第183話 策成らず

◆◇◆◇◆


◇1570年9月25日 夕刻

 遠江国 二俣城

 武田軍


 日が傾くのと同時に寄せられた知らせに、信玄は露骨に不機嫌そうな表情を見せた。


「駿河を狙うか、やりおる」


 数秒、両目を閉じた信玄の脳裏では、その船団が駿河を急襲する事と、そうなった場合の武田家の被害に想像を巡らせている。


(織田の方から事を構えるか。信じがたいが、先手を打たれるとなれば危うい)


 届いた知らせは二つ。


 一つは曳馬城を包囲する軍勢から、沿岸を進む船団があるという知らせ。

 もう一つは尾張の情報を収集していた諜報機関からの物で、尾張津島に志摩水軍が集結しており、駿河へ攻める手筈になっているらしい。という知らせだった。


 この二つを総合的に判断すれば、その知らせはどちらも正しく、駿河の危機が迫っているという事になる。


(ようやく安定し始めた駿河を荒らされるのは痛い)


 立ち上がるのと同時に両目を開けた信玄は、既にこの作戦を『失敗』と判断した。


「全軍、急ぎ駿河へ戻り沿岸沿いを固めよ。殿は各包囲軍から各々選出、人選は各大将に任せる。特に高天神の軍勢は焼津へ向かえ。掛川の軍勢は清水へ。それから小浜景隆へ海上で迎え撃てと伝えろ。喜兵衛、二俣の殿しんがりはうぬが務めよ」

「ハッ!」



◇1570年9月25日 夕刻

 遠江国 沿岸

 志摩水軍


 既に遠江の沿岸を中腹まで進み、明日には駿河湾へと向かうでろう位置まで進んだ志摩水軍では、あえて武田勢から発見されるように不可解なまでに沿岸を進んでいた。

 早船が主戦力であるために遠洋に出れない事は間違いないが、それにしても岸に近い。


「伊藤殿、せっかく急襲出来ると言うに何故に態々敵の眼前に出ねばならんのだ」


 どす黒く濁った東の空を眺めながら、九鬼喜隆は伊藤の指示で沿岸を進んだ事に納得がいかない思いでいる。


「そうですね。簡単に言うなら急襲しないからです。織田にとって武田は大事な同盟国ですから。戦はまずいでしょう」

「……? 何を申しておられる。いや、確かにそうじゃが」


 全く理解できないでいる九鬼に向け、伊藤は楽しげに言葉を続けた。


「夜の間に駿河湾に入るのは接触してしまう危険がありますから、夜はこの辺りで過ごしましょう。明日、明るくなったら出来るだけ駿河湾付近まで入りますが、武田水軍が見えたら直に引き返しますので、物見は怠らないようにして下さい」


 伊藤の計画に、この船団を武田水軍と戦闘させる気は毛頭ない。


 織田側から武田に攻撃を仕掛けてしまえば、それこそ織田の立場が危うくなる。現状は同盟国として、東の壁の役割となっているのだ。

 表だって戦闘行為が行われている訳ではないが、織田と武田の利害が既に交錯してしまっている事は誰の目にも明らかではある。しかしながら、実際に戦になるかどうかは微妙な段階でもあった。


 伊藤は津島に敢えて船団を停泊させ、態々妻であるお香を乗せる事で、噂が立つように仕向けた。その噂は、間違いなく武田信玄の耳に入る事になる。そこで船団を動かせば、武田家としては否応なしに対応せざるを得ない。


 だが、それと実際に戦闘行為を行うのとは別問題である。

 遠江を撤退する武田勢は、準備を整えた徳川勢の追撃により多少なりとも被害を出す。その後駿河を抑え警備していれば、直にでも稲刈りの時期となり、その時期が終われば冬がくる。


 志賀の陣が終わりを告げる事になる冬まで、史実通りに武田家を封じておく事が出来さえすれば、状況は憂慮する程の事ではなくなる。と伊藤は睨んでいるのだ。


(信玄さん、頼むから退いてちょうだいね)


 伊藤は慣れない船上生活に苦労しながら、武田軍の撤兵を祈った。



◇1570年9月26日 早朝

 遠江国 高天神城

 武田軍


 もたらされた撤退命令に、村上は動揺を隠せずにいた。


「やられた? 水軍……伊藤か?」


 着々と撤退の準備が進む中、村上は身じろぎもせずに状況の整理を行っている。


「クソがっ!」


 勢いよく蹴り倒した葛籠箱から、せっかく仕舞い込んだ備品が散乱する。


「まぁまぁそう荒れるなよ。あの伊藤が相手だ。次の機会を待とう」


 曽根の呑気な言葉は、村上の怒りに油を注ぐ結果となった。


「次? 次っていつだよ! ろくに歴史も知らねえでエラそうな事言うな!」


 言い返された曽根にしてみれば、村上は実に頭が切れ、弁が立つ。それを十分に信頼しているからこそ行動を共にし、前回のヒストリーも生死の境を共にしてきた。

 だが、不満が無い訳ではない。


「あのな、今は撤退しなきゃなんねーんだ。殿は? 退路は? お前が浮き足だってたら兵の士気に影響すんだよわかってんのか?」


 今までも危機的状況は何度かあった。その都度、曽根が命懸けで奮戦し、村上の危機を救っている。そして毎度、それがさも当然のような関係に不満を募らせていた。


「今回の殿はお前がやれよ。俺は焼津へ向かう」


 そのまま振り返ると、村上に目もくれず本陣を出ようとする。


「お、おい! ヨシオ! お前何言ってんだよ! 俺無しでやっていくつもりかよ!」


 まるで絶縁宣言を言い渡された気分になった村上ではあるが、曽根のほうは何もそこまでの事を考えていた訳ではない。

 だが、この状況でそう言われては、売り言葉に買い言葉となる。


「なあ、お前は頭がいいよ、口も達者だよ。でもそれはな、そこいらの連中と比べればって話だ。お館様や伊藤と比べりゃ、お前もただの人だよ。あまり過信すんじゃねぇ、正直ムカつくぜ」

「なっ!?」


 村上の渾身の一手『真・信長包囲網』は、伊藤が撃ち込んだ対抗策よって脆く崩壊。更には村上を混沌の中へと叩き落す程の効果を発揮するに至った。

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