第1章 -2

 御伽屋デパートは、両親の経営するデパート『多治見堂』と駅を挟んで向かい同士に立っているライバル店なのだ。

 立地条件も規模もそれほど変わらないはずなのに、御伽屋デパートは昨年あたりから急に売り上げを伸ばしている。

 おかげで父と母は毎晩経営のことで喧嘩ばかりだ。

 家族だけじゃない。

 御伽屋デパートは親戚からも敵視されている場所だった。

 そんな店の裏側になんか、入れるわけがないじゃないですか。


「僕、無理です!」


 ビルの裏側にある従業員出入り口に近づいたとき、緊張はピークに達していた。


「なんで? ただのバイトだよ?」

「だ、だって僕、面接もなにもしてないじゃないですか」


 従業員出入り口には怖い顔をした守衛さんがいる。身元を確認されたら、多治見堂のスパイだと思われて警察に突き出されてしまうかもしれない。


「あぁ、大丈夫、大丈夫。ちょっと待ってて」


 先輩は余裕のある顔で守衛室に近づくと「この子、今日からだから」と、実に簡単な紹介をして僕を守衛さんの前に立たせた。守衛さんはじろりと一瞥したあと、ぷいと顔を背ける。


「よ、よろしくお願いします」


 守衛さんに頭を下げて従業員入り口の扉をくぐると、細く長い廊下が続いていた。僕は父の店の裏側をのぞいたことがなかったから、勝手がわからず終始ドキドキしていた。有紀乃先輩からは相変わらずなんの説明もなく、僕はひたすら後ろを歩く。従業員用のエレベーターで地下に降り、そしてたどり着いたのは下りエスカレーターの目の前に位置するパン屋さんだった。


「人手が足りなくて困ってたの。授業がないときだけでいいから手伝ってね」


 ここまで来て「ノー」と言える雰囲気ではなかった。白衣のような制服とアルバイト用のIDカードを渡され、厨房から出てきた従業員さんたちに囲まれて、もうどこにも逃げられない。


「あなたが有紀乃ちゃん紹介のバイトさんね。名前はなんていうの?」


 店長と書いてある名札をつけた女性に訊ねられる。


「あ、あの。た、たじ……」


 いけない。多治見と名乗ってしまっては、僕が多治見堂の息子であることがバレてしまうかもしれない。どうしよう。多治見、たじみ、たじ、た……じ……


「じ、治見、在人です!」

「ジミ?」


 パートさんが、じぃっと僕を見つめる。

 僕はゴクリ、と喉を鳴らしたあと、もう一度名乗った。


「治見、です」

「やっだぁ、この子。顔はカッコイイのに、地味だってぇ!」


 パートさんたちからどっと笑いがあふれた。名前がバレなかったのは良かったけど、なんだか複雑な気分。


「それじゃあ地味くん、よろしくお願いします。わからないことがあったら誰でもいいからすぐに聞いてね。それじゃあみんな、準備して。早くパンを並べないとお客様が来ちゃうわよ!」


 店長さんに急かされて挨拶もそこそこに、僕は開店前の準備作業に組み込まれることになった。

 焼きたてのパンはいい香りで、朝食を抜いたお腹には毒だ。僕はなるべく匂いをかがないようにしながらトレーを運ぶ。棚に次々と商品が並べられ店が出来上がっていく様子は圧巻だった。


「あぁ、それ違うわよ!」


 フランスパンをカゴに並べようとしたとき、パートさんから慌てて止められた。フランスパンのことをバゲットと呼ぶことくらいは僕も知っているから、間違っているはずがないんだけどな。


「これはバゲットじゃなくてバタール。ちょっと太くて短いでしょ。これはパリジャンで、これはクーペ、覚えてね」


 いや、全然覚えられそうにありません。すみません。それにしても、フランスパンにそんなに種類があるなんて知らなかった。パートさんは「ここはいいから」と言って僕からパンを取り上げ、華麗な手さばきで並べ始める。僕は邪魔にならないように端に避けると、別のパートさんにぶつかりそうになってしまった。


「すみません」


 何度か人にぶつかりそうになるのを繰り返したあと、店長さんから「ガラスの外側を拭いてきて」と言われ、僕はなんとか邪魔にならない場所を見つけた。店と店を仕切るガラスの壁は一見キレイに見えるけれど、よく見ると至るところに指紋や埃がついている。きっと開店したらまたすぐに汚れてしまうだろうけど、せめて今だけはピカピカにしよう、と丁寧にガラスを拭く。やっと半分を磨いたとき、店長さんに「もう店が始まっちゃうわよ、いつまで拭いてるの!」と怒られてしまった。


 実のところ今までアルバイトというものを経験してこなかった僕には、なにもかもが新鮮だった。学校で先生に怒られるなんていうことはほとんどなかったし、家でも両親とケンカしたことがほとんどない。何事もそこそこ卒なくこなしてきたつもりだった。それなのに、今朝初めて会った人に怒られるなんて。ショックというより驚いた。だけど、確かにデパートが開店したときにまだ店が準備中だったらお客さんも興ざめだろう。僕は「すみません」と謝って、残りの半分を急いで拭き上げた。


 僕はてっきり慌ただしい開店準備だけのバイトだと思っていたんだけれど……

 気づいたら、お客さんが入ってくる時間になっていたらしい。


——いらっしゃいませ。本日は御伽屋デパートにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。


 店内アナウンスが流れると店員さんたちが整列してお客さんを出迎える。僕は慌てて列の横に並んだ。

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