第131話 西湖のほとりで九尾なのじゃ

 香港から再び飛行機に乗り向かったのは、ベトナムは第二の都市ハノイである。

 ノイバイ国際空港からタクシーで移動したそこは、西湖タイコとよばれる湖であった。


 田舎の浜辺と言った感じの雑然とした感じのそこ。

 しかしながらビルが立ち並ぶ都会の中に、こつぜんと現れたその湖のほとりは、熱いベトナムの空気の中に、ちょっとした涼を与えてくれる。

 そんなこともあってか湖のほとりの歩道を歩く人影は多い。


『ここから先はプライベート。桜とわらわだけにして欲しいのじゃ』


 撮影NGを出し、ホテルにスタッフたちを残すと、加代は俺を連れてその湖岸をかれこれ二時間ほど歩いていた。

 あてどないという感じ。

 されども何か目的はあるというのが、彼女のそのいつになく真剣な顔から伝わって来た。


「なぁ、加代。いったいお前、どこに行くんだよ」

「――黙ってついてきて欲しいのじゃ」


 そう言われてもなぁ。

 俺はお前と違って人間なわけで、妖怪のお前に連れまわされるという行為に恐怖を抱いているんだ。行先も告げないなんてのはちょっと勘弁してくれ。


 と、いつもの調子だったら、俺は彼女に言っているのだろう。

 しかしながら、旅の最後の場所に彼女が選んだこの場所には、きっと何か大切な意味が宿っているのだろう。そう思うと、そんなおちゃらけた言葉は喉の中から出てこないのであった。


 ふと、加代の足が止まった。


 湖沿いにある公園。その湖を眺めるために用意されたようなベンチに腰掛けて、ゆらりゆらりと足を振っている女性がいる。

 加代の視線はその女性に向けられていた。


 白い髪をした美しい女性。

 移住した方なのか。顔立ちはどうにもベトナム人のそれと違っており、どちらかといえば俺たちのような、のっぺりとした顔をしていた。


「その人に会いに来たのか?」

「――のじゃ」


 一言、俺にそう告げると、加代はその女に近づく。

 寝ているのだろうか、加代が近づいているというのにまったく気づかない様子の彼女。その肩に加代が手をかけたその時だ。


 ふっとその姿が霞のように消えた。


 こんなことが起こるだろうか。

 不思議なことにはかれこれこの旅で何度か遭遇してきた俺だが、人が忽然と姿を消すのは初めて見た。


 いや、違うな。

 これはどう考えても人ではないもの――。


「わざわざ日本から会いにきてくれたのね。うれしいわ」

「――のじゃ。たまには、顔を出さないといけないかなと思っただけなのじゃ。ちょっと近くに寄ったから」

「優しい子ねぇ。そんな風に言ってくれるのは、貴方くらいよ、加代ちゃん」


 湖畔の上に影が落ちる。

 先ほどまで椅子の上に座っていた女性は、どうして、西湖の湖の上になんでもない感じで立っていた。


 マジックを仕込んでいる時間はなさそうだった。

 狐につままれているのかなと思い、眉に唾を塗ってみても、その光景は依然として変わらなかった。


 こちらを向いてほほ笑んでいる白髪の美女の顔。

 どうしたことだろうか、それが――加代の奴とよく似ているということに俺は気がついた。

 もしかして彼女は――いや、こいつは。


「日本ねぇ。貴方を残してこちらに帰って来てから、随分になるけれど、いい国になったみたいじゃない」

「のじゃ。堅苦しくって生きづらいだけなのじゃ。税金も高いし――」


「けれども、いいお相手は見つけられたみたいね。うれしいわ」


 そう言ってふわりと服の袖を揺らしてこちらへと歩み寄った彼女。

 妖艶な笑みを俺へと向けたその魔性の狐は、また忽然と湖の上からその姿を消すと、今度は俺の前へと現れた。


 舌を舐めずり、俺の顎先をつつりと撫でた彼女は、ネコ科動物のように開いたその瞳孔をこちらに向ける。


 加代と長らく暮らし、この旅を経験するうちに身についた、人ならざる者への本能的な恐怖。

 それが確かに、彼女がそれだと告げていた。


 この女は狐だと。


 尻尾もない、耳もない、獣の臭さなど微塵もない。

 けれども間違いなく、加代と同じく人ならざる者であると。


 そして加代よりも――いささかに邪悪。

 いや、強き者であると。


 そんな相手に対して加代は、耳と九つの尻尾を展開して、威圧をしてみせる。

 いつだったか、俺に迫った異質なものを追い払う時にみせた、それは彼女の本気。


 九尾としての本来の力。

 日本を、古代中国を、インドを、恐怖と狂気の底へと落とし込んだ、災厄の力を振るって。


 そんな加代に対して、女は、それを飲み込むような、強大でどす黒い妖気でもって応えたのだった。

 しかし加代はひるまない。

 毅然と、女を睨み返して――震える声でこう言って見せた。


「やめるのじゃ!! たとえ、ママでも、桜に手を出すなら容赦はせんのじゃ!!」

「――ママ?」


 そのちょっと間の抜けた響きに、一気に毒気が抜ける。

 と、それに合わせて、白髪の美女から発せられていたおどろおどろしい妖気は、すっとどこかへと霧散してしまった。


 代わりに彼女は、割って入った加代の身体を、ぎゅっと、やさしく抱きしめる。


「久しぶりね、加代ちゃん。立派な九尾に成長してくれて、ママ、とっても嬉しいわ」

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