第210話 何のためのお仕事か――で九尾なのじゃ
【前回のあらすじ】
ゴルフ場での会長襲撃事件において、彼の身を映画さながらに守った桜。
臨時役員会議に招集された彼は、その場で会長の実施である社長はもちろん、副社長から涙ながらに礼を言われることになった。
そして、ひょんなことから、副社長との会食にこぎつけることになったのだが――。
「定食屋?」
てっきり寿司屋にでも入るかと思いきや。
連れて来られたのは夜遅くまでやっている定食屋。
しかもその中には、見知った顔――もとい見知ったフォックスがいそいそと働いているのだった。
「タマ○フォックス!!」
「やめい!! いろんなところから苦情が来るでしょ!!」
◇ ◇ ◇ ◇
副社長はこんな時間、そしてたいそうなお歳だというのに、かつ丼なんていう重たいものを注文していた。普通こういう時は、同じのをなんて言って追従するものだが、胃の軟弱なアラサーである俺にはとても、22時からのかつ丼は無理だった。
「ざるそばを」
「のじゃ。そこはきつねうどんにしておくのじゃ」
「なんでだよ。俺はうどんよりそば派なんだよ」
「ただでさえシリアス展開になって、あぶりゃーげ成分が不足しておるのだぞ。ここで摂取しておかないでどうするのじゃ」
「あぶりゃーげ成分ってなんだよ。というか、お前と違って俺は人間だっての」
油揚げなんぞ、三日も四日も食べなくてもなんとかなるというもの。
というか、最近はこの駄女狐が、ことにつけておいなりさんを買って来るのだ。
こちとらお揚げさんには少々、傷食気味なのだ。
会社の疲れも残っているし、ここは胃を痛めないそばなどで済ましておきたい。
「のじゃ。じゃぁ、サイドメニューでおいなりさんはいかがなのじゃ」
「ファーストフード店のナゲットみたいな感じで言ったな」
「一つもらおう」
いきなり会話に口を挟んできた副社長に驚いて、俺と加代は思わず振り向いた。
見れば、にこにこと、会社では見せることのない笑顔を向けている。
この人、こんな顔をすることもできるんだな。
ちょっと意外だ。
いや、それよりもだ。
「副社長!? かつ丼の上にいなり寿司まで食べるんですか!?」
「そう言ったつもりだが」
「のじゃぁ。お爺さん、そのお歳でなかなかの健啖家なのじゃ」
「建設業は体力勝負。食わねばできぬ仕事よ。なに、忙しく動き回っておれば、体に余分な肉がつくこともない」
確かに副社長は壮年にありがちな中肉中背な姿であるが、余分な脂肪があるようにはみえない。
スーツの下からも、頼もしいくらいに盛り上がっている胸がありありと見える。
これが現場からのたたき上げという奴だろうか。
そんな人間と今からサシで飲むかと思うと、ちょっと冷汗が背広に染みた。
「のじゃ。ビールの銘柄はどうするのじゃぁ」
「ワシは呑まん。明日も仕事だからな」
「え、呑まないんですか?」
「当たり前だろう。馬鹿者。一に家族、二に仕事、三に博打と、職人ならば何事にも段取りをつけて当たるべきだ。違うか」
違いません。
違いませんが、俺はてっきりただ酒にあやかるつもりでございました。
とほほ。
この人、結構昔気質でブラックな匂いのする人だと思っていたが、ここまでとは思わなかったよ。
注文を受けた加代が、いそいそと厨房へと走っていく。
気の利かないウェイトレスである。水の一つも置いて行かなかった加代。
同居人の不始末に俺は一旦席を立ちあがると、厨房前のカウンターに置かれたグラスを二つ拝借し、そこに氷と水をなみなみ注いで席へと戻った。
その間、じっと、副社長は俺の背中を見ていた。
なんだろう。
正直やりづらい。
もしかしてこのおっさん、ホ――いや、考えるのはよそう。
最近はそういうのに色々と厳しい世の中だ。
迂闊な発言はまずい。
「ふむ。あと数年も現場で鍛えれば、立派に現場監督が勤まりそうだのう」
「そりゃどうも。現場作業好きなんで、別にそっちに回してくれてもいいですよ」
「ほう。随分な自信じゃないか」
「気難しい奴らをまとめるのは前職でもさんざんやってたんでね」
流石に暴力に訴えかけられると、こちらとしても対応に難しい部分はある。
だが、まぁ、それはそれ、こちらも大型ゼネコンである。
よっぽどの男気溢れる奴でもない限り、力の差を察して退いてくれることだろう。
そもそも俺が無茶な指示さえ出さなければいいだけの話だ。
「本気にするぞ」
「どうぞご随意に」
そう言って、グラスを彼の前に差し出してやると、彼はますますご機嫌な顔をして、こちらにすがすがしい笑顔を向けた。
職人あるいは会社の幹部というより、なんというか、好々爺という感じのそれだ。
「ますますと気に入った。三国会長の肝いりでなければ、ワシの直属として取り立てたくらいだ」
「勘弁してくださいよ。ご随意にとは言いましたけど、もう、そういう不相応な責任がつきまとうのはこりごりです」
これは社長派に切り捨てられたことを言っている。
拾って貰ったことについて、感謝は確かにしているけれども、あまり深い関わり合いになるのは避けたい、とまぁ、暗に言っている訳だ。
もちろん本心ではない。
日本人特有の駆け引きという奴だ。
なにより、俺はまだ完全に社長派と切れた訳ではない、彼らとはまだ会社外で繋がっている状態である。
こうして懐に潜り込むのに成功したのはいい。
けれど、そこから、さらにどこまで踏み込んでいくのかについては慎重に距離を測らなければならない。
俺は自分の席につく。
ちびりと、その夜に飲むには幾分冷たい氷水で、口の中を少し湿らせた。
同じようにして自分のグラスを持った副社長。
ふと、そんな彼の眼が遠い何かを見ていた。
「桜くん。率直な話を訊こう。この会社をどう思う?」
「どう思う、とは?」
「――時流に乗ってこの会社は大きくなった。たかだか街の小さな土建屋だったナガト建設が、今や一部上場の大企業。若者は優良企業だ大手企業だ、金払いがいいと、こぞって面接にやってくる。中途採用で、他の建設会社から渡って来る者も多い」
「いいことではないですか。俺も専門が建築関連なら、ここの会社の面接受けてたかもしれませんね」
「そうじゃないんだ。そうじゃ」
副社長がグラスを持ったままその場に俯く。
なんだか悔しそうに、その透明の氷水が入った容器を握る手が震えていた。
彼は何を言おうとしているのだろうか。
会社きっての古参の役員。今なお、創業当時からのメンバーをまとめあげ、社内に一大勢力を誇っている猿山の大将。
いや、本当に彼が据わっているのは、猿山の上なのか。
ふと脳裏を過ったのは、目の前の副社長を紹介してくれた、不器用な男――坂崎次長の顔だった。
「仕事に大切なのは誠意だ。金でも、安定でも、面子でもない。金銭のやり取りこそあれ、その本質は誰かのために何かを成すという単純なものだ」
「ふむ」
「会社の大小など関係ない。いま、目の前に自分の力を欲している人間のために、自分ができることをする。それこそ、まさしく仕事の神髄だと、ワシは思うのだがね」
副社長の言うことには一理あった。
まぁ、このご時世だ、生活のために仕事をするというのは、ある意味で仕方ない。
しかしながらその根底にあるのは、彼が述べたことだろう。
利益と結果が全てというこの世の中。
しかし、この上級役員は、どうにも古臭いことを言っている。
真に経営者なのならば、そんな言葉は、きっと口に出してはいけないことだろう。
だが。
「君はなんのために仕事をしている」
テーブルに向かって俯いていたその顔が起き上がる。
いつのまにか、役員会議で見せる鋭い眼光がこちらを見ていた。
腹を割って話せ、と、その濁った眼が俺に語り掛けて来る。
やれやれ、これは逃げられないな。
「正直、副社長の期待を裏切って申し訳ないんですけど。俺は自分の生活のために仕事をしているつもりですよ。自活して、誰にも迷惑をかけずに生きていく。それもまた重要な、社会人としての務めではないですか」
「――そうか」
「けれども。要領が悪くて申し訳ないですけどね、自分の力のやれる範囲で、俺はお客様のためにできることをしていきたいと、常々思ってますよ」
価値の比重こそ違うけれども、それは仕事をする上での基本だ。
もちろんそこに相対的な差はあるだろう。
仕事の優劣はどうしても、能力差のある人間だから出てしまう。
しかし、その中で、自分のベストあるいはベターを尽くすということは、決して忘れてはいけないことのように思う。
一度は
彼は俺に口をつけたグラスを近づけて、そういえば乾杯がまだだったな、と、なんとも氷水ではしまらない台詞を放ったのだった。
「ますます、惜しい」
「人には部相応というものがあるんですよ。貴方の下でベストを尽くそうとすると、いろんなものを犠牲にしてしまう。それなら、今は自分の手の届く範囲で、俺は仕事でベストを尽くしたいんです」
「心強い言葉だ」
なんだかしんみりとして、むず痒くて仕方がない。
と、そんなところに、加代がほかほかと、湯気たつ料理を手に戻って来た。
「お待ち同なのじゃ!! かつ丼においなりさん、あと、きつねそばなのじゃ!!」
「だから、油揚げはいらないって、言ってるだろう!!」
これ以上、仕事のほうが忙しくなると、こんなやりとりも難しくなるしね。
なんだかんだで家庭ってのが人間大事なのさ。
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