第3章 -1

 翌日から、さっそく多治見堂での見習いが始まった。内容は七階で行われている催事の手伝いだ。最初は裏方で在庫補充をする程度の簡単な仕事だと聞いていたのに、始まってみれば満員電車のような混み具合に驚いてしまった。こんなにお客さんがいるなら経営悪化の心配なんてなさそうに思える。けれど、これは一時的なもの。みんな大好き北海道展なのだから。物産展はほぼ毎週のように行われているのだけれど、中でも北海道展の人気ぶりは別格だ。下手をすると同じ街の複数のデパートで同時開催なんて場合もある。現に御伽屋デパートでは先週行われていたばかりで、もし重なっていたら売り上げを比較して父が頭に血を上らせていたことだろう。


 とにかく、この山場を乗り切るだけだ。幸いここには目つきが鋭い白ジャケットのフロア長はいないし、僕をビシバシしごくベーカリー・グリムの店長もいない。その代わり、有紀乃先輩もいないけれど。いやいやいや。そんなこと考えている場合じゃない。目の前にはあふれるほどのお客さんがいる。それに、昨夜からピリピリしている叔父だって催事場にいる。うわぁ、全然嬉しくないよ。

 迷子の子供、試食に夢中で自分の荷物を忘れそうになっているおじいさん、家族サービスで朝からやつれているお父さん、それとは逆に目当ての物を手に入れるため目をギラギラ輝かせるマダム。本当に様々な人々がいる。


 アルバイトのおかげでデパートの仕事は一通り覚えたつもりでいたけれど甘かった。売り場によってやることが全然違う。僕は邪魔にならないように壁にぴったり寄り添って立っているのが精一杯だった。



 少し離れた場所から人の波を眺めていると、動きがよくわかって面白い。誰かが一人並ぶと一気に列は伸び、それが呼び水となってさらに人が集まってくる。催事に参加する店の人たちは人の動きを読めるのか、自分の店の列が減るのを見計らって新しい商品を並べ、声を上げ、波がいつまでも自分のところに寄せてくるようにコントロールしていた。その鮮やかな客さばきに見とれて仕事をしていることもすっかり忘れかけていた僕と、小さくて優しそうな老婦人の目が合った。


「何かお困りですか?」


 近づくと老婦人は僕の半分くらいしか身長がなく、僕は少し膝を折って身をかがめて訊ねてみた。


「ごめんなさいねぇ、私、孫たちと待ち合わせをしているんだけど、お店の場所が分からなくなっちゃったのよ」


 そう言って、とても困ったようにため息をつく。


「どういうお店ですか? 北海道展の中のお店でしょうか?」

「違うのよ、喫茶店なの。なんだったかしら、えぇと……モーニングコーヒーなんとか、だった気がするのよね」


 その名前には聞き覚えがある。確かこの七階催事場の一階下にある宝飾品フロアの中にあったはず。


「それはきっとイブニング珈琲店ですね」

「あぁ、そうそう! それよ、それ! どうやったらそこに行かれるかしら?」

 エスカレーターで降りればすぐに着くはずだけれど、催事場からエスカレーターは見えない位置にある。


「ご案内します」

「あら、いいの?」

「もちろんですよ」


 どうせ僕には壁の花になるくらいしか仕事がないのだから、それよりはお客さんのお相手をしている方がマシだろう。

 催事場から下りのエスカレーターまでは、距離にして百メートルもないはずだ。ただ、途中に店舗があるため何度か角を曲がらないとたどり着かない。エスカレーター乗り場まで並んで歩いている間に、僕は老婦人が足を悪くしていることに気づいた。

 どうぞ、と手を差し出すと婦人は驚いたようで、一瞬足を止める。


「あらまぁ、ご親切に。いいのかしら?」

「もちろんです。僕でお役に立てるなら、喜んで」

「ありがとう」


 それからすぐに下りエスカレーターが見えてきた。


「このエスカレーターを下ると、目の前にお店の看板があるはずですので」

「本当に、親切にしてくれてありがとうね」


 どうやら喜んでもらえたみたいで安心した。

 老婦人がエスカレーターにきちんと乗れたことを確認して、僕は催事場へ急いで戻る。そろそろ真面目に仕事をしないと監視役の叔父に怒られそうだ。壁の花も卒業しなくちゃ。

 だけど、僕は北海道展の手伝いに戻ることが出来なかった。

 催事場の入り口にはなぜか迷子のご婦人がたくさんいて、僕はエスカレーターやエレベーターまで何度も往復することになってしまったのだ。

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