第73話 稲葉山城包囲

◆◇◆◇◆


◇1567年 8月1日未明

 尾張国

 小牧山城 織田家


 東の空が明るくなり始めた頃、小牧山城に陣太鼓が鳴り響いた。城内は騒がしく色めき立ち、地平線が赤く染まり始める頃には城下にも多くの兵が集まっていた。


 日の出と共に小牧山城の大手門が開く。


 城から弾丸のように飛び出したのは馬の背には、漆黒の鎧に身を包んだ男の姿があった。その男を追うように、少し遅れて馬上の武者達が駆ける。


 最初に飛び出したその男が、このような形で飛び出すのはこれで二度目であった。


(七年前と同じか……ここで遅れては末代までの恥よ!)


 漆黒の鎧を追う集団の先頭を行く中年の男は、ここで遅れてはなるまいと大音声を発した。

 柴田勝家、その人である。


「者ども、急ぎ殿を追うのじゃ! 墨俣まで一気に駆けよ!」


 柴田勝家の号令で、城下に集まった大兵団も移動を開始する。


 号令をかけた勝家は、自慢の愛馬に跨ると「駆けよ!」と叫びながら馬を操る。


 当時の軍容において、総大将が単騎で先頭を切る様に移動するような事は、余程の事がない限りあり得ない。そのあり得ない行動を取る主を、重臣達は必死に追った。


「七年前を思い出しますな!」


 丹羽長秀が馬を並べて走らせながら、柴田勝家に大声で語りかけた。


「あの時は完全に後れを取ったからな、此度はそうはいかんぞ!」


 七年前、大兵団を以て尾張に侵攻してきた今川義元に対し、織田家は僅かな兵力で奇襲を成功させ、見事に今川義元を打ち取った。あの時も、総大将は単騎で城を飛び出し、配下の侍達は大慌てで後を追ったのだ。


 世に言う、桶狭間の戦いである。

 その時、柴田勝家は出発が大いに遅れた。


(此度は先んじて準備もしてきたのだ、絶対に遅れは取らん)


 現在、織田軍随一の勇将として名を馳せ始めた柴田勝家にとって、大一番となる稲葉山城攻めで後れを取るわけにはいかなかった。


 その頃、美濃墨俣城すのまたじょうは上を下への大騒ぎになっていた。


 墨俣城というのは、城とは名ばかりの急造された砦である。


 世に言う墨俣一夜城の伝説が残るこの城は、尾張から北上してくる織田の大兵団をすっぽりと迎え入れる事が出来る程、大きな城ではない。


 当然ながら城の周囲に兵が集まる事になるわけだが、この墨俣城を預かる将は、この機会に自分の名を売り込もうとする知恵が働く。


「者どもよぉ~く聞いてくれや。殿は必ず先頭を切って参られる。それはしっかりとお迎えすりゃぁいいだけで特に問題はないでよ」


 この将の狙いは、後から追いついてくる大兵団にある。


「三万の兵が後から来るでよ、水なり握り飯なり山ほど用意しといてちょ。もう戦は始まっとるでな!」

『応!』


 小さな気遣いや気配りが、人の心を掴んで離さない事をこの将はよく知っていた。


「城の米蔵は空っぽにせい、全部出しちゃってちょ!」


 墨俣城は未明から炊飯に没頭した。

 やがて日が昇り、朝日が眩しく降り注ぐ時間になった。


「殿、大殿が参られます」


 配下の知らせが届くと、その直後に漆黒の鎧を見に着けた男が険しい形相でやってきた。小牧山城を真っ先に飛び出した、織田信長である。


「禿鼠!」


 織田信長は、城を預かる将を見るなり一言だけ発した。


「ハッ!」


 間髪入れずに返事をした将は、直に男の元に駆け寄ると、地に膝まづいた。その将は、猿の様な面相を持つ小柄な男で、奇妙な事に右手の親指が二本あった。


 織田信長の短い問の意味を瞬時に把握して、望む答えを即座に返す。ただ名を呼ばれただけで、報告すべき事項を把握したのだ。


「美濃三人衆より、人質を受け入れる準備をしてほしいとの申し出が御座います」


 この特殊とも言える奇異な能力に関しては、織田家中にあってこの将が最も長けている。

 故に、元は名字さえも名乗れない身分であったにも関わらず、織田信長に重用され、現在では敵との最前線における城の守備を一任されるまでに出世した。


 木下藤吉郎、その人である。

 その木下の言葉に、織田信長は満足そうに頷いた。


 約束通り美濃三人衆が織田に付いた事で、稲葉山城が落ちるのも時間の問題となるだろう。

 しかし織田信長、稲葉山城の攻略に時間をかけたくないと思っている。


 最悪の場合、稲葉山城を落として美濃を平定出来ればそれでいいのだが、織田信長はどうしてもやりたい事がある。


(北勢を平らげる時間がほしい)


 織田信長はこの戦に珍しく大兵団を動員している。

 その意図は、広報活動であると思われる。


 この織田信長は、日本史上において圧倒的に先鋭的な思考の持ち主で、情報という物に価値を見出した最初の日本人ではないかと推察できる。


 今回尾張から動員した兵力の総数は三万人を超えた。


 織田信長がこれまで動かしてきた兵力の中で最大規模である。


 この広報活動の意図は、その大兵力を以て堅城稲葉山を電光石火の如く落とし、そのまま返す刀で伊勢に雪崩れ込んで北伊勢地方の諸豪族を織田の傘下に収める所にある。


 その圧倒的兵力と迅速な動きは、瞬く間に日本中に知れ渡る事になるだろう。

 それにはまず、稲葉山城を迅速に落とさなければならない。


 逸る気持ちを抑え、織田信長は再び木下藤吉郎に言葉を下した。


「敵方は」


 木下藤吉郎にしてみれば、その質問に答える事だけが何より面白くない。

 今回の稲葉山攻略に際して、木下自身の目覚ましい働きを曇らせる唯一の存在になりかねないからだ。

 かといってその報告を誤魔化せば、後々とんでもない事態になりかねない。そんな馬鹿な真似をするような男でもなかった。


「ハッ。大谷田の長井道利は郡上に滞在中であり、敵方は連携が取れぬ状態にて、動こうにも身動きが取れぬかと」


 織田の大兵団が墨俣に到着し、稲葉山の城下に雪崩れ込み、その城を包囲するのに要する時間は然程長くないだろう。その前に斎藤側が抵抗する動きが取れる状態に無い事が、この報告ではっきりとした。


「なればよい」


 織田信長は一言だけ残し、続々と集結し始めている軍に戻っていった。


 その背を見送った木下は、大きなため息を吐き出した。


「石島っちゅ~んは大したもんじゃな。此度は長井を引きずり込んだ手柄が一番やもしれんぞ」


 この稲葉山城の攻略は、年単位の努力を積み重ねてようやくたどり着いた現状である。


(手柄を横取りされてはたまらん)


 墨俣城の築城を成功させたのも、敵の目と鼻の先にある墨俣城を何度となく防衛してきたのも、数か月に渡って美濃三人衆との交渉窓口になってきたのも、全てこの木下藤吉郎である。


「兄上、そうは言うても問題は囲んだ後じゃ。長々と抵抗されては大殿も面白くなかろう」


 木下には弟がいる。

 異父兄弟のこの弟は、木下とは違った雰囲気の人物で、背は高く男前である。兄とは違う意味で人柄が良く、兄からも同僚からも、周囲からも信頼が厚く、勇敢で頭も切れる。


 確かに弟が言う通り、攻略自体が手こずってしまえば、手柄を横取りされるとかされないとか、そんな小さな話では済まないであろう。


「小一郎よ、城攻めで手柄を立てる算段を整えておけ」


 逆を言えば、攻略に際しても大きな手柄がありさえすれば、自身の評価はさらに上がる。


 木下は弟にそう命ずると、自身は城の外で大兵団を迎える事にした。木下が城門を出ると、既に墨俣城の周囲の原っぱに大勢の織田軍が集結しており、墨俣の兵が飯や水を配り始めていた。


「たぁ~んと食ってちょ! これから大事な戦だでよ!」


 木下は猿の様にあちらこちらを駆け回り、ひたすら陽気な声を上げては織田の大兵団を隈なく回り、握り飯や水を届けた。


 早朝から駆け通しで墨俣まで到着した兵たちは、その顔に疲労の色を浮かべていた。だが、木下の陽気な声や配られた気遣いに感謝し、すぐにその士気を取り戻していた。


「味な真似をしよる」


 信長はニヤリと笑うと、右手を高く上げた。


「焼き払え」


 信長の号令で長良川を押し渡った織田軍は、そのまま城下の井ノ口に雪崩れ込み、あらゆる地点に火を放って焼き討ちにした。

 すでに町民商人達は逃げ出しており、僅かに残った斎藤の兵が細やかな抵抗を見せた程度であった。


「申し上げます! 柴田勝家様、稲葉山城大手門を封鎖!」


 信長の元に、柴田が敵城に到達した事が知らされる。


「囲め」


 信長のその一言を承知すると、伝令は直に駆けて柴田の元に向う。


 同日、八月一日の夕方には井ノ口の町はほぼ壊滅し、丸裸になった稲葉山城は織田軍に包囲されてしまった。

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