第2章 -3

 先週の終業時、ベーカリー・グリムの店長さんに「アルバイトを続ける」と言ってしまった手前、いきなり辞めるわけにはいかないと思う。もしもアルバイトを続けるなら、やっぱり有紀乃先輩の手伝いもするべきなんだろうか。だけど、手伝いっていったって、一体何をすればいいんだよ。


 頭の中で堂々巡りを繰り返しているうちに、刻々と時が過ぎて、週も半ばになっていた。


 奇しくも今週のフィールドワークはパン屋さんの研究だ。数人のグループに分かれて幾つかのパン屋さんから色々な種類のパンを買ってきて、食べながら経営について考えてみるという、楽しいといえば楽しいけど、真面目に考えると意外と奥が深い講義だ。そんな風に感じたのは、たまたま僕がベーカリー・グリムでアルバイトしたからだろう。周りのみんなはパンを食べることに夢中で、深く考えているような発言は出てこなかった。もちろん僕だって、材料費や人件費、歩留まりなんていう単語は、配られたプリントを見るまでは考えたこともなかったのだけれど。


 ひとつのパンの中に、どのくらいの小麦が使われているんだろう。それは、畑にするとどのくらいの広さなんだろう。もしもそれを木に例えると、いったいどのくらいの量になるんだろう。僕が考えすぎなんだろうか。それとも、今まで考えなさすぎだったんだろうか。

 ひとつだけ、はっきり分かったことがある。

 ベーカリー・グリムで食べた、あのロールパンは特別美味しかったということ。


 今日食べているどの店のどのパンも、あのロールパンに比べたら、パサパサして味のないスポンジを噛んでいるようにしか感じられないということ。

 あのパンひとつで妖精の森の木が一本なくなってしまうというのに、ちょっと想像しただけで『また食べたい』と思ってしまうこと。

 僕は、一体どうしたらいいんだろう。

 上の空で受けていた講義の終了を告げるチャイムがなったと同時に、僕のケータイが震えた。

 画面に表示された名前にドキッとする。

 それは、有紀乃先輩からの電話だった。


***


 待ち合わせのカフェで有紀乃先輩は待っていた。どこにでもありそうなシンプルな内装の店は少し照明が暗かったけれど、先輩の長くまっすぐ伸びた黒髪は星でも浮かべているかのように艶々と光を反射していたし、白い肌はスポットライトが当たっているみたいに際立っていた。その姿を他の席のお客さん、特に男性客がちらちらと見ているのを気にするでもなく、有紀乃先輩は優雅にお茶を楽しんでいた。


「すみません、遅くなりました!」


 僕は大きな声で有紀乃先輩に呼びかける。

 周りの男性たちは、あからさまにがっかりした表情を浮かべた。その後、僕に向けられた視線は何本も後頭部に刺さって痛かった。


「そんなに待ってないから大丈夫だよ」


 席に着き適当に飲み物を頼むと、僕は急に緊張した。先輩になんて返事をするべきか、まだ結論を出せていなかったからだ。


「急に呼び出しちゃってごめんね。あのあと在人くんボーッとしてたみたいだから、悩ませちゃったかな、って、ちょっと反省してたんだ」

「すみません。色々考えてみたんですけど、やっぱり僕には戦争なんて……」


 途中で「シッ!」っと言葉を遮られて気がついた。この場所には僕と同じくらい『戦争』なんて言葉に縁遠い人がいて、しかもその人たちは有紀乃先輩に注目している、ってことに。僕は声のトーンを下げて言葉を続ける。


「あの、先輩のお役に立てそうな気がしないんです」


 先輩は微笑んだまま紅茶を一口飲む。


「アルバイトの方はどうだった? あれもやっぱり嫌だったかな?」

「あ、いえ、バイトは初めてだったけど楽しかったです。それにパンがすごく美味しくてビックリしました。今日はフィールドワークの授業で他のお店のパンを食べ比べたんですけど、あのロールパンと比べると全然美味しくないんです。今まで何を食べてたんだろうっていうくらいで……あ、でも、あれが売れたら売れたで、先輩は困るんですよね」


 有紀乃先輩が楽しそうにくすくすと笑う。


「やっぱり在人くん面白いね。確かに、パンが売れると困るかも。でもね、私もあのバイトは楽しいんだ。色んな人が嬉しそうにパンを買ってくれるのを見てると、私も嬉しくなるの。あのさ、在人くんが嫌じゃなかったら、バイトだけでも続けてくれると嬉しいな」

「で、でも、それでいいんですか?」

「バイトの人手が足りないのも確かだし、せめて売れ残ったパンは地下のみんなに食べて欲しいと思うし、毎回私が一人でパンを持ち帰ると流石に目をつけられちゃいそうだし、それだけ手伝ってもらえると助かるんだけど」

「そのくらいなら大丈夫です! 僕でお役に立てるなら!」


 ホッとして気が緩んだのか、僕はまた大きな声を出してしまい周りから痛い視線を浴びせられた。

 有紀乃先輩は面白がっているらしく笑っている。恥をかかせていないなら良かったと僕は思う。ひとしきり笑ったあと、先輩は変わったお客さんやフロア長の話などデパ地下の様子を聞かせてくれた。

 カフェを出て、駅まで歩く道で、僕はふと気になったことを口にしていた。


「先輩、僕はなんでベーカリー・グリムのバイトに選ばれたんでしょう?」


 もちろん、たまたま新入生歓迎会で有紀乃先輩に誘われて、二つ返事でOKしたから、ってことくらいは分かっている。だけど、有紀乃先輩の手伝いをしたい人は、普通に考えてもっとたくさんいるんじゃないのだろうか。

 有紀乃先輩は僕の方へ向き直り、まっすぐ僕を見た。


「在人くんはパン屋のバイトが楽しいんだよね? それはあの仕事が向いてるってことでしょ。普通は一日中立ってるだけで苦痛だし、好きじゃなきゃやってられないよ」


 そんなものなのだろうか。


「正直言うとね、パン屋さんのバイトは好きじゃないけど、私と一緒に戦争してくれるって言う人はいたんだよ。でもさ、在人くんも勘違いしてるかもしれないけど、戦争って別に武力で戦うことだけじゃないでしょ。この国だって戦ってるんだよ。この国だけじゃない、誰だってみんな。パン屋さんのパンだって、買ってもらえなきゃ捨てられちゃう。在人くんにとってはただのパン屋のアルバイトだとしても、それも戦いなんだよ。だから、戦争の手伝いじゃなくパン屋のバイトの方がいいって言った在人くんを選んだの。私は別に、女王や人間界に復讐したいわけじゃないもの。ただ泉の水を独占しないで欲しいだけ」


 なんだ、僕は一体何を勝手に悩んでいたんだろう。戦争なんていう言葉に惑わされて、振り回されていただけだったのだろうか。


「そういうことだったんですか」

「やだ、在人くん。戦争って、ミサイルとか戦車とかが出てくると思ってた?」

「そりゃあ、もう……」

「私にそんなこと出来ると思う?」

「全然! 思わないです!」

「でしょ? なんだ、心配しないでよ。とにかく在人くんはパン屋さんでバイトしてくれればいいから。それじゃあまた今週末よろしくね!」


 有紀乃先輩は軽やかに去ってゆく。

 僕はやっと眠れぬ日々から解放される、と安堵した。

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