農協おくりびと (48)駒子の故郷

新潟と群馬の県境を貫く関越トンネル(全長・11055m)を超えると、

車窓の様子がいっぺんに変る。

群馬県側のこげ茶色の荒々しい山肌が、いつの間にか姿を消す。

車窓にひろがるのは、緑に覆われたやわらかい越後の山々だ。


 「わぁ~。いっぺんに景色が変わりました。

 駒子が育った湯沢の町って、日本でも指折りの豪雪地帯でしょ。

 そんな雰囲気は、周りを見る限り、どこにも見当たりません。

 ほんとに家が埋もれるほど、雪が降り積もるのかしら、このあたりに」


 圭子が景色に誘われて、助手席から思わず身体を乗り出す。

なだらかにどこまでもつづいていく下り坂へ、さしかかった時のことだ。

車窓を横切っていく越後湯沢のおだやかな町並みは、小説「雪国」のヒロイン、

駒子を育てた故郷だ。


 「積雪量は平年で2m。多いときは5mを超える。

 人間が日常的に生活している範囲で、これほどまで雪が降るのは世界的にも珍しい。

 シベリアや欧州のアルプスでさえ、里にはそこまで降らないという。

 越後湯沢は北陸と関東地方を隔てている大きな壁、谷川岳に隣接している小さな盆地だ。

 日本海で育った季節風が山を越えるとき、湿った空気が2000メートル級の

 山肌にぶつかって、日本でも有数の大雪をふらせる」


 「まるで自然科学者みたいですねぇ、トマトを作っている松島さんって」


 「百姓は、生まれながらの自然科学者さ。

 田んぼや畑、池や沼や小川が流れる里山の景色は、人工的につくられたものだ。

 長い時間をかけ、百姓が作り上げてきたんだ。

 農業は自然と共生しながら、作物を育て、里山の景観を作り上げてきた」

 

 「えっ、目の前に広がっているこの景色は全部、人の手でつくられたものなの。

 うそぉ~。信じられない!」


 「嘘じゃない。山の斜面にひろがっている棚田も段々畑も、ぜんぶ百姓が作り上げたものだ。

 山林も同じことだ。無駄な木を切り倒し、水をはぐくむ森林地帯をつくりだした。

 ここから見える景色のすべてに、人の手が入っている。

 人間の手が入っていないのは、太古から存在している原生林だけさ」


 「凄いのねぇ、人間のちからって。

 あなたや祐三さんや独身の2人も、やっぱり自然科学の後継者になるのかしら?」


 「いまの農業は駄目だ。

 俺たちのおやじの世代は、自然を破壊しちまった。

 化学肥料と農薬を使い過ぎて、里山の原風景を破壊した。

 田んぼからホタルが消え、小川から、シジミもドジョウも消えちまった。

 季節や天候に関係なく農作物が作れる、ビニールハウスが野菜つくりの中心になった。

 何かが違う気がする。

 だが頭の悪い俺には、それ以上の事はわからねぇ。

 それより、さっき言いかけていた駒子の話をしてくれ。

 ノーベル賞作家が書いた『雪国』というのは、有名な作品なんだろう。

 実は俺、読んだことが無いんだ、小説は」


 「蛭(ひる)の輪のように、なめらかに伸び縮みする美しい唇。

 清潔な印象の女。それが雪国に登場する芸者の駒子です。

 駒子には、実在のモデルが居ます。

 芸名は、松栄。本名を小高キクといいます。

 大正5年。新潟県三条市の貧しい農家の7人姉弟の長女として、キクは生まれています。

 数え年11歳で三条を離れ、長岡の芸者置屋へ奉公に出されます」


 「へぇぇ詳しいんだなお前。やっぱり、ただ者じゃないな」


 「国民的な名作を読んでいない、あなたのほうがどうかしていると思います。

 この程度の事なら、誰でも知っているはずです」


 「そうなのか。俺は全く知らなかったぞ。芸者の駒子の生い立ちなんか・・・

 こんど読んでみるかな。ノーベル賞に輝いた作家の、ベストセラーってやつを」


 「うふ。ノーベル小作家だなんて、あなたもそれなりに知ってるじゃないですか。

 読んでください。雪国は日本を代表する素敵な小説です。

 感動すると思います、あなたもきっと私のように。

 ちなみに、芸者さんと呼ぶのは関東だけで、雪深い越後では芸者さんのことを

 振り袖さんと呼ぶそうです」


 「芸者さんではなく、振り袖の駒子さんか・・・へぇぇ、目からウロコだな」

 

 「大したこと有りません。これも受け売りです。

 それよりもあなたは、私の知らない里山のことを詳細にご存知です。

 目の前にひろがるこの光景が、長い時間をかけて人の手ですべて作られたなんて、

 今日の今日まで、まったく知りませんでした・・・すごいんですねぇ、人の力って」



(49)へつづく

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