第4章 -1
御伽屋デパートを追い出されてから、すでに二週間以上も経っていた。朝食の食パンを見るだけで思い出すほど、僕にとってベーカリー・グリムは染みついている。今朝もパンをかじりながら、あのじゅわりと広がる芳醇な香りとパンなのに溶けるような特製ロールパンの食感を思い出して一人悶々としていた。
レイちゃんの魔法のおかげで僕はデパ地下の人たちの記憶から消されたらしく、誰からも、心配どころか文句さえも言ってくる人はいない。それはそれで淋しくもあったけれど仕方がない。それでも顔を見れば思い出す人もいるだろうから「絶対に近づくな」と、レイちゃんからは念を押されていた。
不思議というべきか、やっぱりというべきか、瑛先輩はおろか禅先輩と会うこともなくなっていた。今までは、大学に行けば一日一度は顔を合わせていたのに。
唯一、レイちゃんだけがあの日から一日最低一回は極短いメッセージを送ってくれるようになった。
——まだ?
僕が女王様に接触を図り、レイちゃんに復讐を遂げさせる準備が出来たかどうかを問われている。正直、届くたびにちょっと憂鬱になるメッセージだ。だけど、これが今レイちゃんの生きる希望になっているなら、そして生存確認出来るなら、とても大切な儀式なんだと思う。レイちゃんは御伽屋のアルバイトを続けていて、デパ地下の様子やデパートの今後の予定なども伝えてくれるからありがたい。僕らは今や運命共同体のようなものだった。
——あと少し。
僕からも返信する。極力短く、そして極力毎回違う表現で。そうじゃないとレイちゃんが「全然本気じゃない!」と怒るのだ。
文字だけなのに、あの冷たい視線にまっすぐ射抜かれるようでぞくりとする。なにより、怒ってまた「死ぬ」なんて言われたら困る。
それに、僕だって早く女王様に会いたいと願ってる。
だって……
有紀乃先輩は今も、地下の妖精界で戦っているはずだ。
本当なら今すぐにも飛んで行って手助けしたい。
実際に、何度か妖精界への続く扉へ行こうと試みた。
けれど、従業員の出入口はだけじゃなく、トラックの搬入口にも今までいなかった警備員が立っていて、とても近づける状態ではなかった。
有紀乃先輩も禅先輩も、それから瑛先輩もいない大学は色褪せて、父の店を立て直すためにと意気込んでいた入学当初が嘘のように身が入らなかった。その分、僕は出来るだけ父の店、多治見堂で働くように努めていた。
今もバイトに向かっている途中だ。
レイちゃんにメッセージを送ってケータイをポケットにしまい、多治見堂の従業員出入り口に滑り込む。
デパートの裏側は多治見堂だろうと御伽屋だろうとどちらも同じような感じだ。
僕はまっすぐ事務所へ向かい、ロッカーに荷物を入れたところで、叔父に声をかけられた。
「在人。お前、今日はこっちで働きなさい」
「あ、いや。僕は掃除がやりたいです!」
「おい、こら。待ちなさい!」
捕まらないように叔父の手をすり抜けて、僕は作業着を羽織りながら仕事場へ通じる道を辿る。
叔父が僕にやらせたいのは案内係だ。
先日の北海道展でヒントを得たのか、多治見堂ではインフォメーションサービスの中に『エスコート係』という仕事を新たに作っていた。女性へのサービス強化というのが売りで、出だしは割と好調のようだ。叔父は僕にその仕事をやたらと勧めてくる。だけどお断りだ。僕は人前に出るのが苦手だし、なによりやらなくちゃいけないことがあるのだから。
代わりに裏方の仕事は喜んで引き受けた。トイレ掃除などは特に歓迎だ。屋上から地下まで、掃除や雑用をしながら入れる場所はどこへでも行って、僕はこっそり潜り込めそうな場所を探した。もちろん、御伽屋デパートの地下へ行くためだ。同時に、多治見堂から直接妖精界へ繋がる扉がないか探してみたけれど、それは残念ながら未だに見つかっていない。商品在庫を置く部屋や食料品売り場の共同冷蔵庫の中、天井や床下の配管スペース、壁に作られたちょっとした収納場所、トイレの用具入れ、もちろん事務所の中の引き出しだって探せる所は全部探した。だけど、ない。繋がっていない。
どうしてウチの店と妖精界は繋がってないんだよ。
繋がっていれば、御伽屋に水をあけられずに済んだかもしれないのに。
繋がっていれば、妖精王の泉の水が手に入ったかもしれないのに……
いや、ダメだ。それじゃ女王様と考え方が一緒になってしまう。それに、泉の水以外でも多治見堂が御伽屋に負けているところがある。
御伽屋のフロア長はものすごく怖かったけど、それが競争力につながっているのも確かだ。毎月の売り上げ成績発表は緊迫感があって「まるで戦争よ」なんて言いながらも、店子の人たちはみんな活き活きと働いていた。それに比べて多治見堂は、出店料が比較的安くてノルマも厳しくないらしく、なんだか店内が全体的にのんびりしている。雰囲気は悪くないけれど、いまひとつ活気が足りない。売り上げ前年比の成績だけで評価するのは限界があるだろうけど、なにかもっと向上心を上げるような取り組みが出来れば、いつか経営難を脱して御伽屋に勝つことが出来るかもしれない……
ここまで考えて、僕はかがめていた腰を伸ばした。そのまま上半身をぐるっと回して辺りを見る。従業員専用トイレはピカピカになっていた。これならトイレの神様が喜んでくれるだろう……じゃなくて。そうじゃない。いつか御伽屋に勝つとか、そんなことを考えている場合じゃないじゃないか。今すぐ女王様に会う方法を考えなきゃいけないのに。だけど、いったいどうすればいいんだよ。
「なにかお困りのようでござるな」
え?
聞き覚えのある声に、僕は振り向いた。
「待って! なんで? いや、それよりここ、男子トイレ!!」
幻聴でも幻覚でもなかった。目の前にはなぜか、瑛先輩が立っていた。
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