないけれど、秀吉はもう興味がないようで見ようともしない。

 ゆっくりと角度を変えながら部屋の中を隅々まで見ていくと、予想に反して普通の部屋だった。そして、壁を背にして蹲るムッツリーニがいた。

 両手で頭を抱えて俯くムッツリーニからは、絶対に雄二の言ったようなことじゃない暗さと、誰にも話すことができないことを抱え込んでいるような雰囲気があった。

 部屋の隅の陰に潰されてしまうような、窓から入る夕日の光で心臓を刺されてしまうような、そんなムッツリーニがとても痛々しく見えた。

「雄二」

「ああ……」

 どんな事情があるか僕にはわからない。むやみに踏み込んじゃいけないことかもしれない。

 高校生の時に起きた悪い出来事なんて、大人になったら忘れてしまうんだろう。それが時間が解決するって意味なのかもしれない。

 でもきっと、このまま帰ったら明日の僕も明後日の僕も、きっときっと今日の僕を責める。

 だって、悩みがあったのなら悪ふざけもなしで、茶化しもなしで、心から力になってあげたいと思える友達だから。

 僕たちは玄関に回ってインターホンを鳴らした。

「はい」

 するとすぐに扉が開かれ、出てきたのはムッツリーニではなくムッツリーニのお父さんだった。

「えっと、君たちは康太の友達だったね」

 そして、僕らは言葉を失った。

 以前、何度か顔を合わせたことがある。しかし、今目の前にあるのは記憶とはかけ離れ、変わり果てたムッツリーニの父親の姿。

 主に頭のハゲ具合が。

「あ……ムッツリーニ」

 その後ろにムッツリーニが立っていた。そして、膝から崩れ落ちた。

「実は……実は……俺……父さんのようにハゲたくなくて……」

 はぁ? としか言えなかった。僕も雄二も秀吉も、多分どこかの陰で様子を見ているだろうFFF団も。みんな「はぁ?」という気分だ。

「……このままじゃ髪が……だから俺は……ムッツリーニ《寡黙なる性識者》を辞めなきゃ……いけないんだ……」

 雄二が「ああ」と、納得したように呟いた。

「エロいとハゲるってよく言うよな」

 ムッツリーニは頷いた。なら、パンチラのチャンスを無視したのも、スカートの捲りあげを止めたのも、お昼がワカメごはんだったのも、すべては髪のためだったっていうの?

「じゃあ頭を抱えていたのは!?」

「……頭皮マッサージ」

 僕らは大きな間違いしか犯していなかった。そして、父さんのようにハゲたくないとか、エロいとハゲるとか、目の前で言われ続けたムッツリーニの父親は今にも泣きそうだった。

「まぁ、冷静に考えてみればムッツリーニのことじゃ、こんなもんじゃろ」

 気が抜けて、何なんだよっ! って叫びたいと思った。

 でもどこかでホッとしていた気がする。本人にとっては譲れない問題かもしれないけど、結局はいつもみたいな馬鹿らしい問題だったことが、少しだけ嬉しくて。

 そのとき、空っ風が吹いた。そして、膝をついたままのムッツリーニは、正面に立つ僕らに鮮血を浴びせながら後ろに倒れる。

「あの……」

 その声に驚いて後ろを振り返ると、姫路さんと美波がいた。

「やっぱり心配だったので来ちゃいました」

 風がスカートを捲っていたのか、二人とも手で押さえていた。突然のパンチラを回避することはできなかったようだ。どれだけ辞めようとしても本質は変わらないということだろう。

「でも、もういつも通りっぽいけど」

 そう、やせ我慢はいつまでも持たないと思う。いずれは諦めて、いつも通り鼻血を出しながらシャッターを切る生活に戻るだろう。眉唾だと気付くまでハゲる不安を抱えながら、きっと普段の煩悩にまみれた生活を送り続ける。

 彼はどう足掻いても、ムッツリーニなんだから。

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ムッツリな君にまた明日 こみちひろ @pingpongplayer

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