第149話 三日という策
三太夫の妻を抱きかかえ、文吾はそのまま抜け道を進む。
「おうい、織田の衆よ」
出口が見えた所でそう呼んだ文吾は、三太夫の妻を抱えたまま出口へと姿を現した。
「止まれ、何者じゃ」
「へっ、百地三太夫の手の者で御座います。この女子は百地三太夫の妻で御座います。急な病にて、恥を忍んでこうして参りました。どうかお助け下さいまし」
大男が抱えてきた女がぐったりとしている。
不信である事に変わりはないが、このまま見捨てるわけにもいかない。ましてやその女は百地三太夫の妻というのだ。
暗がりでよく見えないが、確かに着ている着物は高価な物に見える。降伏を勧めている以上、これを無下にするわけにもいかないと判断した織田の兵は、一先ず女を寝かせることが出来る兵の詰所へと案内する事にした。
兵の詰所であれば、多少の騒ぎがあってもどうにでも出来ると判断したのである。
「仕方ない、こっちだ」
その間、文吾は既に見張りの人数を把握していた。
(こんな小さな穴に三十人近くいるのかよ、こりゃ危なかったな)
流石に屈強の侍三十騎を相手に、逃げ切れる自信はない。
案内されるままに山道に分け入る。文吾にも、この先には織田の詰所があるのであろう事は容易に想像が付いた。
(どこかで雲隠れせねばな……)
そう思案を巡らせている文吾の後方を進んでいた兵が声を上げた。
「血? おい待て、この血は何じゃ!」
短刀で胸を刺したので当然である。文吾が抱える三太夫の妻の衣服からは、大量の血が滴り落ちていた。暗闇で目立たなかった為に発見が遅れたが、先程通った篝火近くの石畳に血が点々と連なっている。流石にこれには気付いた織田の兵が声を上げたのだ。
(チッ、まあさっきの場所よりはマシか)
この辺りの織田兵は、目算では十名足らずである。文吾には十分逃げ切れる自信があった。
「いや、お侍さま、これはですな」
言いながら、接近してきた兵に向って三太夫の妻の亡骸を放り投げた。
「うわっ、こ、待て!」
一瞬狼狽えた兵の視界が捉えたのは、既に真っ暗闇の山中に分け入ろうとしている文吾の後ろ姿である。
「追え! 追うのだ!」
百地屋敷付近で鳴り響く鉄砲の轟音は、当然この山中にも木霊していた。その音を聞きながら、文吾は必死に走った。
(情けない主などいらぬ、俺は俺の腕で生きてやる。いつか子分を沢山持てるような男になってやるぞ)
石川村を飛び出して百地丹波に奉公し、この時伊賀を抜け出した文吾。この時はまだ十五歳である。持って生まれた屈強な巨体は、年齢に似つかわしくない思考までをも文吾に与えていた。
――翌朝
昨晩一睡も出来なかった百地家の面々は、広間に集まりこそしたが皆一様に暗い面持ちでいた。
命懸けの厳しい訓練を積んできた面々であるため、一晩や二晩寝ない事など、どうと言う事はないが、流石に一晩中鉄砲の音に苛まれ続けるとは想像もしていなかった。
そして、更に空気を重くしているのが三太夫の身辺に起きた事件である。
井戸から引き揚げられた愛妾の遺体。
更には奥の間の抜け道の扉が開け放たれ、蓄財もろとも妻の姿が消えていた。更には文吾の姿も見当たらない。
妻の侍女から、昨晩井戸のあたりへ愛妾を呼び出すように命じられた事を聞き出したが、その侍女もそれ以上の事は一切知らぬ様子であった。
こんな時に、下人風情に自分の妻を盗られたばかりか、愛妾を殺されたのだ。その上周囲は織田に包囲されている。三太夫自身、もう全てが馬鹿馬鹿しく思えてならなかった。
(降伏さえも馬鹿馬鹿しくなってきたわい)
ところが、三太夫の心情とは反比例するかのように、広間の面々からは降伏も已む無しとの声が上がり始め、それは次第に全員へと広がっていた。
昨晩の鉄砲は、男衆より女達の精神を完全に打ち砕いていた。
死ぬ覚悟はあったはずなのだが、楓の話を聞いているうちに煌びやかな着物や美味なる膳に興味を示し、自分もいつかそんな着物を手にしたい、いつかそんな膳にありついてみたい、と未来への希望を抱いてしまったのだ。
そしてなにより、鉄砲に撃たれて自分の体に無数の穴が開く事までは想像していなかった。
自分か、もしくは夫の手によって命を絶つ程度の想像しかしていなかった女達。それでも夫が華々しい最期を迎えるのであればそれも良しと思っていたが、あの鉄砲の音では夫も然程の働きは出来ないだろうと思い始める。
いっそ恥を忍んでもここは生きるべきだと思い始め、降伏したほうが良いという気持ちなる。そうなれば後は夫を説得するだけで、本気で説得するとなれば女の武器はいつの時代も「涙」である。
結局、殆どの男連中は妻に泣きつかれ、降伏へと傾いていた。
そんな広間で決定打を当てたのが楓である。
降伏出来ないのであれば自分は役目を果たせなかった事になるので「どうか斬ってほしい」と言い出したのだ。
無論、降伏させるためである。
屋敷に籠った面々は、楓が幼いころから見知った顔ばかりだ。
誰一人として死んでほしいとは思わない。全員を助けるために乗り込んできた楓には、相応の覚悟があった。
(ほんの二日前まで打って出ようと口々に申していた連中が、こうも一様に降伏を論ずるかよ)
頭を悩ませた事が馬鹿馬鹿しい思いでいる三太夫は、結局この騒動が丸く収まる事に一つの安堵感を覚えながらも、どうしても納得のいかない事があった。
(俺だけ妻と妾を失ったか。なんと馬鹿馬鹿しい独り相撲よ)
■同日
伊賀国名張
織田軍 石島本陣
結果的に全て上手く行った事になる。
ちょっと寝不足だけど、それは皆さん同じだろうから我慢する事にしよう。百地屋敷の方々が誰も死なずに降参してくれたのは喜ぶべき事だ。
「いやはや、修一郎殿は鬼才じゃ。こりゃあ、かの孔明と言えど敵わぬであろうよ。名付けて『包囲三日の計』なんてのはどうだ?」
櫓の上で肩を並べる九郎様が、百地屋敷からぞろぞろと出てくる人達を眺めながらそんな独り言をつぶやいた。
そんな九郎様に、俺は囲碁で全く敵わない。
「あまりかっこよくないですね。ま、これにて伊賀は平定、戦も終わりですね!」
「何を他人事のように申して居るのだ。洋太郎が総大将としてこの伊賀をひと月足らずで平定したのだぞ。おぬしの手柄じゃ、お、ぬ、し、の!」
バシバシと俺の背中を叩きながら自分事のように喜んでくれている九郎様の笑顔は、この時代に友達が出来た事を実感させてくれた。
「照れますね、では私の手柄ですので、九郎様の手柄は無しですね!」
「な、阿呆な事を申すな! 俺の働きもしかと兄上に報告いたせよ? 百地屋敷の包囲は先鋒を務めたではないか!」
「特に戦は無かったじゃないですか。だから九郎様の手柄は無しです無し。ずーっと囲碁ばっかり。あ、農家の娘に手を出した事は伏せておきますのでご安心を」
「おのれ、何故知っておる洋太郎!」
高い櫓の上で藁ながらじゃれあっていると、はしごを登って来た金田さんがひょっこり顔をだした。
「あれ、お取込み中でしたか? まぁアレです。伊藤先輩が軍議しますよって呼んでます! じゃ!」
この日、軍議の席では予め打合せしていた通り、伊賀の諸侯や参戦してくれた伊勢、尾張、美濃の皆さんに俺から丁寧にお礼を申し上げ、心ばかりの品々を提供させて頂いた。
滝川さんの所の使者を務めて亡くなった方のご遺族には、俺から温泉ツアーを無料ご招待する事にしたし、必要であれば郡上でお仕事も提供するつもりでいる。
そんな感じで褒賞関連は大体俺が決めて実行した。
問題は今後の伊賀の管理だが、年内については仁木さん、藤林さん、百地丹波さん等がしっかりと打ち合わせの上で行ってくれる事になり、一応の抑えとして大原兄弟と和田くんと粥川くんが居残りに決まった。
郡上の諸勢力の皆さんは流石に居残りという訳に行かず、一旦郡上へ戻る。俺と伊藤さんは手勢を率いて一度岐阜へ入り、信長様へ伊賀攻めの報告という大仕事が残っていた。
「伊藤さん、今回も流石でしたね。俺、伊賀は伊藤さんに治めてもらうつもりなんですけど、それでいいですか?」
そう、一応考えた今後の事だ。というか、伊賀を伊藤さんに治めてもらう事が、一番楽。俺が何も考えなくて済む方法である。
「いいですけど。香は連れていきますよ? 優理は……どうするかな。落ち着くまでは、とか言ってそのまま大原か郡上に置いて行きます」
伊賀の情勢が落ち着くまで、という話でもあるだろうが、伊藤さんはきっと『再接続』の可能性を捨てきっていないのだろう。
伊藤さん自身はもうこの時代で生きるつもりでいるし、金田さんも、つーくんも、そして俺も。今更「帰れるよ」とか言われたところで帰る気に何てなれやしない。
でも、女の子達には無事に帰って貰いたい。それが愛情ってやつだ。
「そうですよね。あまり簡易キャンプからは離れて欲しくないですよね」
伊賀の秋風を体に受けながら、伊藤さんは小さく頷いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます