第3章 -7
ずぶ濡れのままデパ地下へ再び戻ってくると、すでに閉店時間を過ぎていたようだ。みんな忙しそうに店じまいをしている。僕は店長に怒られる覚悟でベーカリー・グリムに向かうと、店の前で騒ぎが起こっていた。
「ウチは余ったパンを毎日ちゃんと廃棄しています!」
「最近特にパンの廃棄量が減っているっていう噂なんだよ」
「噂でそんなこと言うんですか? 廃棄量が減っているのは企業努力なんだから、むしろ評価されることじゃないですか!」
白ジャケットのデパ地下フロア長に対して、店長が反論している。
「そうよ! ゴミが減ってるんだからいいじゃない!」
「廃棄の料金分、節約になってるでしょ!」
「ウチの店だって最近ゴミが減ってるわよ!」
ベーカリー・グリムのパートさんただけでなく、他の店子の人たちも加勢していた。
僕はそっと厨房に入って、自分の荷物から頭を拭くものを探す。ちっちゃなハンカチでもなにもないよりはマシだ。頭をゴシゴシこすって、なんとか雫がこぼれない程度に髪は乾いた。
こんな騒ぎの中で、濡れねずみになっている姿を見られたら、火に油を注ぎそうだ。このまま目立たないようにデパ地下を去ろう。と、思っていたのに。
「そこのアルバイト!」
フロア長に目をつけられてしまった。
こちらを嘲るような目。思い出した。以前森の中で見た狼男の目と同じだ。まさか、この人が狼男なのだろうか。
「お前、今逃げようとしてたな? 何かやましいことがあるんじゃないのか?」
しまった。うまく隠れたつもりだったけどフロア長からは僕が見えていたのか。
仕方なく厨房から出て、フロア長の前に立つ。
「やましいことなんてありません」
「じゃあなんでコソコソしてたんだ?」
こんなことならずぶ濡れのままでも仕事をしているフリをしておけばよかった。
「さっき、間違って水をかぶって濡れてしまっただけです」
苦し紛れに出た言い訳では、フロア長をごまかせそうになかった。それどころか、もっと粗を探そうと僕に近寄ってきた。
「そういえば、この間多治見堂の北海道展で、グリムで働いてる男の子を見た、っていうお客さんがいたわよねぇ……」
少し離れた場所から、誰かのヒソヒソ声が聞こえてくる。しまった、僕を覚えている人がいたのか。なんでだよ。僕なんかベーカリー・グリムでも多治見堂でもただの下っ端なのに、なんでわざわざ僕のことなんか覚えているんだよ。
「多治見堂だと?!」
フロア長が反応し、声の方をギロリと睨む。
「お客様がそんなことを言ってただけで、私はなにも……」
声の主は言い訳しながら顔を伏せた。
「お前、多治見堂のスパイなのか?!」
フロア長が一歩にじり寄り、僕を睨め付けた。
「ち、違います!」
スパイなどでは断じてない。でも、疑われても仕方ないかもしれない。だって、地下に妖精界があって、そこで食べ物を待っているドワーフたちにパンを持って行った、なんて話、出来るわけないじゃないか。
なにやってるんだ僕は。今すぐ女王様に会いに行かなきゃいけないのに。今この瞬間も、有紀乃先輩は危険な目に遭っているというのに……
うまい言い訳を考えようと焦れば焦るほど、なにも浮かんでこない。
「なぜ黙っているんだ? やっぱりスパイか。なるほど、御伽屋で余ったパンを多治見堂に横流ししてるんだな?」
「僕は、なにもしていません!」
そう言いつつも、声が震えそうになる。廃棄するべきパンを廃棄していないのは事実だ。だけど、多治見堂に横流しなんて、そんなことするわけないじゃないか。
「とにかく、こっちに来い! 話は警察で聞いてやる!」
ダメだ! こんなところで捕まるわけにはいかない。でも、どうしたら……逃げたら余計疑われるだけだ……
ガシャーン!!
ちらしずし屋にあった什器が全部ぶちまけられたような音がした。と思ったら、本当にボウルや計量カップやおたまやなにやらが大量にぶちまけられていた。
レイちゃんだ。
いつも僕に冷たいことしか言わないレイちゃんが、なぜか僕のために注意を引いてくれている。
「早く逃げて!」
レイちゃんが叫ぶ。
名前を呼ばれなくても、僕に対する言葉だということは充分に伝わった。
「早く!!」
みんながレイちゃんに気を取られているすきに、僕はなんとか自分のカバンだけは手に持って、デパ地下から脱出することが出来た。
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