第1章 -7
社員食堂のある九階まで行くと、ちょっとしたテラスがあることに気づく。朝からずっと室内にいたおかげで、外の空気が気持ちいい。春の夕風は肌寒いくらいだ。僕はテラスで、パートさんからおやつにもらった紙袋を開けてみた。そこには少し焼け過ぎた特製ロールパンが入っていた。ずっと匂いだけかいでお預けで、食べてみたかったけど売り切れだから無理だと思って諦めていたから、これはすごく嬉しい。早速一口かじってみる。お腹減ってるせいだけじゃなく、特製ロールパンは本当に嬉しかった。しっかりした歯ごたえと、家の中に広がるバターと小麦の香り。それから、噛むほどにほのかな甘みが、パンからじゅわりとし出てくるように感じた。なんだろう、この美味しさ。ただのロールパンなのに、ただものとは思えない味だ。このパンだけで、父の多治見堂はライバルである御伽屋に完敗だとさえ思ってしまう。それくらい美味しくて、食べることができて嬉しいのと同時に焦りを感じていた。
「仕事どう? 疲れちゃった?」
声に振り返ると、有紀乃先輩が立っていた。ずっと同じ職場で働いていたはずなのに、なんだかとても懐かしい気がする。
「あ、いや、全然大丈夫です。先輩は?」
「私は平気だよ。もう慣れてるから。それより、手伝ってくれてありがとうね」
先輩の笑顔は軽やかで、本当に疲れを感じさせなかった。僕は仕事中、有紀乃先輩に文句のひとつでも言わなきゃ気がおさまらない、と実は思っていた。けど、実際に先輩を目の前にすると、なにも言葉が出てこなかった。先輩もなにも言わず、僕らは二人でミニチュアみたいな街に沈んでゆく太陽を眺めていた。
「そのパン、美味しいでしょう?」
先輩が僕の手に残っていた、食べかけのロールパンに気づく。
「はい、すっごく美味しいです。僕、このパンを売ってる間、ずっと食べたいと思ってたんですよ。こんな美味しいパンがあるなんて、今まで全然知らなかったです」
「本当に特別なパンだから、味わって食べてね」
「はい。あの、先輩。特別って、どんな風に特別なんですか?」
「あ……えぇと、実は私もよくわからないんだぁ」
このロールパンが特別である理由を「わからない」と言ったことに少し違和感を覚えたものの、僕はそのまま聞き流した。パンの話より、伝えたいことがあったのだ。
「あの、先輩。今日は誘ってくださってありがとうございました。おかげでいろいろ勉強になったし、美味しいロールパンも食べられて本当に良かったです」
昨日の飲み会で、有紀乃先輩はフィールドワークの大切さを語っていた。だから、今日のこの仕事をさせてくれたのはきっと先輩なりの優しさだったんだろう。実際、僕にとってはとても実りのある一日だった。
「え、ちょっと待って。無理矢理バイトに連れてきたのに、お礼を言われたの初めてだよ。なんだぁ、そっかぁ、在人くんにお願いして良かったなぁ」
有紀乃先輩は満面の笑みを浮かべる。
「せ、先輩? もしかして、僕、騙されてたんですか? イイコトって、このロールパンのことじゃなかったんですか?」
「違うって、騙してなんかいないってば。あのね、このバイトはまだ準備の段階なの。本当のイイコトは、バイトが終わったあとだよ。だから、楽しみにしてて。あ、そろそろ戻らなきゃいけない時間だよ。さぁ、もう一息頑張ろう!」
「は、はい!」
僕は手に握っていたロールパンを口に押し込みながら先輩についていく。じっくり味わえないのはちょっと惜しかったけど、ロールパンはそれでもやっぱり美味しくて、食べると不思議に元気になれる気がした。
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