第66話 吉田川の夜戦

◆◇◆◇◆


◇1567年 7月29日未明

 美濃国

 郡上八幡城 東北東 吉田川



 まだ夜が白み始める前、漆黒の闇を進む兵団がいた。


 長井道利は自ら部下達の指揮を取り、吉田川を上流に向けてさかのぼると、浅瀬を探させている。


「殿、この辺りが宜しいかと」


 部下の報告に頷いた長井は、自らがやって来た方向を振り返った。


 長井が陣を張った山腹は既に遠くなっていて、未だに煌々と篝火が炊かれている様子は、敵の夜襲を警戒しているように見えるであろう。その山腹の陣を守る兵二百を残し、長井軍は七百騎をこの夜襲に投入している。


(ふむ、上出来よ)


 その麓の向こう側に位置する姉小路軍からは、時折、郡上八幡城方面に向かって松明が往来している。姉小路軍の物見は、徹夜で郡上八幡方面を警戒している様子であった。


(烏合の衆を相手に挟撃など不要よ)


 長井はニヤリと笑うと右手を上げた。


「押渡れっ」


 声の音量を抑えながらも、部下達の背中を押すような威厳を以て命を下した。

 漆黒の闇夜をもろともせず、吉田川を押し渡る。


(夜明けには決着が付いているであろうよ)


 元来夜襲とは、少数精鋭で相手に痛手を与え、その士気を挫くのが目的であるのだが、今回は全く違った。


 今の長井は夜戦であるとか昼戦であるといった区別を付けてはいない。ただ単純に、敵を壊滅させるつもりでいる。


「殿、参りましょう」

「うむ」


 軍勢の先鋒が吉田川を渡りきると、既に川の半ばまで進んでいる中軍を追うように、長井道利の本体が渡河を開始。先に渡りきった先鋒が周囲に展開し、安全を確認しながら進むと、それによって出来た空間に渡河を終えた中軍が押し込められていく。



 全軍が渡り切ると、隊列を整えながら南下を開始。

 吉田川東岸を南下し、石島軍の陣所に接近していた。


 しかしその南下の途中、目の前の一帯に突如として灯りが燈り始めた。その一帯は、吉田川東岸では最も狭く、西に吉田川、東に山腹が迫る狭所である。


「気づかれたか?」


 そう思った長井軍の将は、自分の心配が的外れだった事に気付く。灯された灯りは次々と広がりを見せ、狭い東岸を埋め尽くしてしまったのだ。


「気付かれたどころではない……読まれていたというのか」


 一瞬怯んだ将の元に、長井からの伝令が訪れた。


「伝令! 押し通れとの事!」

「……応! お任せあれ!」


 その将は自らの手勢が揃っているのを確認すると号令をかけた。


「者共! 押し通るぞ!」

『応!』

『応!』


 長井軍の先鋒隊は、待ち伏せに動じる事なく、煌々と照らされた一帯に向けて進軍を開始した。


 狭所となっているその一帯は篝火が立てられ、辺りは昼のような明るさになっていた。辺りには柵が張り巡らされ迷路のような状況になっていたが、石島軍の姿は全く見えない。


「こけおどしか、進むぞ!」

『応!』


 先鋒隊に続き中軍も灯りが燈された一帯に侵入を開始すると、先鋒隊からの現状報告が長井の元に届けられた。


「何? ……敵がおらんだと」

「ハッ! 妙な形状に柵が張り巡らされてはおりますが、敵の姿はなく、篝火に助けられてわが軍は悠々と進軍しております」


 伝令の顔には余裕さえ見て取れた。


(布陣の不利を悟った別府四郎が我らに付いたか?)


 自分達を手引きする者がいるとすれば、別府四郎しか思い浮かばない。


(石島が北側を守るために張り巡らせた柵であるのは間違いないが……)


 その柵を基本とした防衛陣も、兵がいないのでは機能しない。



 篝火に助けられた長井軍は、柵を避けながら悠々と進む。その一帯は、ついに長井の肉眼で確認できる距離まで迫ってきた。


「こうまで明るければ柵などただの飾りではないか」


 考えられるとすれば、防衛を担当していた別所四郎が陣を放棄して引き払った可能性である。


(ただ柵だけを設置した可能性も無くは無いが……ぬるい)


 闇夜に立ち並ぶ柵であれば多少は進軍の妨害にもなろうが、篝火に照らされていて、その上は兵もいない。


「火を燈した連中は何処へ行ったのだ! 別府四郎の手の者であるならば何故、知らせを寄こさん!」


 その時、闇夜を切り裂く音に長井軍の勇士たちは戦慄した。


「伏せよっ! 矢じゃ!」


 カツカツと硬い物が足元に刺さる音に混じり、兵の悲鳴が上がる。


「敵じゃ!」

「敵襲~!」


 誰からともなく叫ぶが、敵の姿は見当たらない。


 煌々と明るい一帯に入り込んだ長井軍からは、その外の漆黒の闇夜にいる敵を目視する事が出来ないのだ。


「どこからじゃ! 矢の方角は!」


 止むことの無い矢の雨は、次々と兵をなぎ倒していく。


 この状況で敵の位置を把握するには、自分達がこの明るい一帯から抜け出して目視するか、もしくは受けた矢を元に敵の弓兵が潜む方角を算出するしかない。


「ひ、東かと! 東の山腹よブッ」


 先鋒隊の将に矢の方角を示した者の後頭部に、矢が深々と突き立っていた。


「おのれっ……東じゃ! 山腹に寄せよ! 討ち取れ!」



 先鋒隊が東の山腹に寄せ始めた頃、次々と放たれる矢の雨を受けた長井軍の中軍は、身動きが取れずに大混乱に陥っていた。


 前方には先鋒隊がいて進めず、その先鋒隊も矢の雨に晒されている。後ろには長井の本体がいて下がれず、例え下がれたとしても、長井本体に逃げ込んで矢の雨が長井に向けられても困る。


 中軍の将は逃げ惑う兵を見ながらもただ「伏せよ! 身を低くせよ!」としか指示を出せないでいた。


 更に中軍の被害を大きくしているのは、張り巡らされた柵である。柵が邪魔をして逃げ惑う範囲が限られてている上に、襲い掛かる矢は柵で分断された部隊に集中して注ぎ込まれているのだ。



 本隊の長井は苛立っていた。


「矢は東じゃ! 東の木々の合間より放たれておるわ!」


 既に中軍と先鋒は混乱状態である。


「矢を黙らせろ!」


 長井は本体の三百騎のうち、百騎を将に預けて山腹に向わせた。


「先鋒に伝えよ! 早う抜けて中軍を通せとな!」

「ハッ!」


 長井の元から伝令が駆ける。


 長井が差し向けた百騎が柵を迂回しながら山腹に迫った時。地面を裂くような音が木霊した。



 ――バリバリバリバリ



 鉄砲である。



「鉄砲か! 今の音……五十は下らんか!?」


 実際、石島軍が用意出来た鉄砲は山賊達の残留品である一挺に過ぎず、姉小路軍が準備していた十挺のと合わせ、僅か十一挺の一斉射撃である。


 しかしその音は、漆黒の山々に激しく木霊した。伊藤の考案により、銃口付近に円錐状の部材を取付け、音が響くように改造したのだ。



 闇夜に響く鉄砲の音。



 その音が勝敗を決した。



「今じゃ! かかれえ!」


 明るい一帯の南側。闇夜に静かに伏していた姉小路頼綱は、鉄砲の音を合図に配備していた手勢三百に号令をかけた。


 姉小路軍三百騎が長井軍の先鋒隊に襲い掛る。


 長井の先鋒隊は、矢の雨による混乱をどうにか切り抜け東の山腹に寄せようにも、柵に邪魔されて思うように進めず、さらに矢の餌食になる兵を増やしていた。

 後方から響く鉄砲の音に怯み、己の命が危うい状況である事を思い知らされた時、今度は前方から姉小路軍が突進してきたのである。


 鉄砲の音と共に矢の雨はピタリと止んだが、張り巡らされた柵の中をひたすら東に進んだ先鋒隊は、既にその陣形も隊列も皆無となっていた。


「いかん……」


 先鋒隊の将は死を覚悟した。



 その頃、中軍にはまだ矢が降り注いでいた。本体に被害は及んでいないものの、既に敗色濃厚となっている。



 ――バリバリバリバリ



 再び鉄砲の音が響いた。


 それと同時に矢の雨が止まる。代わりに襲ってきたのは、敵兵であった。



「がっはっは、別府四郎見参なり! 者ども、蹴散らせ!」


 混乱しきった中軍に別府四郎の兵二百が躍り掛かった。




 この当時の兵団は、その殆どが臨時兵隊である。斎藤家も言うに及ばず、その形態で組織されていた。その兵団は、一度士気が低下すると持ち直せないという特徴がある。


 我先にと逃げ出し始めると、もう止める事は出来ないのだ。


 精鋭部隊で組織された先鋒隊の一部と、長井道利が率いる本隊の一部を除き、その殆どが戦意を喪失。


 夜が白み始める頃、長井軍は総崩れの様相となった。

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