第153話 金ヶ崎の退き口 壱

◆◇◆◇◆


◇4月28日 早朝

 越前国 木の芽峠

 織田軍 本陣


 二日と持たずに陥落した金ヶ崎城を後にした織田軍は、そのまま北上して北陸道を進んだ。木の芽峠を越え、越前の要所である府中と、朝倉家本拠地である一乗谷の両方を狙える地点で陣を構えると、昨晩に続いて早朝から軍議が開かれている。


 越前討ち入りに関する進軍路、兵站確保について意見交換がなされていた。


「なれば後詰め到着を待たずに府中へ向けて進むと」


 織田家本隊は琵琶湖西岸を北上し若狭に入り、丹後街道から越前に入った。その後を追うようにして越前に入った後詰め部隊は、敦賀郡を兵站地として確保する為に広く展開中である。


 僅か二日で金ヶ崎城を抜いた織田家本隊とはまだ距離があり、更には展開した兵を纏めてから木の芽峠へ向かうとなれば、それは相応の時間を要する。


「後詰めを待っておってはもう一日かかるぞ。朝倉方の備えが仕上がる前に府中へ寄せるのが得策じゃ」

「仕上がる前にと申されるが、既に府中方面の備え程度はなされておろう。進むとなればこちらも重々に警戒せねばなるまい」

「うむ。街道筋だけを進み長く伸びては危ういな。同時に一乗谷へ向かうという手もある。此方が一乗谷へ向かうとあらば、府中の備えなどしておる場合ではなくなるであろうよ」


 各々が存念を並べ、総大将である信長はただ黙ってそれを聞いているだけである。結局は信長が決める事ではあるが、意見を述べる事は許されている軍議である。

 信長自身、柴田勝家をはじめとるす将兵の意については十分に参考とした上で意思決定をするようにしていた。


 しかし信長が結論を出す前に軍議は中断された。軍議の場へ飛び込むようにして駆け込んできた伝令の言葉に、席に顔を連ねていた将達の表情が強張ったのは、まだ日が上がり始めた午前中であった。


「申し上げます! 浅井備前守様、織田討伐を掲げ湖東を北上中で御座います!」


 信長公記によれば、信長は当初この知らせを信じようとしなかったと記されている。

 しかし、次第に同様の知らせが舞い込むにつれ、事態は現実味を帯びてきた。


「是非もなし」


 そう言って立ち上がった信長に、居並ぶ将兵は脈拍を早めた。


 金ヶ崎城か、もしくは木の芽峠を起点にし、北に朝倉、南に浅井を迎え撃つ。兵力は申し分なく、やってやれない事もない。しかし自領国内ならばともかく、ここは敵地である。


 地の利という物はその場所の特性だけでなく、その地に慣れ親しんでいるか、どの程度の範囲まで地形を把握しているか、更には、現地の住民たちからどの程度の協力を得られるかまでを含む。

 その点では、如何に堅城金ヶ崎城を起点にしたとしても、お世辞にも織田側に地の利があるとは言い難い。

 その上、織田軍窮地の噂が広まった状態で長期戦となれば、手薄になっている美濃、尾張、畿内、三河まで不安定となる可能性も大きい。


 「やる」のか「退く」のか。

 織田の将達は信長の次の言葉を生唾を飲み込む思いで待った。


「勝正、殿しんがりを務めよ。竹竿、勝正に付け」

「ハッ!」

「ハッ!」


 勝正とは、摂津三守護の一人、池田勝正である。

 そしてもう一人、竹竿と呼ばれた男は、摂津三守護の纏め役として配置されている金田健二郎正利である。


 竹竿とは、無駄にひょろ長いが用途が広く何でも熟せるという頓智の効いたあだ名で、今年に入ってから信長は金田をそう呼んでいた。今までは丸坊主であったのだが、髪が伸びてあと少しで髷を結えるところまで髪を伸ばしている金田の状況を見て、呼び名を改めたのだ。


「十兵衛、敦賀を固めよ。後詰が纏まるのを待って引け」

「ハッ」


 更にもう一人、越前若狭の国境にあたる敦賀郡の備えに明智光秀を指名した。広く展開した後詰め部隊を収集し、撤退を見届けろと言うのである。


 後詰めの撤退指揮は森可成が取るので、光秀は森への状況報告と信長の撤退を伝えるのが役目となり、必要であれば敦賀郡に残って敵の追撃を食い止め、後詰め部隊を速やかに撤退させなければならない。


「禿げ鼠、金ヶ崎まで戻れ。勝正が戻るまでの殿ぞ」

「ハハッ!」


 木の芽峠から織田軍全体の殿を務める事になった池田と金田。

 敦賀郡に展開した後詰めの殿に明智。

 それとは別に、昨日落としたばかりの金ヶ崎城の守備に木下秀吉が指名された。


(こいつあとんだ貧乏くじだなや)


 勝正が戻るまで、という事は、織田本隊の撤退が済むまで残れという事である。本隊が速やかに行動してくれれば良いが、本隊が手間取った場合は自分達が盾にならなければならない。


 信長は撤退の意と殿の指名を終えると、特に撤退路等の指示等は出さず直に馬に跨って駆けた。信長のこの行動を予見していた松永久秀は、自隊の指揮を子の松永久通に任せると、本多正信と共に兵を率いずに信長を追走した。


 この動きに織田軍が続々と続く。


 金ヶ崎で殿を務める木下隊六百騎、敦賀郡の味方の撤退に責任を持った明智隊千騎。彼等も再び木の芽峠を越え、昨日見た景色を見ながら金ヶ崎城、さらにその先の敦賀を目指した。



◇同日 昼

 越前国 木の芽峠

 織田軍 摂津衆


「ハッハッハ、これは貧乏くじを引かされたな」


 池田勝正は豪快に笑い飛ばしているが、どう見ても笑える状況ではない。

 木の芽峠から見て取れる眼下に広がる地平には、蟻の大軍に似つかわしい朝倉勢が押し寄せてきているのである。


「然に非ず。これは功名を上げる好機と思うべきですな」


 答える金田もまた、実に愉快そうに笑みを浮かべた。

 金田はこの年、池田勝正から一字を頂戴して金田正利とその名を改めていた。金田の元には池田勝正の妹が出仕しており、この戦で手柄を上げ、褒美として夫婦になる許可を得ようという話にまでなっている間柄である。


「健二郎よ、ぬしの言う功名とは如何様にする。敵を討ち散らすか」


 押し寄せる朝倉勢を木の芽峠で押し戻してしまえば、それは確かに武名を轟かせる働きとなるであろう。だが、それは至難の業である。


「敵を討ち散らすかどうかが問題じゃありませんよ。殿の役目を見事に果たせるかどうか、それだけっす。本隊の兵には指一本触れさせないつもりでやりましょう」

「ケッ、分かりきった事を」


 金田の言葉にそう言いかえした勝正ではあるが、心の中では全くの同意見である。


(良き男よ。ここで意固地になるようでは先が無い)


 殿を務めるとなれば、それは決死の覚悟が必要となる。意固地になれば、この場で最後まで踏みとどまって死ぬという選択をする者もいるのが事実だ。

 だが、殿の役目とは「踏みとどまる」事ではない。


「味方の撤退をお助けする。この一点に集中で!」


 金田と勝正は互いに深く頷きあった。

 後世、金ヶ崎の退き口と呼ばれる戦いが始まったのである。

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