第二章 ニンファエアの友情⑦

「こんばんは」

 ロトゥスは、そう言って微笑んだ。

 リリィも微笑み返す。

「よかった。今日は、会ってくれないかと思ってたから」

「私のほうこそ、会ってくれないのかと思っていました」

「敬語堅苦しいな。もっと砕けた口調でいいんだよ」

 いつもみたいに。そう囁いた声はリリィに届かなかった。

 変わりに近づいて行くと、ロトゥスはリリィの白く純粋な瞳を見つめた。

「もうお別れだ」

 戸惑ったように、リリィが口を少し開く。

「ぼくは、もう君には会わない」

「……会えないではなくて?」

「そうだよ」

 言って、ロトゥスはどこか哀愁を匂わせる笑みを浮かべていた。

「どうして?」


「それは……。ぼくが君のことが好きだから」

(もう一緒にいられない)


「君に婚約者がいるから」

(ぼくは、存在しない存在だから)


「君が、ぼくを愛してくれないから」

(違う。ぼくは、ただと)


『ロトゥス、あたしもね、リリィのこと大好きなの。ずっと、ずっと――』

「一緒にいたい、から」


「だったら、これからも会いましょう。私に婚約者はいるけれど、あなたとになることはできるわ」

「……そうだね」

 優しく言うリリィの言葉に、だけどロトゥスはとてもつらそうに。

「でも、もう無理だ」

(だって、ぼくはもう眠らなくちゃいけない)

 唐突に、ふつふつと怒りが湧いてきた。

(あの精霊のせいだ。あの精霊が、ぼくを引きずり出したから。こんな思いをしなくちゃいけなくなった)

 最初はこの状況に喜んでいた。

 これで、夜だけはリリィと一緒にいられると。そう小躍りして、彼女に会いにきたというのに。

 そこでむざむざと、彼女とウーゴの思いを見せつけられて、余計に苦しくなった。

(違う)

 そう、も違う。

 もとよりロトゥスという存在は、この世にないものだ。死んだ魂が、片割れの中に眠っていたと例えた方がいいのかもしれない。

 ロトゥスは、ただ眠っていただけで、外の世界のことは片割れを通してほんの少し触れていたに過ぎない。いわば、彼に感情はなかったといってもいい。ただ眠っていた彼は、そこにいないはずの彼は――最初から、カエルレアと寸分変わらない存在なのだ。

 最初から違ったのだ。ロトゥスの抱いた思いは、ロトゥスの思いではない。

 「リリィを愛している」という思いは、彼女カエルレアの奥底で眠っていた、秘密の愛情だ。

 それをカエルレアは必死に押し留めていた。親友に対して、友情以上の愛を持っている自分を、恥じてもいた。男になりたい。そうしたら、リリィに気持ちを伝えられるのに。

 その思いを、あの花園の精霊がロトゥスとともにそっと肥料をたらして起こしたにすぎない。

 カエルレアは無意識の内にその感情を押しとどめ、自覚しないままリリィの親友の座に座り続けた。

 その結果、リリィに婚約者が現れ、独占し続けたその座のままでは駄目だと気づいてしまった。

 けれど、カエルレアはやはりそのを自覚できず、こじらせた結果、ロトゥスが産まれることになった。

(ぼくは、もう消えなければいけない)

 カエルレアが自覚しきれなかった、ロトゥスをカエルレアは見つけることができた。

 ずっと眠っていた彼を、その孤独な世界から解き放つことができた。

 ただ、もう、それだけで――

 いまのロトゥスは、幸せだ。

「え?」

 戸惑ったような顔をしている。

 満ち足りたというような顔で、ロトゥスは相好を崩す。

「ねえ、リリィ」

 愛しそうに語りかける。

「君は、本当に、ウーゴのことを愛している?」

「――はい。私は、あの人のことを愛しています」

 やはりリリィは、真剣な顔で断言した。

「それならいいんだ」

(時間切れか)

 自分の体のことだ。もう、ロトゥスの時間が長くないことを感じ取っている。

「じゃあね。リリィ」

 この魔法のような時間は、これで終わり。

 カエルレアのことを覚えている限り、彼はリリィの記憶から薄れて、やがて消えてゆくのだろう。

 それを満ち足りた思いでロトゥスは受け入れた。

『あたしは覚えているわよ』

 どこかからかカエルレアの声が聴こえる。

 窓から木をつたい降り、ロトゥスはクローリスの屋敷を後にした。



    ◇◆◇



 小鳥の囀りで、リリィは目を覚ます。

 大きく欠伸をしてからベッドを抜け出すと、外出用のワンピースに着替えた。オーダーメイドで繕われた、腰からふんわり膝下まで足を覆う、燈色のワンピースだ。

 これはリリィのお気に入りだ。なんていたって、去年の誕生日に、親友のカエルレアがくれたものなのだから。

「こんな早くから出かけるのか?」

 部屋の外に出ると、リリィの婚約者のウーゴがいた。本名はエルートというのだが、ウーゴと呼んでいるほうが都合がいいということで、リリィは彼のことを基本ウーゴと呼んでいる。

「いまからパン屋に行こうと思っているのですが、エルートもいかがですか?」

 二人きりの時は特別だ。エルートと呼ぶことは、リリィとしても譲れない。

「リリィがいいなら、ついて行くぞ」

「もちろんです!」

「……ところで、いつになったら俺に対して敬語が抜けるんだ」

「あぅ……これは癖みたいなものなので……。華族だから丁寧な口調でしゃべらないといけないよってから、教えられてきましたので」

「お兄様?」

 リリィは一人っ子だったはず。

 その疑問を察し、リリィは満面の笑みで答えるのだった。

「年の離れた従兄がいるのです!」

 それはあまりにも幸せそうで、思わずウーゴが嫉妬しそうになったほどだ。

(いや、俺は別にリリィのことを、本当に好きというわけじゃないぞ、まだ。……まだってなんだ。愛しているってなんだ)

 その言葉を、一昨日だったか、どこかで少年に対して真面目な顔で言った覚えがあるような、ないような。ないということにしておこうか。



 七つの時にもなれば、『妖精ニュンペーのパン屋』は、早朝のラッシュから解放されて時間の流れがゆっくりとなる。

 両開きの扉を押すと、軽やかな足取りでリリィが店の中に入って行った。

 カウンターで接客をしていたカエルレアはまだ気づいていないようだ。

 リリィは、ショーケースに陳列されたパンを眺めはじめる。扉付近に立ったまま、ウーゴはそんな彼女のうきうきとした後姿を見つめている。

(なるほど)

 そういえば、ここ一週間、カエルレアが会いに来てくれないわ、とリリィがため息をつきながら淋しそうにしていたのを思い出す。

 会いに来てくれないのなら、自分から会いに行くことにしたようだ。

 カエルレアはまだリリィに気づいていない。

 リリィがショーケース越しから、カエルレアに声をかけた。

「このふわふわのクロワッサンをください!」

「はい、お待たせ……り、リリィ!」

 やっと、カエルレアは気づいたようだ。

 続けて、ウーゴにも視線が向く。右手をひらひらさせて挨拶しておいた。

「て、どうして、リリィが、あ、クロワッサンよね。い、いま包むわ」

「三つでお願いします」

「あの王子、三つも食べるの?」

(なぜ俺が全部食べることになっている)

「ひとつは、あなたのよ」

「あ、あたし?」

「そうよ。これから少し散歩しましょう」

「な、なんで」

「私たちじゃない」

「……うぅ」

 なぜか、カエルレアが泣きそうになっている。

 リリィが慌てふためいて、首から掛けているポーチからハンカチを取り出すとそれをカエルレアに渡す。

「まだ泣いてないわよ」

 カエルレアは、泣き笑いのような顔になっていた。

 数日前、屋敷の前をうろついていた人物と一緒だと思えないほど、憑き物が取れた、涼やかな顔をしていた。




「ねえねえ、セタリアセタリア」

「はいはい、なんでしょうか」

 『妖精ニュンペーのパン屋』の向かいで、姿勢正しく立っている男性の服の裾を、少年が引っ張った。あまりに強く引っ張るものだから、セタリアは少年の手をやさしく包んで離す。

 ガーベラの興奮がそんなことで収まるはずがない。

 目を見開き、さも面白い遊びを見つけた子供のように、相好を崩してパン屋を指さしていた。

「見つけた、見つけた。ていうか、本当に王子やってるのか、あいつ」

「そうみたいですね」

「トランダフィルの王子のお伽噺って、何だっけ。ボク興味ないことって、覚えられないんだよね。確か、薔薇を食べてその薔薇の毒に犯され王子が、三百六十五日悶え苦しんでやがて死ぬ話だっけ」

「どんな創作ですか、それ。少なくとも、お伽噺で王子やお姫様は亡くなりませんよ。――トランダフィルの王子ですか。確か、美しい外見と引き換えに記憶を失くした薔薇の王子が、記憶を取り戻して元の薔薇に戻る道を選ぶという、孤独な話だったと思いますよ」

「へぇ」

「薔薇になった王子様は、他の薔薇の全く変わらない見た目になってしまうのです。誰からも自分を見てもらえず、やがて人の記憶から消えてなくなる。薔薇を区別できるほど、愛せる者はいませんからね」

「変なの。それの何がなんだ? 他の薔薇と同じ外見になれたということは、仲間が増えたということじゃん。それならむしろ孤独感から解放されるんじゃないか?」

「お伽噺の感じ方は、人それぞれですからね」

 ふふ、とセタリアは細い目をさらに細めて笑う。

 ガーベラは、やはり不思議そうに先程のお伽噺を吟味していたようだが、すぐに興味を失ったのか、再びパン屋に視線を戻す。

「――愛か」

 否、彼はまだ先程のお伽噺のことを考えていたようだ。

 少し瞳に険を交えて、少年に似つかわしい笑みを浮かべる。

「ねぇ、セタリア。本当に愛なんてもの、あると思う?」

「……」

 返答など求めていないと、セタリアは気づいたので黙っておく。。

「愛さえあれば、沢山ある薔薇の中から、たったひとつの大切な薔薇ものを見つけ出せるのかなぁ……なんだか、試したくなっちゃった」

「いまは休暇中では?」

「休暇中だよ。ボクがそう決めたんだからな。だけど、休暇中ってことは、自分の好きなことをやっていいんじゃない? だったらさ、ちょっと試してみようぜ」

「と、いうと?」

 分かり切った言葉を、セタリアは微笑ましそうに促す。

、だよ」

「――ふふ、それは楽しそうですね」


「あの王子様を気取っている哀れで愚かなが、本当の愛を手に入れたのかどうか、確かめてみるのもまた一興だろ!」

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