第71話 賢過ぎる妻

◆◇◆◇◆


◇同年 7月31日夕刻

 美濃国

 郡上八幡城 遠藤家


 郡上八幡城では、細やかな酒席が設けられていた。


「明日の夜になれば石島の首が届くのだ、待っていればよい」


 上機嫌で酒を煽る長井に、遠藤も深く頷いていた。昼過ぎに入った情報によると、姉小路頼綱に毒を盛った長井の間者の荘助は、その場で姉小路軍の者に斬り殺されたらしい。


 同時間帯に姉小路軍に出入りしていた商人や遊女屋等、複数の人間に金を握らせて得た情報なので間違いないと判断していた。


「誠に見事な働き、荘助とやらには十分に報いてやらねばなりませんな」


 遠藤は長井の杯に酒を注ぎながら、見事に毒を飲ませた荘助を褒め称えた。


「無論じゃ。荘助の息子は侍に取り立て、妻女はしかるべき者に嫁がせてやろう」


 時折笑い声が響く酒席に、遠藤の妻であるこうがやってきたのは、既に日が落ちる頃であった。


「何をしに参ったのだ」


 遠藤は、この整い過ぎた顔立ちを持った妻をあまり好きではない。実際にこの酒席を取り仕切っているのは遠藤の侍女であり、遠藤の寵愛を一身に受けているお玉という女性である。


 それに遠藤は今、妻の姿を見たくなかった。

 それは長井としても同じ想いである。

 香の父、安藤守就の寄こした書状の内容があまりにも気に食わなかったためだ。


「父上から書状が寄せられたと聞きましたが」


(言うたのは誰じゃ……面倒な)


 遠藤は露骨に嫌な顔を浮かべた。


「あれは儂に宛てられた書状、うぬには無関係よ」

「然様で御座いますか。では何故、このような書状がわたくしの元に届いておるのでしょうか」


 無関係と言い切った夫に対し、香は父から自分宛に寄せられた書状を突き付けた。


 遠藤は香の手からその手紙を引っ手繰ると、その場で開いて目を落とす。そこには、遠藤に宛てられた手紙の内容とほぼ同じ内容が記されており、さらには「すぐに郡上を発って戻れ」とまで書かれている。


「このような所で酒を飲んでいる場合ですか? 斎藤は滅びるのを指を咥えて見ているおつもりですか?」


 香の言葉に、長井が怒りを見せる。


「斎藤が滅びるだと!? 慶隆の妻と言えども、伊賀守いがのかみの娘とあっては容赦せぬぞ!」


 伊賀守とは、この時期に安藤が自称していた官職名である。当時の武将は、実際に朝廷から官位官職に任官されていた者も少なくはないが、その大半は自称である事が多い。

 実際の官職と名乗る官職が合致し始めるのは豊臣政権になる頃であって、この当時はまだ自称の官職名が通称として持ちいられる事が多かった。


 長井の怒気に曝されながらも、香は凛とした声音で言い返す。


「今織田が動けば敵同士、お斬りになるも人質とするもお好きになされませ! ……然れど、このような所で酒など煽っているようでは斎藤は間違いなく滅びまする!」


 香は頭が良く、そして時折、男勝りな気質を見せる女であった。その事も、遠藤が香を好きではない理由の一つである。


「なんじゃと! おんな! そこになおれ!」


 長井が立ち上がり、刀に手をかける。


「父上殿! お留まりくだされ!」


 遠藤が長井の前に割って入ると、香を厳しく叱責した。


「女の身でありながら何を口出しするつもりだ! その存念次第では今この場で手打ちとなるのは覚悟の上か!? 下がれ、今すぐ下がれ!」


 特別な感情を抱いていないとは言え、妻は妻である。良くやってくれているのは遠藤も認める所だ。


 どんなにお玉を寵愛しようとも、すでに数ヶ月に渡り手も触れず、寝所も共にせずにいる夫に対し、嫌味の一つも言わないこの妻に遠藤なりに感謝はしている。


 今この場で長井に斬り殺されてしまうのは快くない。


「下がりませぬ!」


 香は下がる所か、一歩前に出ると言葉を続けた。


「何故、織田と石島が通じているとお疑いにならないのですか。なぜこのような、この八月を目前にした時期に寄せて参ったのかを考えないのですか!」


 香から発せられた意外な言葉に、長井は少し冷静になった。口を開く事なく、目を細めて香を睨む。

 睨まれた香は、それでも臆す事なく言葉を並べた。


「織田が動く前に戦を決しようとなされているのでしょうが、そもそも石島が織田と申し合わせの上で動いているのであれば、今頃織田は稲葉山に向うておるやもしれません」


 それほど難しい話ではなかった。

 単純に、織田と石島が時期を申し合わせた上で動いているのだとすれば、長井は完全に陽動に引っかかった事になる。


 既に織田の動き出しは決まっており、それに合わせて石島が南下してきたとすれば。

 それに釣られて長井が郡上に入ってしまったとすれば、今この瞬間こそまさに、織田が動き出す好機となる。


 本来であれば、動くにしても準備にある程度の時間を要すのが当然で、米の刈り入れを控えたこの時期に大軍を動かすとなれば尚更である。


 だとしても、そもそも時期が決まっていたのであればその限りではない。


 準備していた軍を電光石火の如く発し、一気に稲葉山に向うことが出来るであろう。そして、その稲葉山を守る重臣達の扇の要が、いま郡上にいる長井なのだ。


 となれば抵抗は難しい。

 美濃三人衆は挙って織田に寝返るであろう。

 長井は香の言葉に色を失い、無言で振り返ると部下に向って叫んだ。


「吉田川で陣を張っている兵をすぐに連れ戻せ!」


 言うなりドカドカと大きな足音を立てて部屋を出る。


「殿、これが……香の最後の奉公で御座います。お健やかにお過ごしください」


 香は遠藤に一礼すると、自身が安藤家から連れてきた侍女達と共に部屋を去ろうとする。


「ま、待て! 北方きたかたの城に戻るのか?」


 北方城は、香の父である安藤守就の居城である。


「さて、戻れるかどうかも怪しい雲行きです。お玉、殿のお側は頼みましたよ」


 香は遠藤の傍らで酒の相手をしていたお玉に声をかけると、足早に酒席を後にした。

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