第75話 水上市場で九尾なのじゃ

 1000バーツで泊まれるゲストハウスは無事に見つかり、狭いながらも寝るには十分な部屋で俺とのじゃ子は夜を明かした。

 不満な点はなかったと聞かれれば、ベッドがツインじゃなくダブルだったことだけだろうか。


 まぁ、寝てる間に、のじゃ子が俺の布団に入ってくることは、向こうで暮らしていた時もあったから、別に今更だったが。


「のじゃ、桜よ、すごいのじゃ!! 船の上で商売しているのじゃ!! 器用なのじゃ!!」

「火を使って料理までしてる――どうなってんだよこりゃ」


 翌日。

 日の出より少し早くゲストハウスを後にした俺たちは、バンコクから西に移動して、水上市場のあるダムヌーンサドゥワックへと向かった。


 別に好き好んでこんなところに行きたかったわけではない。

 やはり旅番組、ひたすら海岸沿いを走るだけでは絵に困るというスタッフの要望によるものだ。


 日も上らないうちからたたき起こされたのは正直迷惑だったが、これも仕事だ仕方ない。

 のじゃ子の付き合いとはいえ、俺も仕事を受けたからには、そこはクライアントの要求にしっかりと答えたい。


 という訳で、こうしてやって来てみたのだが、いやはや想像した以上の異様な光景に、俺ものじゃ子も絶句した。


「果物たっぷり載った船やら、お魚が載った船やら、いろいろなのじゃ」

「欲しいものがあるときは止まって交渉するのか」

「おいしそうな食べ物もいっぱいなのじゃぁ。のじゃ、桜よ、さっそく朝ごはんにするのじゃ」

「いやいやその前に、お前、せっかくなんだから――」


 番組のことなぞ忘れて、すっかりと食い気に囚われているアホ狐に、俺はそっと指でそれを示す。


 船乗り場。

 せっかく水上マーケットに来ておいて、船に乗らないという手はないだろう。


「のじゃ、船に乗るのかえ、桜よ」

「ヴェネツィアでゴンドラ漕ぎしたかったんだろう。ほれ、頼むぜ船頭さん」


 任せるのじゃ、と、胸をたたいた加代は、はりきりすぎたのかむせかえった。

 大丈夫だろうかという不安をよそに、さっそくボートを一つ借りると、俺とのじゃ子は乗り込んだ。


 当然、船頭はのじゃ子。

 編み笠を頭にかぶった彼女は、手漕ぎボートの櫂を手にしてほくそ笑む。


「のじゃのじゃ!! ヴェネツィアではないが、加代さん、ウンディーネになってしまったのじゃ!!」

「ウンディーネって、そりゃネオヴェネツィアだろ」

「細かいことを言ったら負けなのじゃ。ふふっ、水上の狐火こと加代さんの操舵術、とくと見るのじゃ!!」


 とりゃぁ、と、勢いよく櫂を振るのじゃ子。

 立ったまま、加減もかからず力をこめすぎたのだろう。


 つるりすってん、そりゃもう簡単に、のじゃ子はその場で体制を崩すと、川の中へと落ちてしまった。


 なにやってんだよお前。

 いくらテレビだからってサービスし過ぎだろう。


 いや、そんな器用なことできる奴じゃないな。というか、落ち着いてる場合でもないな。


「のじゃ子ぉおおおっ!!」

「の、のじゃァあっ!? のじゃ、桜、桜よ、助けてくれなのじゃぁっ!!」


 突然のできごとに泳げることも忘れてテンパり、慌てに慌てふためくのじゃ子。

 すっかりと櫂を水底に沈めて、あっぷあっぷと情けなく水上に手を彷徨わせる。


「落ち着けのじゃ子!! 落ち着いて尻尾を出すんだ!! そうすりゃ尻尾の浮力で浮くはずだ!!」

「のじゃ!! そうなのじゃ、尻尾を出して――」


 ぐるん、と、のじゃ子の上半身が水の中に沈み、代わりに九つの尻尾が水面に大輪の華を咲かした。


 浮くには浮いたが、浮き方が悪かった。


 急ぎスタッフと共に尻尾を掴んでのじゃ子を引き上げる。

 俺たちが見守る中、溺れ狐はぴゅぅと口から水を吐いたのだった。


「いやぁ、流石加代ちゃん、女芸人にも負けない体の張りっぷり!! 良い絵が撮れたよ!!」


 そりゃまたどうも。こいつも張りたくて体張った訳ではないんだろうがね。

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