第三章 愛情の探索⑥

 夕方になり、名残惜しそうに手を振るカエルレアに手を振り返し、リリィはクローリスの屋敷に帰ってきた。

 夕飯までまだ時間があるため、リリィは一度自室に戻る。

 部屋の中を見渡して、ぽっかりと空いた穴を思いだし、リリィは眉を下げた。

(青薔薇のケースはどこに行ってしまったのでしょうか)

 きっと部屋の中にあると思うから、もう一度探してみようとリリィは棚に近寄っていく。

 同時に、扉をノックする音が響いた。

 扉を開けると、そこには険しい顔をしたウーゴがいた。

「ウーゴ……エルート? どうかなさいましたか?」

 二人きりだからと、彼の本当の名前を呼ぶと、彼女は微笑む。

 エルートが、どこか苦しそうで、いまにも張り裂けそうな思いを抱えているように見え、リリィは彼を元気づけるために、自分の気持ちを押し殺して笑みを浮かべる。

「……あ、いや。リリィ、最近変わったことないか?」

 言い難そうに問いかけられた言葉に、リリィは思わず息を飲んだ。

 けれど青薔薇のケースを失くしてしまったことを、彼にはまだ伝えていない。知っているはずがないので、この問いかけには別の意味があるのだろうと、リリィはそう思い口を開く。

「特にはありません」

「本当に本当か?」

「は、はい……」

 エルートの蒼い瞳から目を逸らし、リリィは言い淀んだ。

 それに気づかない彼ではないというのに。

 エルートはリリィの小さな変化に気づき、それから朝、彼女が落ち込んでいたことを思いだすと、ゆっくりともう一度問いかけた。

「何もなかったか?」

 優しい口調に、リリィはまつげを震わせて顔を上げる。

 もう隠し事はできないと、前にリリィは、彼に自分を信じて秘密を打ち明けてくれと言ったのに、その自分が隠し事をしては駄目なのだと気づき。

 エルートの瞳を見つめ返すと、いまにも泣きそうな切なく小さな声で、応えた。

「実は――」



「――そうか。安心しろ、リリィ。青薔薇のケースは俺が見つける」

 そう言うと、彼は部屋の中から出て行った。

 当てがあるかのような足取りに、呼び止めようとしたリリィは出しかけた手を止める。

 まるで彼が――エルートが、蒼い瞳に、リリィの知らない輝きがあるように見えて――。

 どうしたら彼を止められるのか、リリィにはわからなかった。



 いつしか、リリィは眠っていた。

 誰も見たことのない、女神フローラが作ったとされる秘密の花園。

 四季折々、沢山の花々に囲まれたそこで、ひっそりと花守の精霊が微笑む。


『愛しいリリィ。悩んでいるようだね』


 その声に、リリィは反応しない。

 フラワーフェアリーが心配するかのように、リリィの周りを飛んでいた。

 それが気にならないぐらい、リリィは心の中で悩んでいた。

 長い髪に神秘的な瞳の精霊は、優しい眼差しでどこか虚空を見つめながら、そんな彼女に問いかける。


『君は、誰も疑わないように、信じたいと、幸せになって欲しいと、愛したいと、そう思っている』


『それを、僕は間違いだとは思わない。正解だとも、思えないけれど。それでも、リリィのその思いは尊重して然るべきだとも思っているよ』


 これは夢なのだから、返答する必要はない。

 リリィは俯いたまま顔を上げず、精霊の消え入りそうなほど儚い声に耳を貸す。


『けどね、愛しいリリィ。――君は、ひとつだけ間違いを犯している』


『人を疑うことは、自らの信用を失う思いがするから、誰だって嫌なことだ。同時に信じることも、全てを受け入れてしまわなければいけないから、中々心が頷いてくれない。そんな思いは、誰だって抱えている』


『愛しいリリィ。君は、誰でも信じたいと、幸せになって欲しいと、愛したいと思っている。その気持ちは大切にするといい。――けれど、君はどうしても自分のことを信じられないでいる。自分の気持ちが分からないでいる。相手を愛したいと思っているのに、同時に本当はどう思っているのかと考える自分もいる。幸せになって欲しいと思っているのに、同時に幸せって何だろうと考える自分もいる。誰も疑わないで信じたいと思っているのに、同時に相手を信じられなくなった時の自分を悔いている。君は、自分の気持ちに疑いを持っている』


『疑うことは悪いことではない。疑って、はじめてわかる思いだってあるだろう。だから人は、犯人探しをするのだから。けれどやっぱり同時に、真実をすべて浮き彫りにしたところで誰もが幸せになれるわけではない。幸せというのは、その人個人がはじめて感じて決めるものなのだから、君にそれを決める権利はない』


『愛しいリリィ。君は、彼のことどう思っているんだい?』


『青薔薇は、昔は存在しない花と云われていたんだ。そのため、不可能なことを立ち向かう人々に対して憐憫の意味を込めて手向けられていたともいわれている。白薔薇を蒼く塗ったりしてね。けれどほんの数十年前、ついに存在しないといわれていた青薔薇が誕生した。だから人は、青薔薇のことを、不可能を可能にする花――つまり奇跡の花と呼ぶことにした』


『彼の宝物だという青薔薇のケースに、何の意味が込められているのかはただの花守の僕にはわからない』


『けれど、君になら分かるんじゃないのかな』


『愛しいリリィ、自分を信じて。自分の気持ちを疑わないで。その純粋な思いを、彼に伝えてあげるがいい』


『彼はきっと――それを待っている』


 まつげを震わせて、白い瞳を持ちあげたリリィは精霊を見た。この夢の中で――彼女は、はじめて花園を守る精霊の姿を見ることになる。

 精霊は、どこか虚空を眺めていたこの世のものとは思えない神秘的な瞳を、リリィに向けていた。

 優しくおっとりと、精霊は四季折々の花が咲き乱れた花園の中心で微笑んでいた。


『人間の気持ちというのは、ほんとうに難しいよね。何が正解かわからず、もがきながら人は生き続けるのだから』

 ――僕だっていままで散々迷ってきたのだから。



 そして、リリィは朝を迎える。

 目を覚ます前、精霊の囁きを聞いたような気がしたが、起きた彼女はすぐに忘れていた。

 いまからエルートに会いに行こうと、彼女は朝日の差し込む部屋の中、手早く着替えると隣の部屋に向かった。

 扉をノックするが返答がない。

 朝食に向かったのだろうか。それにしては時間は早いけれど。

 リリィは一階に下りる階段の途中で、ふと足を止めた。

 一階に降りる階段は螺旋を描くように曲がっている。その一番下から、階段を降りる途中のリリィの姿は見えていないだろう。

 声が聞こえてきた。

 囁くような、二人の声。

 よく知っている声だ。

 ひとつは押し殺すような呻き声に似たウーゴの声で、もうひとつは問い詰めるようなアカシアの声。

「……なんのことだ」

「惚けるんじゃないよ、ウーゴ君。おれはこれでも華族の一員なんだ。トランダフィルの王子さまが五年前、重い病に倒れたことも知っている。その王子さまの体が弱いこともね」

「そうですね。でも俺は奇跡的に生還した」

「本当に?」

「だから、どうしてそんなに疑うんですか。俺がトランダフィルのウーゴだということは、両親だって証明してくれる」

「本当に奇跡なんて起こったのかな」

「なんっ」

「君は、愛情に恵まれて育った華族の息子にしては、あまりにも愛情を知らなすぎる。まるで、昔から一人で生きてきたかのようにね。――おれはね、一人だったんだよ。両親を早く亡くし、この屋敷に厄介になることになったおれは、誰も頼ることができずに一人だった。けどリリィがいた。まだ幼い彼女が、おれの手を握って笑顔を浮かべたんだ。そのときに、おれは一人じゃないと気づいたよ。あのまま孤独を抱えて生きていたら、きっとおれも君みたいに冷たく淡い瞳のままだったんじゃないかな。君の瞳は、冷たくひんやりとした氷のようで、つっついたらすぐ壊れそうだ」

「どういう意味ですか?」

「――トランダフィル夫妻は、たいそう息子を可愛がっていたと聞いている。その息子が、君みたいな瞳を持っているわけがない」

「……」

「君は誰なんだい? 本当に、ウーゴ・トランダフィルなのかい?」

「俺は……」

 迷うような声の後、くっと噛み締めるような息苦しそうな声が聞こえてきた。

 リリィは足を踏み出す。

 音をたてて降りて行くと、会話している二人の間に滑りこむように割り込み、その白い瞳で蜂蜜のように甘ったるい瞳を見返した。

 はじめてみせるリリィの剣幕に、アカシアが目を見開く。

「リリィ?」

「お兄様。ウーゴは、五年前、青薔薇の力で生還をしたんです!」

「……は?」

 間抜けな声を出したのはウーゴだ。突拍子もなくリリィの口から出てきた言葉に、彼は戸惑った。

「私は、婚約の際に、ウーゴから青薔薇のケースをいただきました。これは自分の宝物だと彼はそう言っていました」

「……」

「あの青薔薇のケースは、ウーゴが十三歳の時にかかった病で辛く苦しく死にそうな時に、お母様から頂いたものなのです。青薔薇は、不可能を可能にする力があるらしく、その青薔薇の力で自分は病を克服したのだと言っていました」

 先に目を逸らしたのはアカシアだった。

 アカシアは、どこか不機嫌そうに口を尖らせる。

「……この男はウーゴだと、リリィは信じているのかい?」

「もちろんです!」

「そうか。リリィはそんなにも。これではおれは……」

 何やらブツブツ呟くと、アカシアはのろのろとした足取りで玄関の方向に向かって行った。

 その背中をリリィは眺めながら、リリィは自分がいま嘘をついたことに気づき、思わず口を抑えた。

「……リリィ?」

 躊躇うようなエルートの声。

 彼の目をまともに見られずに、リリィは俯いていた。

「ありがとうな」

 暖かい感謝の言葉に顔を上げると、そこには、昨日瞳に見知らぬ輝きを宿していたハイドランジアではなく、普段通りのエルートがいた。

 爽やかではない、温かい笑みで彼は背の低いリリィの頭の上に手を置く。

「俺のために、すまないな」

 リリィに嘘をつかせてしまったことに対して謝っているのだろう。

 違うのだと、リリィは頭を振った。

 これは彼のために吐いた嘘ではない。これは、自分のために吐いた嘘だ。

 だって、リリィは彼のことを――


「私は、あなたのことを愛していますから」


 リリィはそう言って、幸せそうに微笑んだ。

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