第三章 愛情の探索③

 散々探し回ったのも虚しく、ウーゴから貰った青薔薇のケースは、部屋中のどこにも見当たらなかった。

 無くさないように、大切に大切に置いていたものを、自ら外に持っていくわけがない。そんな記憶もないのだから、絶対に部屋の中にあるはずだと、リリィは信じているのに。

 ケースはまるで初めからそこに存在しなかったかのように、妙な空白をリリィに与える。

 リリィの部屋は、毎日彼女のお付きの使用人が掃除をしている。部屋に鍵はかかっておらず、屋敷にいる人物であれば、いつでも入ることができるだろう。

(でも、みんながそんなこと)

 リリィは人を疑うのが苦手だ。信頼している、彼女に仕えている使用人なら尚更。

 人を疑うということは、自らが人を信じたいと思う気持ちの価値を下げる行為だと、リリィは幼い頃、従兄のアカシアから教えてもらった。あの頃のリリィは、誰も信じられなくなっており、リリィを心配したアカシアが彼女の目を見て甘く微笑んで教えてくれたのだ。

 その思いを、リリィは痛いほど理解している。


 ――いいかい、リリィ。人を疑う気持ちを嫌ってはいけないよ。それは、同時に人を信じたいと思う自分の気持ちの価値を、下げてしまうことになる。

 ――自分を信じて、リリィ。おれはね、リリィになら、誰をも幸せにできる力があると思うんだ。


 いま思えば、咄嗟にでてきた、慰めの言葉だったのだろう。

 けど、その言葉に、リリィは救われた。

 十歳のリリィは、その見た目がお伽噺で語られる、女神クローリスにそっくりだと誰からも距離を置かれ、リリィ自身は、幼心からの気恥ずかしさから、なかなかそれを受け入れられずに育った。

 両親はリリィを、春に行われる祭典――フローラリア祭の看板の歌姫にしようと薦めていることを、リリィは十歳になるまで知らなかった。彼女は幼い頃から、歌の稽古を受けていたが、それは華族としての嗜みだと教えられてのことだった。

 引っ込み思案なリリィを、両親が心配して教えなかったことだが、ひょんなことからそれを知った十歳のリリィは、自分にそんな大役は無理だと、そう思いこみ引きこもってしまう。


 ――どうしてお父様は、お母様は、私の気持ちを考えずに、フローラになれと言うのでしょうか。私は、ただの娘なのに、この白髪も、白い瞳も、欲しいと思って手に入れたものではないというのに。私は、華族に産まれただけのリリィなのに。


 思い込みは、時に激しく人を縛る。

 それを、優しく紐解いてくれたのは、当時からリリィを溺愛して、温かい愛を与えてくれた――従兄のアカシアである。

 アカシアは、母の兄の息子で華族ではない。けれど、両親を失くしたアカシアは、彼が十八歳になって自立するまでクローリスの屋敷で暮らしていた。現在のアカシアは、二つ隣の町――アマランサス領華族の娘と結婚して、リリィとは別々のところで暮らしている。

 久しぶりに、大好きな従兄に会えたというのに、リリィの心の中に薄い靄がわだかまっている。

 簡単に拭えないその気持ちを抱えたまま、リリィは朝を迎えた。



    ◇◆◇



 朝食の席。昨日の朝、はしゃいでいたのが嘘かのように、リリィは静かに料理を口に運んでいた。

 頭を下げて、口に運ぶ箸はゆっくりで、掴んでいたものをたまに落としては、軽くため息をつく。取り繕うように顔を上げて、ご飯を食べたかと思うと、食欲がないのか箸を置いて「ごちそうさまでした」と手を合わせて立ち上がる。

「今日も、レアと約束があるので、出かけてきます」

「ああ……」

 部屋を後にしようとするリリィの背中が放っておけず、ウーゴは慌てて声をかけた。

「待った! 俺もついて行く」

 同じ席についているアカシアは、心配そうにリリィを眺めながらも、口を開くことはなかった。昨日のように、ウーゴに声をかけることもない。



 カエルレアの家、『妖精ニュンペーのパン屋』に行く道すがら、ウーゴはリリィになんて言って声をかけようか迷っていた。

 普段のふんわりとした優しい雰囲気から一変、しょんぼり頭を下げているリリィは、いつもよりさらに小さく見える。

 こんなにわかりやすく悩んでいるのに、リリィに掛ける言葉が思いつかない。一緒についていけば、途中で話してくれるかもと期待していたのだけれど。

 パン屋はもうすぐそこだ。カエルレアは、ウーゴに敵対意識を持っている素直な少女なので、彼女であればリリィの悩みを訊きだしてくれるかもしれない。

 淡い期待を抱くと同時に、ウーゴははっと目を見張り、足を止めた。

 昼前の通りは、いつもと変わらず人が多い。

 その中、噴水の前を通り過ぎて行く途中。ウーゴは、昔なじみの姿を――見つけてしまった。

「嘘だろ」

 思わず声が漏れる。

 リリィが反応して顔を上げた。

「どうしたのですか?」

 首を傾げる彼女に、悟られまいとウーゴは、爽やかな笑みを浮かべる。

「いや、ちょっと用事を思い出した。レアに、会えなくって残念だ、と言っておいてくれないか。――それと、リリィ、元気だせよ」

「ウーゴ?」

 不思議そうな白い瞳から視線を逸らし、ウーゴはその場を後にした。



 リリィの視界から自分が消えたことを確認して、ウーゴは自然を装いながらその人物に近づいて行く。

 相手は、まるで彼が来るのを待ち構えていたかのように、深い緑色の瞳を細めてニコニコと微笑んでいた。

「お久しぶりですね、ハイドランジア」

 黒く長い髪の毛を一つに結んだ、季節外れなふかふかと柔らかそうなマフラーを首に巻いた男性が、ウーゴの――五年前までの名前を口にする。

 神経を尖らせ、警戒心を隠すことなくウーゴは男性の名前を呼んだ。

「……セタリア。お前、どうしてここに」

「それはこちらの台詞ですよ、ハイドランジア。あなたは、何やら楽しそうに華族ごっこをしているらしいじゃありませんか。オレは、とても驚きました」

「……ごっこじゃねぇ」

「おや、そうなのですか。哀れで孤独なハイドランジアが、をできるとは意外だったもので、てっきり」

(相変わらず、人を食った物言いをするやつだ)

 セタリアというこの男は、ウーゴがウーゴになる前――彼がまだハイドランジアと呼ばれていた頃に、暗殺組織でお世話になった男である。

 彼は、暗殺組織のボスの側近で、ナンバー2の実力を誇っている。見た目はニコニコと人の良さそうな態度は崩さないものの、巧みな言葉遣いや、人を惑わせるのが好きな腹黒さ、その他もろもろの結構どす黒い心を持っており、同じ仲間でも容赦をしないところがあった。

 五年前。仕事を失敗したウーゴに届けられた手紙で、彼が暗殺組織を抜けざる終えなくなった時、まるで裏切り者を処分するかのような態度で、楽しそうに待ち構えていたのもこの男――セタリアである。

 ボスよりこの男は、厄介で危険だろう。

 しかもどうしてなのか、ハイドランジアが華族のウーゴの身代わりをやっていることを知っている。これも、組織の情報網が優れているからなのだろうか。

 正直、ウーゴは八歳から十三歳までの五年間暗殺組織で育ったが、暗殺組織がどうやって成り立っているのか、まだ幼かった彼は知らない。ハイドランジアという紫陽花の名前を貰ってはいたものの、何もできなかった彼は、最後に用済みの烙印を押されてしまい、組織の全容はなにひとつ伝えられていなかった。ただの暗殺組織だと、そう教えられていただけだった。

 いま背を向けるのはやばい。細い瞳は、鋭利にウーゴを見つめている。

 ウーゴは、呼吸をするのも忘れた得物のように、乾いた声で再度問いかけた。

「どうして、お前がここにいるんだ」

「休暇ですよ」

 答えはあっけらかんとしたものだった。

 油断してはいけない。この男は、こういう態度で人を惑わせるのだから。

「ボスが、組織のメンバー皆に一か月の休養を与えてくださいました。だから、オレはボスと一緒に、クローリスに羽を休めに参ったのです」

 緊張が走る。

 ウーゴは、ひとり青ざめて、蒼い瞳で忙しなく辺りを見渡す。

「ああ、ご心配なく。ボスはボスでも、新しいボスですから」

「新しい?」

「はい。前ボスは、仕事で怪我を追って意識不明の重体となってしまったので、組織の中でも前ボスの血を濃く受け継いでいる、が、メンバーの勧めでボスの座についております」

「はあ、息子って言うと、あいつか!」

 間抜けな声が出る。

「現在のボスは、拾われたあなたでも、他の誰でもない、ちゃんと血の繋がった息子――ガーベラが受け継いでいます」

「いや、でもあいつは」

「いまはもう立派に、仕事もこなせておりますし。、ガーベラには無垢な才能がありますから。……そう、それはもう、天から与えられたのではないかと言うほど、崇高な暗殺者としての才が」

 くっと、ウーゴは唇を噛み締めた。

 ウーゴは知っていた。ガーベラは、いまは十四歳程のまだ若い少年だろう。

 前ボスは、口達者ではあったが、ガーベラに対しては厳しく無口だった。ハイドランジアに対しては、熱心に暗殺術を仕込もうと教えてくれたのに、ガーベラに対しては厳しく、一切暗殺術に関しては教えていなかった。当時ガーベラは九歳程の幼い少年だ。お前にはまだ早いと、前ボスに言われたガーベラが、いつもはんべそをかいていたのをよく覚えている。

(ボスは、ガーベラを暗殺者にしたくなかったんだろうな)

 血の繋がった本当の息子だとは聞いていた。ガーベラの母は誰なのかはわからないが、周りが血の気の多い人殺ししかいない暗殺組織で、自分より幼く周りから拒絶されていたガーベラに、ウーゴは親近感に似たものを湧いていた。が、それでも、あまり話したことはない。

(あの泣き虫のガキがな)

 ぞわりと、言いようの知れない悪寒が背中を駆け巡る。

 恐怖は恐怖でも、これは先程の緊張感を伴ったものではない。未知の才能に対する、恐怖。

 目の前に立っているセタリアは、変わらない笑みを浮かべていた。

 ウーゴは乾いた唇を舐めとると、質問を重ねる。

「何の目的で、俺に会う」

「……なにも。オレも、も、休暇でこの町にやってきただけですから」

 ――それ以外は、なにも目的なんてありませんよ。

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