第3章 -8
地上にも妖精界と同じように雨が降っていた。デパ地下から逃げることが出来たのは良かったけれど、状況は最悪のままだった。このままでは多治見堂に廃棄食品横領販売の嫌疑がかけられ、下手したら潰れてしまうだろう。この先のことを考えると家に帰ることが出来ず、僕はまたずぶ濡れのまま、通りかかった公園のベンチに座り込んだ。
雨が全部流してくれたらいいのに。空から落ちてくる粒を眺めながらぼんやりと考えていた。春の雨はまだ冷たくて、少しずつ体を冷やしてゆく。寒さで感覚がなくなっていくように、僕のすべてを消してくれたら、そう願ってみた。
「なぜ、こんなところにいるの」
足音は雨にかき消されて気づかなかった。
声に振り返ると、そこにはレイちゃんが立っていた。
僕と同じように傘もささず、制服から水が滴っている。
「レイちゃん。さっきはありがとう」
「別に……余ったパンは孤児院に寄付してることになったから、心配しないで」
レイちゃんの声は少し震えていた。薄暗がりの中よく見ると、顔は青白く、唇は真っ青だ。
「どういうこと? いや、それより大丈夫?」
「なんとも、ない。ちょっと力を、使いすぎた……だけ……」
「レイちゃん!」
レイちゃんはよろけてそのまま倒れそうになる。地面に着く前になんとか支えると、かなり発熱していた。
雨の中放っておくわけにもいかず、僕はレイちゃんを背負って彼女の家まで送ることにした。
レイちゃんの家は、御伽屋からほど近い古びたワンルームのアパートで、一人暮らしをしているようだった。
ぐったりしている彼女をそのままにしておけず部屋に上がると、あまりの殺風景さに驚いた。部屋には荷物がほとんどなく、唯一の家具といえるスチールベッドとカーテンは真っ白で、まるで病院みたいだった。女の子の部屋っていうのはもっと赤とかピンクみたいな可愛らしい色で飾られているものだと思っていたけれど、レイちゃんには当てはまらなかったようだ。しかも、枕元に置かれたやけに大きなナイフが異様に目立っていた。お嬢様学校の制服を着ているからてっきりお金持ちのお嬢様だと思っていたけれど、なにか事情があるのだろう。
「人の部屋をジロジロ見ないでください」
タオルを貸してもらって頭を拭きながら部屋を見ていたら、着替えて部屋に戻ってきたレイちゃんに怒られた。
制服からモコモコの部屋着に着替えたレイちゃんは、なんだかいつもより子供っぽく見える。
「あ、ご、ごめん! あのさ、風邪薬はある? 買ってこようか?」
「いらないわ」
「でも、すごい熱だよ」
「平気、寝れば治るから」
強がっているようにしか見えなかった。普段は白い肌が真っ赤だし、息が荒い。とにかく布団に入ることを勧める。本当なら女の子の部屋から早く退散した方がいいのだろうけど、やっぱりこのまま放っておけないよ。
「平気じゃないよ。市販の薬じゃダメなら、ご両親に連絡して病院に連れて行ってもらおう。電話してみて」
「父も母もいない。亡くなったの」
「……ごめん」
なんて言っていいか分からなくて、僕は黙ってしまった。高校生で一人暮らしは珍しいけど、ありえないことではないだろうと思っていた。だけど、本当に一人だったとは。なら、どうやって一人で暮らしているんだろう。
「私も、黒上有紀乃と同じ妖精よ。だから一人でも平気」
「えぇ?! レイちゃんも、って、有紀乃先輩が妖精だってことも知ってるの?」
「知ってるもなにも、あの人は有名だって言ったはずよ。それに、あのデパートで働いている中の一割くらいは妖精だもの」
全然知らなかった。まぁ、人間だから分からなくても仕方ないかと思ったけれど、レイちゃんに言わせれば妖精同士でも自分から名乗り出ない限り人間と妖精の区別はつかないらしい。レイちゃんが妖精だと聞いて、僕はカバンの中にベーカリー・グリムのパンが入っていたことを思い出した。きっとパートさんの誰かが入れてくれたものだ。
「そうだ、これを食べたらきっと元気になるよ」
レイちゃんにパンを渡すと、もらったものだと分かっているからか、今度は素直に受け取った。そして、今まで見たことないくらい美味しそうにパンを食べた。妖精王の泉の水が含まれたパンを食べたレイちゃんは、少し元気が出たみたいで顔の赤みが治まってきた。でもまだ完全に体力が戻ったわけではないのだろう。壁にもたれて時々目を閉じて辛そうだ。
「さっきは本当にありがとう。助かったよ。でも、どうして助けてくれたの? 僕、嫌われてると思ってたのに」
「泉の精に頼まれたの。さっきの公園にいることも教えてくれたわ。ただそれだけ。パンの廃棄については、深く追求されたら他のお店も困るし、泉の水分が捨てられるのは私も耐えられなかったから……」
だから、その件については私からもお礼を言うわ。と、レイちゃんは小さく続けた。
レイちゃんからお礼を言われるなんて、驚きだ。だけど、それ以上に驚いたことがある。
「今、泉の精、って言ったよね? レイちゃん、泉の精を知ってるの?」
泉の精って、まさか、妖精王の泉の精じゃないよね?
レイちゃんは僕を怪訝そうに見る。
え? 僕、なにか変なこと言った?
「あなたこそ、知らなかったの? 泉野誠子さんは妖精王の泉の精じゃない」
「うそ?! 誠子さんが?」
誠子さんが妖精かどうか以前に、誠子さんの苗字さえ僕は知らなかった。泉の誠子さん。なんだそれ、駄洒落じゃないか。
まてよ、誠子さんが妖精王の泉の精だとしたら、なんで戦争なんかしなくちゃいけないんだろう?
妖精王の泉の精を取り戻すために有紀乃先輩は戦っていたはずだ。先輩はこの事実を知らない、なんてこと、あるわけないよな。
「今、なにが問題なのか、って思ったでしょ。問題は大アリよ。奪われているのは泉の水なんだもの。それに、誠子さんは分身みたいなもの。本当の彼女の百分の一も力を使えない、ただの人間と同じよ」
ただの人間、と言われると、心がチクリと痛む。確かに、僕に出来ることなんか、これっぽっちもないことを実感したばかりだけどさ。
「女王から権力を奪い返して、妖精王の泉を解放しないと、問題は解決しないわ」
「そっか、そういうことか……あ、でも、僕が妖精界からデパ地下に戻ったとき、誠子さんはいなかったよね?」
「それは、あなたを御伽屋デパートの外に呼びに行くことで力を使い果たして、人間の姿を保てなくなったせいよ。御伽屋は妖精界の影響が強いけれど、外は完全に人間界ですもの。あなたからは見えなかったかもしれないけど、あの場にもちゃんといたわ」
つまり、僕のせいで誠子さんが消えてしまったっていうこと?
そんな……
「僕のせいで……ドワーフ隊長だけじゃなく、誠子さんまで失ってしまうなんて……」
「あなたは、なにか勘違いしているようね。誠子さんは分身だって言ったでしょ。姿が見えなくなっただけで、妖精王の泉の精がそんなに簡単に消えるわけないじゃない。一晩くらい休めば、また元の姿に戻るわ」
「え? そうなの? そっかぁ、良かった。安心したぁ〜!!」
レイちゃんはプイと横を向いて「変な人」とつぶやいた。
変な人でもなんでもいい。有紀乃先輩にとって大切な人がこれ以上、いなくならないでさえくれれば。
「誠子さんはあなたにお礼を言っていたわ。パンを大切に扱ってくれてありがとう、って」
「そっか。少しでも役に立ててたならよかった。あ、でも、そういえばパンの廃棄の件は、どうやってみんなを納得させたの?」
「それは、魔法を使えば簡単よ。あなたもあの人に魔法をかけられたんでしょう?」
「魔法? あの人って、有紀乃先輩に?」
そんな話は聞いたことがないし、身に覚えもない。
「そう。こうやって……」
レイちゃんが布団から身を乗り出して僕をじぃっと見つめた。
瞬きをするたびに瞳の中で星が光るようで、僕の意識が吸い込まれそうになる。
そういえば、有紀乃先輩に初めて会ったときも、じっと見つめられたっけ。
あれが、魔法だったんだ……
「今からあなたは私の恋人よ。口づけを許すわ」
レイちゃんは僕に向かって手を差し伸べた。
「え? え? えぇ~?!」
レイちゃんは不思議そうに僕を見る。
「女の子がそんなこと言っちゃダメだよ! 特に日本は、挨拶でキスなんかしないんだから!」
もしかしたら妖精界では普通のことかもしれないけど、僕にとっては全然普通じゃない!
「え? あ……」
レイちゃんも僕がなにを言いたいのか気づいたようで、急いで手を引っ込めた。
「ち、違うわよ! これは! 口づけと言ったら手の甲に決まってるでしょ!」
「え? そうなの?」
あ〜、もしかしてあの、映画とかでたまに見る感じのヤツ?
お姫様に忠誠を誓う的な……?
「どうして? もうとっくにあの人の魔法は消えていると思ったのに。元々魔法が効かない体質なのかしら……」
レイちゃんは布団に顔を半分以上埋めて、ブツブツとつぶやいていた。
驚いたのは僕の方なんだけどな。
でも、恥ずかしがっているレイちゃんは、年相応に幼く見えて可愛かった。うん、でも、妖精だから本当に年相応なのか分かんないけど。
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