第320話 朝だ徹夜で九尾なのじゃ

 どうしてこんなことになったのだろうか。


 黄色い太陽光を浴びながら、俺は冷えた缶コーヒーを啜る。

 いつも通勤で使う時間には人で溢れている通り。

 しかしながら今朝、目の前の通りに人影はなく、街はいままでに感じたことのない異様な静けさに満ちていた。


 煙草を吸いたい。

 唐突にそんなことを思ったが、スーツの胸ポケットに入っているそれは既に全て吸いつくされていた。


 夜を越すのに――取り分けて神経をすり減らす麻雀という遊戯に興じながら――煙草一箱というのはいささか少ない。


 参ったなと脂ぎった頭を掻くと、おーうと聞きなれた声が背中からする。

 清算を終えて帰って来た前の会社からの同僚が、満足気な顔をして俺の隣に立った。そうして彼は、俺が吸っている銘柄より少しばかりいい煙草を胸ポケットから取り出すと、そこから二本抜いた。


 一本を俺に渡して、もう一本を自分の手の中に収める。

 空いている手でライターを握りしめて火をおこすと――彼は安っぽいラムネ菓子の容器みたいなそれを俺に投げて寄越した。


「いや、ライターは流石に持ってるっての」


「なんだよ不満なのかよ。あれか、某漫画みたいに、キスするように煙草の火を分けて欲しい感じか」


「誰がするか馬鹿野郎。ったく、ろくでもないことに付き合わせやがって」


 昨日の夜のことである。

 この悪友――前の会社からの同僚に誘われて、俺は雀荘にやって来た。

 大切な大切な取引があるからという触れ込みでだ。


 そこで待っていたのは、確かに大切な取引の相手。

 俺たちが現在担当しているプロジェクト。

 その発注元のクライアントのナンバーワンとナンバーツーだった。


 流石に仕事を外部に出すだけあって、二人とも、俺達より一回り歳の離れたナイスミドルである。取れるものならこんな年の取り方をしてみたいと思わせる、そんな感じのビジネスマンたちだ。


 そんな男が、雀卓に座って、普段は見せない勝負師の顔をしている――。


「君たちが麻雀好きだという話を聞いてね。何を隠そう僕らも相当好き物でね」


「今のプロジェクトの追加予算の話。もし、麻雀で僕たちに勝つことができたなら、考えてあげてもいいけれど」


 今、俺たちの携わっているプロジェクトは、絶賛炎上中だった。

 いや、まだ炎上直前というのが正しい表現かもしれない。


 仕様策定に異様に時間を使ってしまい、実装の時間が取れず納期が間に合わない――そのため、追加予算を計上しようと、そういう話を課長としているところだ。


 こちらの瑕疵という訳でもない。

 さりとて、向こう側に明らかに遅延の要素がある訳ではない。

 付き合いもそこそこある会社だ。


 さて、どう落としどころを付けるのかと思っていたが、こういう展開になるとは俺としても予想外だ。


「なるほど、話しの分かる人たちだと思ってましたが、ここまでとは。俺も正直びっくりしていますよ」


「なぁに、仕事ってのはさ、楽しく、そして、粋じゃなくっちゃいけない」


「まったくです」


「同僚くんから聞いているよ。サイレント桜。その二つ名を見せてくれると嬉しいんだが」


 お客様から請われたならば仕方ない。

 しばらく麻雀からは遠ざかっていた俺だが、プロジェクトの追加予算がかかっているとあっては退くに退けない。


 そうして、俺と同僚は、取引先との長い夜接待麻雀へと突入した。


◇ ◇ ◇ ◇


「いやぁ、しかし、桜さんよ」


「……んだよ」


「お前さ、相手は一応お客さんなんだからさ、もうちょっと加減をしてやれよ。一晩で二回ハコテンとか、とんだ悪夢ってもんだぜ」


「良い子は寝る時間なんだ。そんな時間に起きてりゃ、悪夢くらい見るだろう」


「おぉ、怖い。流石は社長にもダマテンで倍満くらわす桜くんだわ。社会経験積んで、少しは丸くなったと思ったらこれだもんな」


 まぁ、おかげで追加予算は無事に取れたわけだけど。

 そう言って、紫煙をくゆらせる前の会社からの同僚。


 そんな風に俺を責めた彼もまた、クライアントのトップに満貫喰らった後、即役満ぶっこんで取り返していた。


 いやはや。

 お互い接待とは思えない、本気の麻雀をしてしまった。


 まぁ、相手がそれを望んでいるのだから仕方ないよね。


 土気色な顔をして、清算して先に帰っていたお客様たち。

 週明けさっそくミーティングだが、その時のことが今から心配でならないよ。

 まぁ、相手も社会人を何十年とやってきた人たちだ――仕事とプライベートくらいは区別してくれるだろう。


 俺は煙草に火をつけて肺の中に煙を引き込む。

 起き抜けではないが、徹夜明けの肺に、ちょっといい煙草はよく染みた。


 はぁ。

 勝ててよかった、本当に。


「これでしばらくプロジェクトは安泰。俺たちもお小遣いが入ってラッキー、万々歳って奴だな」


「――お前それ本気で言ってる?」


「本気本気。これからもよろしく頼むよ桜くん。俺、コーディングも麻雀の腕も、そこそこ信頼しているんだから」


 お前なんかに信頼されてもなと返したかったが、口が煙草で塞がっていて文句を言う気になれなかった。

 さて、そろそろ始発の時間かとスマホで時間を確認すると、俺はまだまだ残っている煙草をもみ消して、駅の方へと歩き出したのだった。


「なんだよ桜、朝飯くらい一緒に食っていこうぜ」


「それより先に、やらなきゃならんことがあるんだよ、


 まったく、自由気ままで困ったもんだね、この男にも。

 やれやれだ。


◇ ◇ ◇ ◇


 始発でアパートに戻った俺は、加代の奴を起こさぬように、そっとアパートの扉を開けた。腕を組み、耳を尖らせ、尻尾を展開して待っているかと思いきや、加代は玄関では待っていなかった。


 あれかな、先に寝てしまったかなと視線をリビングに向けると、ちゃぶ台に突っ伏して寝息を立てている、同居狐の姿が目に入った。

 どうやら、俺の帰りを待っている間に、そのまま眠ってしまったらしい。


 ちゃぶ台の上にはサランラップの張られた皿が一つ。

 例によって、油揚げと野菜の炒め物である。

 たぶん中華味だ。


「……なんも連絡しなかったからな」


 どこに行くとも告げられず、雀荘に連れて行かれて即勝負。

 家に電話を入れる暇さえなかった。


 心配しているか、怒っているか、なんにせよ、加代が気を揉んでいるに違いないと思って早く帰って来たが、どうやら正解だったらしい。


 まったく――。


「今度から誘う時にはあらかじめ連絡しろよな。でないとこいつが拗ねちまう」


 テーブルに頬をべったりとつけて、のじゃぁと寝言を言う加代。

 そんな彼女に背中を向けると――なんの連絡もなしに朝帰りなんてしてしまった罪滅ぼしにと、俺は朝食を造り始めるのだった。


 眠くて眠くて仕方がないけれど、同居狐のこんな姿、見せられたら仕方ない。

 とびっきり美味しい油揚げの味噌汁でも飲ませてやるか。


「……のじゃぁ、しゃくりゃぁ


「はいはい、もう帰って来ましたよ」


 同居狐の可愛い寝言に意味もない返事をしつつ、俺は冷蔵庫から静かに油揚げを取り出した。

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