第172話 シェフを呼んでくれたまえで九尾なのじゃ

 久しぶりに俺にまとまった給料が入ったので、なんか美味いものでも食べに行くかという話になった。


「イタ飯、イタ飯がいいのじゃ!! もしくは中華料理なのじゃ!!」


「ほんとお前はこういう時に容赦のない選択をしてくれるよね」


 とまぁ、うちの大切な同居人である加代さんの申し出で、結構お高めなお店が立ち並ぶ、駅前ビルのレストラン街にやって来た。

 これで相手が同居人の加代さんでなかったならば、このあとホテルがとってるんだけれども、と、君の瞳に乾杯したくなるような場所である。


 のじゃぁ、高いのじゃぁ、と、全面ガラス張りになっている席の横から夜景を見る。出てきたシャンパンでとりあえず乾杯をすると、ほへぇ、と、高級レストランにあるまじき、間の抜けた声をあげた。


「のじゃぁ、こんなところに来たのは、生まれてはじめてなのじゃ」


「お前、結構、生まれてから経ってるんじゃないのか」


「のじゃのじゃ。こんなの自分で言うのもなんなのじゃけど、あんまり優雅な人生は送ってきてないからのう。ママと一緒におったころは、そりゃ、酒池肉林な生活をしておったけど、別れてからはからっきしなのじゃ」


「そうなのか」


「のじゃ。苦労しとるのじゃ」


「けどなぁ。悪い女ってのは、そういう、寂しい女を演じるものだからなぁ」


「嘘じゃないのじゃ!! 本当にあんまりいいもの食べてなかったのじゃ!!」


 分かってる分かってる。

 冷蔵庫の裏にあるゴキブリホイホイ見て、揚げればなんとかとかぶっそうなことを言い出す奴に、こんなところ来る余裕なんてないわなそら。


 会話を楽しむわけでもなく、料理を楽しむわけでもなく、景色を一番に楽しんでいるところからもお察しだ。


「むふふっ、見ろ、人がなんたらのようなのじゃ」


「なんたらってなんだよ、人は人だろう」


「こんな高いところから、空を見上げて、地上を眺めて、贅沢な夕食なのじゃ」


「だったらもうちょっとご飯もおいしそうに食えよ」


「美味しいのじゃ、美味しいのじゃ」


「その割にはさっきから窓の外ばかり見てるじゃねえか――」


 と、言ってから、気が付く。

 彼女の視線の先が、ちょうど俺が座っている真横あたりに向けられていることに。


 反対側には照明。さぞ、そこには俺の姿が、ありありと映っていることだろう。

 のじゃ、と、恥ずかしそうにうつむいて、加代の奴が頬を赤らめる。

 なるほどなるほど、そりゃうれしいが――もうちょっと、場所をわきまえてやってくれ。俺もこういうところは慣れていないんだから。


「ち、違うのじゃ。目のやり場に困っただけなのじゃ。別に、深い意味はないのじゃ」


「んじゃ真正面から見ればいいだろう」


「のじゃぁっ!! そういう意地悪なことを言うでないっ!! もうっ!!」


 普段、さんざん家で嫌というほど顔を突き合わせているというのに。

 やれやれ、加代さんの奥ゆかしさにはかなわない。


 しかし、いざ実際、そういわれてみると、こういう場所で面と向かって食事するというのは、経験のないものにとってみればなかなか度胸というか、なんというか、得体のしれないむずがゆさのあるものである。


「――のじゃ」


「――んだよ」


「――こ、この、メインディッシュのハンバーグは美味しいのじゃ。昔、殷の王宮に居た時に、ママが作ってくれた奴より、味わいがあるのじゃ」


「――それあれじゃないのかよ」


 ダメだ、やはり、俺たちのような野蛮な奴らに、高級ディナーは似合わない。


「帰りに、駅前の飲み屋で飲みなおすか」


「のじゃ、そうするのじゃ」


 きつね色に輝くシャンパンをくいと飲み干しながら、ようやく俺と加代は視線を交わすと、まるでなにかとんでもなくおかしいものに出会ったように、げたげたと笑ったのだった。


 結局、その日は朝まで駅前の居酒屋で飲んで、始発で家に帰った。

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