第1章 -4

 しばらくは順調に仕事をしていたはずだ。だけど、厨房にパンを取りに入ったとき、お腹が盛大に鳴ってしまった。空腹は我慢できなくもないけれど、体は正直だ。パートさんが売り場で苦笑しているのが見えるから、きっとお客さんにも聞こえてしまっただろう。


「しょうがないわね。だいぶ早いけどお昼行ってきて。社食の場所、わかるわよね?」

「あ、いえ、わかりません」


 この店の手伝いも初めてなら御伽屋デパートに来るのも初めてな僕には、社員食堂の場所なんて知る由もない。

 店長さんは困ったように辺りを見回して、誰かを見つけたようだ。小走りに裏口を出て、女の子を呼び止めてからまた戻ってきた。


「あの子についていけば大丈夫だから。あと、このサンドウィッチ持って行って、あの子、レイちゃんにも分けてあげてね。あとでまた休憩あげるから、三十分で帰ってきてくれる?」


 手短に説明され休憩に送り出されると『レイちゃん』と呼ばれた女の子は僕を待たずに一人で廊下を歩き去っていくところだった。


「ちょっと待って、えぇと、レイちゃん!」


 僕の声に立ち止まったレイちゃんは、肩まで伸びた柔らかそうな髪をふわりと揺らして僕の方に降り向き、ジロリと睨んだ。この辺では割と有名なお嬢様学校の夏服を着た女子高生だ。有紀乃さんとは違うタイプの、目元が涼やかな美少女で、強気な視線を僕に向けていた。


「……フロアから従業員出入り口に入る前に、ちゃんとお辞儀してなかった」

「え? お辞儀?」


 僕は慌てて記憶を早戻しする。従業員出入り口を通った人たちは……確かにフロアに向かってお辞儀をしていた。そんなこと、社員さんも教えてくれなかったけど。それを初めて会った年下の女の子に指摘されるなんて、すごく恥ずかしくて顔が赤くなる。


「教わってないの? それとも覚えてないの?」

「すみません」

「私に謝っても意味ない」


 と、レイちゃんは言いたいことだけ言うと、くるりと向きを変えて歩きだした。今度はさっきよりも早足だ。

 僕はなんとかレイちゃんに追いつき、同じ従業員エレベーターに乗り込む。階を上がるたびに人が減って、五階を過ぎた頃には二人きりになった。


「あのう。レイちゃ、レイさんも今からお昼なんですか?」

「私は午後から仕事。だから、その前に食べるの。あと、灰冠(はいかむり)だから」

「はい、かむ?」


 レイちゃんは早口で、それにちょっと突き放すような言い方だから、正直言うと聞き取りづらい。


灰冠怜羅はいかむりれいら、私の名前」

「あ、あぁ。はいかむ……レイさん。僕は多、じゃなくて治見在人です。お店の人からレイさんの分もサンドウィッチをもらったから、一緒に食べません?」

「一人で食べる主義だから」


 そう言って、レイちゃんはプイッとそっぽを向いた。

 なんでだろう。僕はなぜか、ここで会話をやめちゃいけない気がしたんだ。


「僕、た、じゃなくて、治見在人っていいます。わけあって今日はパン屋さんの手伝いをすることになったんだけど、レイさんもパン屋さんの仕事なんですか?」


 無視されるかと思ったけれど、レイちゃんは僕の方を向いて、僕の頭からつま先までを一筆書きで観察した。


「急に連れてこられたの? もしかして、黒上有紀乃に?」

「有紀乃先輩を知ってるんですか?」

「有名だもの」

「じゃ、じゃあ、一緒にお昼食べながら有紀乃さんのことを教えてもらえませんか?」


 僕がサンドウィッチを差し出すと、レイちゃんは受け取った。そしてすぐに九階のランプが点灯し、エレベーターの扉が開いた。


「社食はここ。私はパン屋じゃなくてちらしずし屋。あなたとはライバルなの。だからついてこないで、ここは戦場よ」


 それだけ言い放つと、レイちゃんは一人で先にエレベーターを降りて行ってしまった。僕は呆然としてそのまま上の階まで登ってしまい再び九階に戻ってきたけれど、レイちゃんは社員食堂のどこにも見当たらなかった。

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