第4章 -12
さすがにそろそろ忘れた方がいいんだろうか。
それとも、どこか病院にでも行って、相談してみた方がいいんだろうか。
「妖精界での出来事が忘れられません」
って?
そんなこと言えるわけがない。
だからといって、有紀乃先輩たちのことを忘れられるはずもなかった。
ただ、有紀乃先輩や妖精界のこと、御伽屋デパートのことを話す機会はまったくなくなっていた。
誰に話したって、全然通じないのだから。
きっと夢だったんだ。
だけど、僕にとっては、あの日々の方が本物だった。
***
大学からの帰り道、ふとなぜか遠回りしたくなった。
有紀乃先輩と初めて会った居酒屋、翌日待ち合わせした駅の改札口、二度目に会ったカフェ。それから……
デパート以外の思い出の場所は、消えずに存在していた。
だけど、有紀乃先輩はいない。
いっそ先輩を思い出すような場所は全部消えてしまえば良かったのに。そうすれば、僕は何もかも忘れることが出来たのかもしれないのに。
こみ上げてくる涙をこらえながら、僕は歩き続けた。
ぶらぶらと歩いているうちに、見覚えのある道に出た。
ここは、レイちゃんの住むアパートがあった通りだ。このまままっすぐ三ブロックほど歩けば、あのアパートが見えてくる。
ただし、あのあと何度もこの道を探したけれど、アパートは見つからなかった。
どうせ今日も見つからない。そう思っていた。
もう、失望なんかしたくなかった。
だから、妖精界の手がかりを探すのはやめていたのだ。
だから、この道だって歩かない方がいいんだ。
そう、思ったのに。
僕の足が勝手に前へと進んでいく。
一ブロック目を歩く。
特に覚えのない家が並んでいた。
そのまままっすぐ進む。
二ブロック目を歩く。
このブロックにも、別に目印のようなものはなかったはずだ。
そのまままっすぐ進む。
三ブロック目を歩く。
レイちゃんの住むアパートの二軒隣には、確か黒い犬がいた。
なんの変哲もない犬小屋が目に入った。
その中には、黒い犬がいた。
その家の、隣の隣。
アパートが、あった。
***
レイちゃんの住んでいたアパートは、古い木造二階建ての建物だった。
目の前にあるアパートも、古くて木造二階建てだ。
たしか、ポストに塗られたペンキがはげていた。
今、目の前にあるみたいに。
レイちゃんは、一階の、奥から二軒目の部屋に住んでいた。
奥から二軒目。窓から明かりが漏れていた。
胸の鼓動が高鳴る。
期待なんかしちゃダメだ。失望するだけだ。
いきなりチャイムを鳴らして、知らない人が出てきたらどうするつもりなんだ?
「間違えました」
って言えば、不審に思われないだろうか。
——やめとけよ。
心の中で僕がつぶやく。
そうだよ、やめといた方がいい。そう思ったのに。
僕はチャイムを鳴らしていた。
***
ガチャ。
鍵を開ける音がした。
「どちらさまですか?」
女の子の声だ。
忘れるはずのない。
レイちゃんの声だった。
***
「……どうして?」
レイちゃんは絶句していた。
別人、ではなさそうだ。僕のことをちゃんと覚えていた。
しばらく沈黙が続いたあと、レイちゃんは僕を部屋に招いてくれた。
相変わらず、何もない簡素な部屋だ。
ただひとつ、ベッドの枕元にはもう、ナイフは置かれていなかった。
「久しぶり。元気だった?」
「特に、変わりないわ」
会話はすぐに途切れてしまった。たくさん聞きたいことがあったけれど、たくさんありすぎてなにから聞けばいいのか分からなかった。
「あのさ、レイちゃんは、レイちゃんだよね?」
「どういう意味?」
「えっと、だから……レイちゃんは妖精だよね?」
「どうかしら」
それは、イエスと言っているようなものだ。違うなら「違う」と言えばいい。そもそも妖精じゃなければ『なにを馬鹿なことを言っているのか』と思うのが普通だ。
「変わってないみたいで安心した」
クールな話し方が全然変わっていない。あの頃と同じだ。
なんだかもう、十年も二十年も経ってしまったような気がしていたけれど、人間界の時間でもたった一ヶ月しか経っていなかったのだから、妖精界からしてみればまだ五日くらいしか経っていないのか。そう考えるとなんだかホッとした。
「変な人。あなたはどうなの?」
「僕? 全然変わりないよ」
「そうみたいね。頼りなさそうなままだわ」
「あの、御伽屋デパートの新商品発表会があった次の日から、ずっとみんなのことを探してたんだ。それなのに、御伽屋デパート自体がなくなっててさ、ビックリしたよ。大学の友達に聞いてもみんな知らないって言うし、ウチの両親さえも「御伽屋デパートなんか知らない」って言うんだよ。僕ひとりだけ変な夢を見てたのかと思っちゃったよ。でも、今日レイちゃんに会えて良かった」
レイちゃんはしばらく黙っていた。なにをどう答えればいいのか迷っているようだった。だいぶ長い間沈黙したあと、レイちゃんは一言だけつぶやいた。
「忘れれば良かったのよ」
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