第二章 ニンファエアの友情⑥

 夢のことなんてすっかり忘れていたといえば、それも嘘になる。

 夜中に目を覚ますこともなくなったが、数日前に自分が少年になった、のことをたまに思い出すことがあった。

 あれは本当に現実だったのだろうか。

 自分が男になったなんて、そんな非現実的なことあり得るのだろうか?

 それから昨夜の夢。

 自分が少年になって、リリィを唆していたような。

(いやいやそんなことありえないわ。確かにあたしはリリィのことが大好きよ。けれどあれは)

 やはり別人だ。いくら金糸のような金髪が似ていたとしても、それは全くの他人。

 カエルレアはカエルレアで、夢の中の少年のことなんて全く知らない。

(名前なんだっけ)

 少年が名乗っていた名前が、頭の片隅まで出かかっている。それを思い出そうと躍起になっていると、母に声をかけられた。

「レア、買い物に行ってくるわね」

「いってらっしゃい」

 買い物袋を持ち、傍らを母が通り過ぎていく。その背中を見送ろうと視線を向けた瞬間、カエルレアは思い出した。

「そうだ、ロトゥス」

 夢の中の少年の名前だ。金髪碧眼の彼は、自分のことをそう名乗っていた。

 始めて口にする言葉のはずなのに、どこか懐かしさを覚える。

「ロトゥス……。レア?」

 訝し気な顔で母が戻ってきた。

 カウンター越しに、同じ赤い瞳で見つめ合う。カエルレアは首を傾げた。

「レア、あなたロトゥスって言わなかった?」

 どこか困惑した様子で、母が再度訪ねてくる。眉をしかめ、目尻は上がり、どこか怒っているようにもみえ、カエルレアは口を噤んだ。

 ロトゥスとは、夢に出てきた少年の名前だ。母がそんな反応をする理由が思いつかない。それはまるで危険信号のように、切羽詰まった母の顔にますますカエルレアは困惑する。

「私の、聞き間違いならいいのよ」

「……ロトゥスがどうかしたの?」

 尋ねずにいられなかった。カエルレアは、疑問を払拭するべく、母に問いかける。

「知っていて、口にしたんじゃないの? お父さんに聞いたのかと思ったのだけれど、違うのかしら」

「……」

「そう、そうよね。無口なあの人が、そんな話をするわけないわよね」

「お母さん?」

「か、カエルレア、その名前は忘れなさい。いい? 絶対よ!」

 私は買い物に行ってくるから、そう言って母が店を出て行った。まるで何かに追われているような後姿に、カエルレアは狼狽うろたえる。

(ロトゥス)

 あなたは誰なの?

 そう、問いかけたくなった。


 夕飯のあと、カエルレアは父に呼び出された。

 食卓に三人で座り、カエルレアは父と母からとある話を聞かされる。

 産まれて初めて聞いたその話は、あまりにも衝撃的で、カエルレアは思わず言葉を失った。

 ――曰く、カエルレアはもともと双子だった。双子の弟は、生まれる前に、母体の中ですでに亡くなっていた。双子が生まれてくると信じて疑わなかった両親は、すでに名前を考えていたらしい。

 それが――ロトゥス。

 亡くなったロトゥスは、青い瞳だったという。

 それこそ、夢の中の少年と同じような。



 その日の夜。

 カエルレアは夢を見ていた。

 夢の中で、少年が縮こまって泣いている。

『どうして誰もぼくをみてくれないの?』『ぼくはここにいるのに』『死んでなんかいない』『ロトゥスは消えてないよ』『ここにいる』『ここにいるよ』『ぼくも、愛しているよ』

 儚い彼の存在は、いまにも消えてしまいそうだった。

 それもそうだろう。ロトゥスは、とうにこの世にいないはずの存在だ。

 産まれる前に死んでいるのだから。

 もしもカエルレアが夢を見なければ、彼の存在は誰からも見つけられることなく、こうやって縮こまっていることしかできなかったのだろう。

 けれど、カエルレアがリリィに寄せる思いが、再びロトゥスをこの世に顕現させた。

 金髪の少年は、縮こまり泣いている。

 その姿は、迷子になった子供そのもののようで。

 彼の前に、カエルレアは立った。

「ロトゥス」

 優しく呼びかける。

 驚いたように、ロトゥスが顔を上げる。

 微笑んだカエルレアが、彼の頭を撫でる。

「おはよう、ロトゥス。ずっと逢いたかったわ」

『……』

「あたしの愛するロトゥス」

 同じ顔立ちの少年を、カエルレアは絶対に忘れないと、そう心に誓った。



    ◇◆◇



 外から吹いてくる風で、カーテンが揺れる。

 ベッドに座ったリリィは、目線を上げて窓を見つめる。

(今夜、彼はくるでしょうか)

 昨夜のことを思い出す。

 リリィは、彼のことを全く知らない。

 ロトゥスという少年は、いきなり彼女の前に現れて、愛を囁いただけの見知らぬ他人。そのはずなのに、彼と一緒にいる間――リリィは、懐かしい気持ちを感じていた。

 ここ数日、忘れている感覚の、その正体を確かめたい。

 昨日は、ウーゴに顔向けできないことをしてしまい、昼間も夜も上手く自分を保つので必死で周りが見えていなかった。それは一昨日も同じだ。ロトゥスという少年の行為は、それだけリリィを惑わせるのに十分だった。

 リリィは、けれど今日は気持ちを落ち着かせている。

 昨夜。ロトゥスの言葉を聞いてから、リリィはここ数日顔を合わせていない親友のことを思い出していた。

 どうして忘れていたのか分からないほど、呆気なく大切な親友との記憶を思い浮かべる。

(レア)

 一週間ほど前、ウーゴに会ったときのカエルレアは、リリィのことを思ってあんなこと言ってくれたのだろう。それはあながち間違っていなかったものの、ウーゴという人物はとても優しい人物だということを、あれからリリィは確かめることができた。

 リリィは人を疑うのが苦手だ。

 できないといっても過言ではない。

 そんな純粋な彼女だからこそ、ウーゴのことを受け入れることができたのだろう。

 彼女はただ、世界中のすべての人が幸せに暮らせるようにと願っている。

 ウーゴも、親友のカエルレアも、それから昨夜会ったばかりのロトゥスだって。リリィは、幸せになって欲しいとそう望んでいる。

 だから、ロトゥスに今日も会いたかった。彼の気持ちに応えることはできないけれど、彼が幸せになれるようにと、伝えることができるから。

 カーテンが、風で揺れる。

 一瞬窓を隠し、露わになった窓枠に、金箔碧眼の少年が座っていた。

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