第72話 欲望の双眼

 酒席を後にした長井は僅かな供回りを引き連れ、関への帰路を急いだ。


 ところが、郡上八幡城を出てしばらく南へ馬を走らせると、謎の兵団に行く手を阻まれて捕われてしまったのである。


「何者じゃ! 儂は長井道利ぞ! 誰の手の者じゃ!」


 長井の僅かな供回りは全て討ち取られ、縄を掛けられた長井は無理やりに連行された。



 同日、深夜。


 最勝寺という寺に移送された長井の目の前に、蝋燭の灯りに照らされた不敵な笑みを浮かべる男がいた。


「おのれは」


 老体の長井は既に、その体力を使い果たしたようにグッタリとしていたが、その男を睨む気力はどうにか絞り出せていた。


「ふっ……そう睨むなご老体。斎藤の時代は終わったのよ、これを見よ」


 長井の前に開いた形で捨てるように置かれたのは、美濃三人衆の一人、稲葉良通いなばよしみちからの書状であった。


 長井は後ろ手に縛られていたが、置かれた書状が開かれていたために全文に目を通す事が出来た。書状は稲葉から遠藤に宛てられた物で、遠藤の身を案じて寄せられた物であった。



 既に抵抗難しく、織田から安堵の義を賜った美濃三人衆は揃って織田信長の軍門に下る事になったのでお知らせする。郡上で交戦中の石島は織田方の将であるから、これ以上の戦闘をせぬよう強く勧める。

 もし石島に被害が及ぶような事があれば、織田の怒りを買いかねない。そうなった場合には庇うのは難しいので、お覚悟の上で事に挑まれよ。

 たとえ大人しく織田に下ったとしても、郡上の安堵については難しいだろう。既に織田から石島に対して郡上領有を認める約条があるらしい。

 ついては、小領はあるが郡上大和の安堵についてはこちらからも願い出る事が出来るので、その覚悟が出来たら知らせてほしい。



 現状を包み隠さず記し、その上で遠藤慶隆の身と事後の領有まで心配してくれている温かい書状であった。

 しかし稲葉のその心遣いは、書状と共に途中で別の人間に拿捕されており、遠藤に届くことは無かったのだ。


「こ……このような」


 長井は絶望していた。

 稲葉良通が書状に記した日付は七月三十日、つい昨日である。


(儂が郡上に入ったからか)


 長井は自分の行動が軽率であったと後悔していた。


「そう絶望されるなご老体。その首は我が郎党の肥やしとなる」


 ギラりと光るその両目には、底知れぬ欲望がうごめく。


「だまれ下郎。おのれ如きに……この長井道利が討てるものか!」


 この言葉は長井が発した最後の言葉であり、最後の意地であった。


「ふん、そのような状況で何をほざくご老体」


 刀を抜いた男が一歩、また一歩と長井に近づいてくる。


「斎藤の重臣として名を馳せるも、ここが貴様の死に場所よ」


 すでに長井は力なく項垂れ、言葉を発する事は無かった。


「さっきの威勢は何処へ行った。もう諦めたのかよ」


 男は刀を振り上げた。


「俺の名を教えてやろう、冥土で存分に言いふらしてくれ」


 その言葉に、長井はその男の名を聞いて呪ってやろうという想いになった。


(呪い殺してくれようぞ)


 長井が最後の力を振り絞って顔を上げると、その男と目があった。その両目に欲望を滾らせた男はニヤリと笑い、自分の名前を口にした。


「鷲見、弥平治」


 その名が、長井の聞いた最後の言葉になり。


 直後に首に走った鈍い痛みと。


 自分の首から上だけが床に落ちた音が、長井の聞いた最後の音になった。

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