第1章 -12
「ここ、結構いいところでしょ?」
「はい、すごく素敵なところです。こんな森、学校のキャンプくらいでしか来たことがないです」
「そうなんだ。在人くんって、都会っ子なんだね。私はずっと森が身近にあったなぁ」
先輩は一息ついて、それから紅茶を一口飲んだ。まっすぐ伸びた背筋が美しく、まるで貴婦人のように見えた。
「昔は妖精界と人間界の森がわりと身近なところで繋がってたんだよね。時々お互い迷い込んだり、交流したりして、結構いい関係だったの。だけど、人間界の森がなくなってから、少しずつ変わってきちゃった。元々繋がっていなかった場所が掘り返されて繋がっちゃったり、街の真ん中に出入口が出来ちゃったりして。さっき通ってきた洞窟も、本当は行き止まりだったんだよ」
「そうなんですか……環境破壊の影響が、こんなところにもあるんですねぇ」
僕は呑気に紅茶を飲みながら答えた。有紀乃先輩の目にかげりが生じたのは、木漏れ日のせいだと思っていたんだ。
「そうなんだよね。あ、ねぇ、在人くん。もし在人くんが妖精に出会ったらどうする?」
「どうする、って言われても……僕は、話がしてみたいです」
「どんな話?」
「妖精がどんな生活をしてるのか、とか。……って、僕、今、実際に話してるんですよね?!」
興奮して思わず立ち上がったら、僕は丸太のテーブルに思い切り足をぶつけてしまった。痛がる僕を有紀乃先輩は気の毒そうにしながらも、笑いがこらえられなかったようでくすくすと声を立てた。僕は苦笑いで場をごまかすしかなかった。
「私もね、初めて人間界に行ったとき、いろんな人といろんな話がしたいと思ったんだ。実際に話したりもして。楽しかった。それでね、私はしばらくのあいだ人間界で過ごしていたの。そのとき出会った人たちはみんないい人だったんだけど、人間にはいい人も悪い人もいるでしょ。もちろん、妖精にも。そういう人たちが出会ったら大変だってことに気がついて、私たちは出入り口を閉じようとしたの。だけど間に合わなくて……」
「なにか、大変なことがあったんですか?」
「……うん。妖精王のお城が、乗っ取られちゃったの」
「た、大変じゃないですか!」
「すごく大変だよ。乗っ取られただけじゃなくて、王様を人質に取られて重臣たちが動けないの。それに妖精王の泉も占領されて、このままじゃ水が枯れちゃうかもしれない」
「妖精王の泉?」
有紀乃先輩は「しまった」という顔をした。でもそれは、僕にとっても後には引けなくなる最後の曲がり角を曲がってしまった瞬間だったのかもしれない。
有紀乃先輩は、しばらく考え込んでから再び口を開いた。
「妖精王の泉にはね、泉の精がいるの。あの子はいつも元気で明るい子なんだけど、私が久しぶりに会いに行ったら病気になってて……原因を調べたら、無理やり泉の水を汲み上げられていたせいだったの。あの水は妖精界だけじゃなく、すべての世界が存在するために必要な『命の水』が湧き出ているの」
先輩の表情を見れば、泉の精が先輩にとってどれほど大切な存在でどれほど深刻な状態なのか容易に想像できた。
「誰がそんなひどいことを……」
それが、人間の仕業……
「汲み上げられた水は……今人気のベーカリー・グリム特製ロールパンに使われているの」
「あのパンに?」
「美味しかったでしょ、あのパン」
「……はい、すごく」
美味しかった、本当に。思い出すだけで、あのじゅわりとしみ出てくる甘みが口に広がる。バターと小麦だけとは思えないあの美味しさは、妖精の泉の水の味だったのか。
「あのパン一個で、妖精の森の木が一本枯れちゃうの。もちろん、今すぐってわけじゃないけど、そのくらいの栄養がつまってるの。あのパン、来週からもっと焼く回数を増やすんだって。今は土曜日だけだけど、曜日も増えるかも。そしたらどうなると思う?」
「あっという間に森がなくなっちゃいそうです」
「そうだよね。だから、そうなる前にお願い。お城を取り戻すのを手伝って欲しいの」
ごくり、と大きな音を立てて僕は紅茶を飲み込む。
お城を取り戻す?
パン屋のバイトとはわけが違う。僕には何の力もない。たった一言「無理です」といえば済む。
それなのに……
「僕に、できることなんてあるんでしょうか?」
やめればいいのに聞いてしまった。どうせ僕にできることなんてあるはずもないのに。
「あるよ、もちろん。すごくイイコト」
「イイコト……」
昨日、飲み会の席で有紀乃先輩が言っていた言葉。
「そう。善いコトだよ、妖精界にとっても、人間界にとっても。だって、妖精が崩壊したら、人間界もなくなっちゃうんだから」
「それは、困りますよね」
あまりに話が大きくなりすぎて、他人事のような返事しかできなかった。人間界がなくなると言われても、実際にどうやってなくなるのか想像もつかない。
「でしょ? だから、一緒にイイことしようよ」
でしょ? って言われても困ってしまう。
「イイコト、って。つまり、具体的にどういうことなんですか?」
僕はつい、世間話の相槌のように訊ねてしまったんだ。
有紀乃先輩は答える代わりに極上の笑みを浮かべた。
そして、スローモーションのようにゆっくりと、先輩は唇を開く。
「一緒に、戦争しよう!」
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