プロローグ -2

「なぁ、おい。今年の一年生は何人集まったんだ?」


 幹事らしき女子の先輩に禅先輩が話しかける。


「それが、ゼミの新入生はみんな帰ったっていうから他の学科の友達に当たってみたんだけど、結局何人集まってるのかはわからないんだよね」


 小声だったけれど、それほど席が離れていなかったから禅先輩たちの会話はだいたい聞き取れた。どうやら、新入生はあまり集まっていないらしい。でもまさか、僕一人ってことはないだろう。だって、この部屋の中には三十人くらいいるんだから。


「マジかよ、やべぇな。もうお姫様が来ちゃってるのに。とりあえず一人は見つけたから、そいつでなんとか手を打ってもらおう」

「もしかしてさっき禅が喋ってた子?」

「そうそう。割といい顔してるし大人しそうだから、お姫様も気にいるんじゃないかな」


 ちょっと。ちょっと待ってください。

 一人しかいない新入生っていったら、僕のことじゃないですか。なんで勝手に僕の話で上がってるんですか? それにお姫様って誰なんですか? 今日の飲み会は、いったい何のための飲み会なんですか? 新入生の歓迎会じゃなかったんですか?

 僕が自問自答している間に、禅先輩は他の先輩との会話を終えたらしく席に戻ってきた。


「あのう……今日って、新入生歓迎会なんですよね? 一年生が僕一人っていうのは本当ですか?」


 僕は禅先輩に訊いてみる。

 先輩は頭をぽりぽりかきながら、自分にはわからないとお茶を濁した。


「まぁ、いいじゃんいいじゃん。そんなことより……」


 禅先輩が耳打ちする。


「黒上有紀乃には気をつけた方がいいよ」


 僕は再びウーロン茶をぶちまけそうになった。


「な、なんでですか?」

「あっれぇ〜? もしかして、もう有紀乃のこと知ってる?」

「い、いえ! 全然知らないです!」


 ついさっき現れたばかりの女性が気になっているなんて、口が裂けても言えない。


「そっか。じゃあ教えてあげるよ。さっき遅れて店に入ってきた女子が黒上有紀乃だよ。美人で有名だから目立ってるだろ? あいつ、悪いヤツじゃないんだけどさ。付き合いたいなんて考えない方がいいよ。友達ならいいけど、恋人なんかになったら痛い目見るから。有紀乃にはもう何人も捨てられてるって噂だよ」


 へ、へぇ。高校生だった頃も誰と誰が付き合ったとか別れたとか、告白するとかしないとか、恋愛話が話題の上位を占めていたけれど、大学生ともなるとそのレベルがアップするのだと入学早々思い知らされた感じだ。いや、大学生になったからというわけじゃなく、有紀乃先輩が美人すぎるから元々レベルが違うんだと思う。


「僕なんか、きっと視界にも入らないですよ」


 友達だなんてとんでもない。僕は今日、この飲み会で有紀乃先輩という存在を知ることが出来ただけで充分だ。話したいとか友達になりたいとか、ましてや付き合いたいなどということは考えてもいなかった。


「そうかなぁ。在人くんはカッコイイし、有紀乃も気に入ると思うけどな」

「そ、そんなことないです。先輩の方がカッコイイです!」


 禅先輩はまんざらでもなさそうに笑う。


「まぁとにかく、有紀乃には気をつけなよ。俺はちゃんと忠告したからな」

「はぁ……」


 正直、なんでそこまで念を押されるのか理解が出来なかった。あんなキレイな有紀乃先輩が、入学したばかりの年下男子なんかに目もくれるはずがないじゃないか。禅先輩は心配するフリをしながら、本当はからかっているのかもしれない。


 実は、禅先輩こそ有紀乃先輩の彼氏だったりして……

 なんて、一人悶々としていたときに、ふわりと甘い香りが漂ってきた。


「隣、空いてる?」


 意外と低くハスキーな声は、有紀乃先輩のものだった。


 隣には禅先輩がいたはず。そう思って部屋をキョロキョロ見回してみたけれど、いつの間にか禅先輩は会場からいなくなっていた。


「ねぇ君、新入生だよね?」


 少しとろんとした目で、有紀乃先輩は僕を真っすぐ見つめる。そして、大事そうに持ってきたビールのジョッキを目の前に持ち上げる。


「あ! は、初めまして」


 僕はウーロン茶の入ったグラスをカチンッと鳴らして、挨拶をするのが精一杯だ。

 先輩の香水らしき甘い香りに酔ったのか、僕の心臓はスピードを上げていた。そして、この場を取り繕うためにウーロン茶を一気飲みすると僕はむせてしまった。


「大丈夫?」


 僕が落ち着くまで様子を見ていた先輩が確認するように言った。

 まっすぐ、僕の目を見て。

 有紀乃先輩の瞳は、その髪と同じくらい暗く、まばたきするたびにキラキラと星が浮かんでいるように輝いて、なんだか吸い込まれてしまいそうだった。


「ねぇ、ホントに大丈夫?」

「あ、は、はい! 全然大丈夫です!」

「良かったぁ。ずっと黙ってるから、どうかしちゃったかと思ったぞっ!」


 先輩がピンっと人差し指を伸ばす。

 すみません。どうかしちゃったかもしれません。

 なんて。

 もちろん、そんなことは言えないけど。


「ねぇねぇ、なんの授業取ったの?」

「えぇと、必須科目の他は、経済学Iとか、マーケティング基礎、ですかね」


 経済学部に入ったのには一応、理由がある。親の仕事の助けになれば、と思ったからだ。ただ、周りの学生はみんなのんびりしていて、講義もまだ始まったばかりだと基礎的な内容ばかりで、どこか物足りなさと焦りを感じていた。


「懐かしいなぁ。マーケティング基礎って、フィールドワークだよね?」

「あ、はい。たしか話題になってる場所とか、流行ってるお店とかにみんなで行って研究するみたいですね」

「そうそれ! 美味しいケーキ屋さんに行ったり、喫茶店をはしごしてブレンドコーヒーばっかり頼んだり、私のときは食べ物関連のお店が多かったかな。そのあとのレポートを書くのが大変だったけどね」

「僕が聞いた話だと、レポートも簡単みたいでしたけど」


 それは、同じクラスになった子から聞いた話だ。フィールドワークは簡単に単位をもらえるから講義を受けた方がいい、その分遊んだ方がいい。大学生活は人生の夏休みなんだから、と言っていた。


「そんなの、人それぞれだよ。簡単なレポートでも単位はもらえるけど、それじゃあんまり意味ないと思うな、私は。せっかく研究のヒントを教えてもらってるんだから、とことん突き詰めてみた方が勉強になるんじゃないかな」


 大学に入ってまだ数日だけど、こんな風に真面目な意見を聞いたのは初めてだった。僕はみんなに流されないようにモチベーションを保つにはどうすればいいか考えていた。お手本に出来そうな人がいない、と思っていたけれど、案外早く見つかったみたいだ。


「そうなんですね。僕も真面目にレポートを書くように頑張ります」

「そうだよ、大学は教えてもらうだけじゃなくて、自分で学ぶところだよ。授業以外でも色んなトコに行って、色んな人に会って、やりたいことに向かっていかなきゃ。なにかやりたいことあるの? あ、まだ名前聞いてなかったね。私は黒上有紀乃。君は?」

「多治見在人です」

「在人くんかぁ。在人くん、君はどんなことがしたいの?」


 有紀乃先輩のまっすぐな瞳の前では、僕は嘘がつけなかった。メッキは簡単にはがれてしまう。親のため、なんていうのは大義名分だ。そりゃあ将来的にはなにか手伝えることがあるかもしれない。でも今すぐどうこう、なんてことはない。僕は自分が本当になにをしたいかなんて、実際は考えてもいなかった。

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