第163話 姉川の戦い 壱

◆◇◆◇◆


◇1570年6月28日 早朝

 近江国 北近江 横山城

 織田徳川連合軍


 まだ空の暗い未明。

 織田信長の元に入った知らせによると、朝倉勢は大依山の陣を引き払ったとの事であった。


 越前に展開中の織田の諜報部隊によれば、朝倉勢は軍事責任者である景鏡が動かなかった為に戦意が低く、数も多くないという知らせも届いている。


 その他いくつかの情報を元に、織田信長はこの朝倉勢の動きを『撤退』と誤認した。織田徳川連合軍の多勢を前に、浅井朝倉勢は横山城の救援を諦めたと思ったのである。


 だがこの朝倉勢の動きに合わせるように、暗がりを利用して小谷城を発した浅井勢五千は、横山城を救援すべく南下。

 朝日が昇る頃には野村に布陣し、横山城を包囲する織田勢へ攻撃を仕掛けるべく準備を急いでいた。


「申し上げます! 朝倉勢、三田村へ布陣、浅井勢、野村へ布陣、間もなく渡河!」


 横山城の包囲軍に急報が届けられた時、既に浅井勢は渡河を開始していた。


「ぬかったわ。各隊、姉川で防げ!」


 信長の本陣から各所へ伝令が放たれるが、不意を突かれた大軍団という物はそう急に反転できるものではない。

 姉川を渡河した浅井勢に対し、織田勢は本陣を守備していた馬廻り衆が中心となって応戦。


 後の世に『姉川の戦い』と呼ばれる一戦が始まった。


 早朝から猛攻を仕掛けた浅井勢に対し、織田勢は本隊が直接その猛攻に曝される形となってはいるが、本隊は信長が厳選した若き勇将達で構成されている。

 馬廻り衆と呼ばれる彼等は、浅井の猛攻をよく防ぎ、時間の経過と共に徐々に押し戻す勢いを見せていた。


 その中心に、坂井政尚さかいまさひさとその嫡男、坂井尚恒さかいひさつねの姿がある。


「父上、川岸まで追い落とします!」

「応、ここは任せよ!」


 嫡子の勇ましい申し出に敵を薙ぎ払いながら答えた政尚は、味方の本陣と浅井勢の中間地点に陣取っている。ここが突破されれば本陣が敵の猛攻に曝される事になる訳だが、戦況は徐々に良くなっていた。

 未明からの行動で、浅井勢は徐々にではあるが疲労の色を見せ始めていたのである。そして、その疲労を見落とさない戦術眼を坂井親子は備えていた。


 織田の将として各地で武功を上げ、京では税に関する奉行まで務めた父政尚。

 織田信長が足利義昭を報じて上洛を果たした時、若干十四歳で参戦し武功を上げ、足利義昭から感状を受けた勇士である子尚恒。


 この親子が織田本陣の頑強な盾となり浅井の猛攻を凌いでるのだが、更には反撃に転じようというのである。

 無論、この坂井親子が守る地点以外でも浅井の猛攻は繰り広げられており、馬廻り衆含め各隊がその対応に追われている。織田本陣と浅井本陣との直線距離の間に、偶然にも坂井親子が陣取っているのわけだが、その状況にこの親子は奮起していた。


(このまま浅井の本陣まで押しかけてくれようぞ)


 尚恒はこれを比類なき功名を上げる好機と捉えていた。


「者共、この好機逃さば末代まで笑い者ぞ! 浅井を突き崩す、続けぇ!」

『応!!』


 一族郎党を含め、尚恒の周囲に展開していた手勢五百騎が気炎を上げる。

 父政尚は己の手勢千騎を以って、ここを守り通すべく周囲を叱咤しつつ、浮き足立ち始めた浅井勢を蹴散らしながら進む息子の背を眺めた。


(良き武者になりおったわ)


 その武勇もさることながら、尚恒は容貌も優れていると評判である。自慢の息子が織田の将兵として大いに活躍する事が、嬉しくてたまらない思いでいた。



 ――同刻、木下隊。


「急がんか! ほれ急がんか!」


 文字通り部下の尻を叩きながら、木下秀吉は横山城の包囲に若干の手勢を残して姉川を目指していた。


(こりゃつくづく運が悪い。手柄を取り損ねるぞ)


 包囲を受け持っていた地点の関係上、木下隊は姉川から遠い。

 既に佐久間隊、池田隊、柴田隊は姉川に広く展開し、数で劣る浅井軍の包囲するようにしながら渡河寸前である。


(ええんかの……いや、ええんじゃ)


 木下隊は姉川に向かってはいるが、正確にはただ姉川を目指しているという訳ではない。

 竹中重治の助言により、木下隊は入り乱れる味方の中をどうにかこうにか通り抜け、織田本陣と浅井本陣の中間地点に出ようとしている。

 そこは既に激戦地帯であり、そんな場所に飛び込めば隊列を整える事すら危ぶまれるが、それでも竹中がそう言うのであればそうするしかない。


「半兵衛! 本当にこれでええんじゃな!」


 何度自分に言い聞かせても言い聞かせ足りない程、秀吉は不安にさいなまれている。


 柴田隊、池田隊、佐久間隊は既に戦闘中だ。

 広く展開し、新たに戦線を作り、数で劣る浅井勢を包囲殲滅するための下準備に取り掛かっている。


「良いのです。敵の攻撃は今から始まります」

「今からじゃと? んじゃ今までのは何だ」

「そうですな、言うなれば『撒き餌』でしょうか。釣られてはなりませぬ」


 織田信長からの伝令により、横山城の包囲に手勢を残しつつ各隊浅井に当たれとの下知が下されている。

 横山城の包囲には丹羽長秀を主将とし、美濃三人衆が城兵が打って出てきた場合に備えて守備を固めていた。


(ぼけっとしておれば当たる場所を失うぞ)


 城を包囲するでもない、浅井勢を当て返すわけでもない。そのような事になれば叱責は逃れないであろう。


「者共、味方には気ぃつけえ! あまりごった返すでないぞ!」


 姉川へ向けて北上する味方の合間を縫って、半兵衛の言う地点へ向かう。ただでさえ叱責を受ける可能性のある行動が、更に味方を邪魔立てしたとあっては叱責では済まない危険もある。


(危うい賭けよ)


 木下は背中に異質な汗を感じながら、ただ祈るように策士の助言を信じて馬の腹を蹴った。



◇1570年6月28日 朝

 近江国 北近江 姉川

 浅井軍 本陣


 早朝から仕掛けた攻撃は、予想通り徐々にその勢いを衰えさせ、逆に織田勢の盛り返しが始まっていた。


「朝倉は」


 姉川を境に血みどろの戦闘が繰り広げられ、埋めく阿鼻叫喚を遠くに聞きながら、浅井長政は静かに覚悟を決めていた。


「ハッ、先程行軍を開始。間もなく渡河に入るかと」


 その報告に、浅井長政の傍らに備えていた重臣が舌打ちした。


「遅い、歩調が合わぬ」


 遠藤直経えんどうなおつね

 浅井長政が幼い頃から近習し、その知略と武勇を以って主を支える名将である。


 遠藤はこの戦に及んだ経緯について実に不満のある心持ではあるが、この無骨な気質の持ち主はだからといって裏切るような真似はしない。

 自身の思惑がどうあれ、主家の方針にどこまでも寄り添う覚悟である。


(やはり朝倉をたのんだのが間違いよ。なんと不甲斐ない)


 遠藤の目には、宗滴亡きあとの朝倉はどうにも頼りにならないとしか映っていなかった。先般の金ヶ崎についても、遠藤は最後まで朝倉に付く事を反対していたのである。


「喜右衛門」


 浅井長政は、自分のすぐ横で怪訝な表情を見せる遠藤を気遣った。家中の意向はどうあれ、この遠藤だけは最後まで織田と敵対する事を反対したのである。


「ご案じ召されるな。この喜右衛門、弾正忠のそっ首取って参ります」

「そうか、頼む」


 長政は遠藤の心境を勘ぐった自分を恥じた。

 この遠藤喜右衛門直経という男は、常に浅井家に、それ以上に長政に対して忠実であり、例え相手が何であろうとも体を張って守ってくれる人物である。 

 主従が心のやり取りをし終えた頃、浅井本陣に伝令が駆けこんだ。


「申し上げます! 今村氏直様、討死!」


 浅井家で中心的役割を担う将の討死が告げられた。

 しかし、これも予定通りである。彼の死は、本人は勿論の事、この場にいる全ての将が既に見越していた事だ。


 今村は寄せの将として、真っ先に織田軍に攻め寄せた部隊を率いてた。そして、彼はどれだけ押し返されようとも退かず、織田の反撃を出来る限り引き出す役割を担っていた。

 そして、引きずり出された織田の反撃に対し、己の命尽きるまで踏みとどまり、敵を本気にさせる役割を同時に担っていたのである。


 今村討死の知らせに、本陣に待機していた全ての将が席を立つ。


「行くぞ者共、奮え!」

『応!!』


 浅井長政の下知により各隊に戻った将兵は、すぐさま突撃を指示。狙うは織田信長の本陣のみ。一点突破にて信長の首を取る事だけを考えた、正しく捨て身の突撃である。


「よいか、敵は全て討ち捨てに致せ! 手柄は弾正忠の首のみ! それ以外は手柄とはせんぞ!」


 戦闘開始から三時間が経過しようとしていたこの時、浅井の本隊が野村の陣所を出る。

 それは火を噴くような勢いをもって進み、反撃に勢い付いて姉川に展開しその隊列を大いに乱していた織田勢に襲い掛かった。

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