第129話 半兵衛の誤算
香さんだけじゃない。この場にいる人間は殆どがそれを知りたい。
どうやら信長さんと木下さんはこの話をよく分かっているようだ。何やら二人でこそこそニヤニヤしている。
(いいオッサンが内緒話かよ)
そんな偉い人を他所に、竹中さんの説明が始まった。
「香、亡き遠藤慶隆殿との離縁の後、出家もせず再嫁する事も無く、今に至るのは何故じゃ」
「え……」
竹中さんの問に、香さんは言葉を詰まらせてしまった。そんな香さんに竹中さんが語りかけていく。
「北方城の事も、郡上八幡城の事も、苦労の多かった事であろう。それでも出家せずにこうしておるのは、女子としての望みがあるからではないのか」
ここで竹中さんは体を信長さんのほうに少しだけ向けた。
「伊賀守殿を恨んでおるのであればそれはそれでよい。ならば伊賀守殿の娘としてではなく、弾正忠様の娘としてであればどうじゃ。その胸の内、遠慮なく申せるのではないのか」
この会話の何処に泣くポイントがあるのかさっぱり分からないが、切れ者は多くの言葉を必要としないのだろう。俺にはさっぱりわからない何かで、香さんが顔を抑えて涙を流し始めた。
「香よ、弾正忠様がこれほどまでに心を砕いておられる訳もわかるな? そなたは幸せ者なのだ、さぁ」
竹中さんに促され、前に進んだ香さんが信長さんの目の前で両手を付いた。
「勿体なき事、この香には過分な沙汰で御座います。感謝の致しようも御座いませぬ」
涙声で言葉を発した香さんに対し、信長さんは手にした盃を一口に煽った。
(あれ? お酒飲むんだ)
続けて、空になった盃を無言で香さんに指し出した。
香さんがそれを受け取ると、信長さんがそれに酒を満たしながら口を開く。
「面倒な事はせぬ。これにて親子の契ぞ」
香さんは無言で頷くと、杯に満たされた酒を口に当てて傾けていく。
「いや~目出度い! この猿がひとつ舞いましょうぞ!」
突然始まった意味不明な猿踊りに、張りつめていた空気が一気に和らいだ。ひとしきり舞が終わった頃合いで、信長さんが空になった杯を自分の目の前に差し出した。
「伊藤! こい!」
「ハッ」
落ち着きはらった雰囲気の伊藤さんは、流れるように信長さんの目の前で傅いた。
「夫婦となれ」
(ふぁっ? 信長さんが伊藤さんに求婚?)
伊藤さんは少しの間を置いて杯を受け取る。
「恐悦至極、この伊藤修一郎、我が身朽ち果てるとも織田家に忠誠を誓いまする」
その時、広間の隅で食器が派手に倒れる音がした。そこには、青白い顔をした優理が茫然と立ちつくしている。
「あ……あの、ゴメンナサイ、お先にし、失礼します!」
それだけ言い残して広間から逃げるように出て行ってしまった。
「優理……ったく、唯たのむ」
「はいっ」
美紀さんの指示で唯ちゃんが優理を追って行った。
そりゃショックだろう。
昨日から一緒に住む事になった憧れの伊藤さんが、翌日にいきなり同性婚である。
(この時代って男色はあるって聞いたことあるけど、まさか結婚までするとは思ってもみなかったなぁ)
伊藤さんが手にした杯を一口に煽り、信長さんと夫婦の契を交わしたようだった。
(てか伊藤さん、やっぱりそっち系だったのか)
木下さんが伊藤さんに駆け寄ると、肩を叩きながら声をかけた。
「伊藤殿は大出世ですな! 織田家の御一門衆ですぞ! この藤吉郎またまた出し抜かれましたわい!」
一門衆扱いともなれば、とうとう伊藤さんまで俺から離れて行ってしまう。
その事実だけでも吐き気がしそうなのに、伊藤さんと信長さんの夜の絡みを想像したら吐き気では止まらずに吐いてしまいそうだ。
伊藤さんは深々と信長さんに頭を下げている。その伊藤さんに向って信長さんが声をかけた。
「祝言は岐阜じゃ。温泉つああが終わったら岐阜へこい」
言いながら、信長さんの表情はとても幸せそうだ。ニヤリと笑って酒を煽っている。信長さんはお酒を飲まないと聞いていたので、とても意外な光景だ。
「ハッ、なれば一つお願いが」
伊藤さんが改まって信長さんにお願い事があるらしい。
もう俺達から離れてしまうと思ったら、伊藤さんの行動すべてが他人に思えてならない。男色の事を考えてしまったから余計であろう、なんだか急に遠い存在になってしまった。
「申せ」
「ハッ」
信長さんの許しを得て、伊藤さんがお願い事をする。
「養女と申せども主家筋にあたる織田家御息女との婚儀、現状の石島家の陪臣には過分な沙汰で御座います、つきましては」
伊藤さんは体を起こして信長さんをまっすぐに見据えた。
「次なる戦では石島に兵をお貸し与え下され。此度の事が過分な沙汰と言わせぬだけの働きをお約束いたします」
言い終わり、再び頭を下げる伊藤さん。
(ん? 織田家御息女との婚儀って、ありゃ?)
「ハッハッハ! 似合いの夫婦じゃ。ハッハッハ! しかと承知した! ハッハッハ!」
いつになく高笑いする信長さんの目の前で、伊藤さんの隣に移動した香さんが両手をついて深々と頭を下げていた。
その近くでは、信長さんにバレないような位置で、木下さんが何やら竹中さんに険しい顔で小言を言っているのが見えた。
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