第二章 ニンファエアの友情③
目を覚ますと、外はすっかり真っ暗になっていた。
カエルレアは、ベッドから体を起こすと、ボサボサになっている髪を手櫛で整えようとして、その手が空を切った。
はっとカエルレアは、手鏡を手繰り寄せると覗き込んだ。
また、少年になっている。
「どうして」
掠れた声は、反響することなく空気に吸い込まれて消えていく。
鏡の中の彼女は金髪の少年になっており、ふたつの青い瞳が怪しく輝いていた。
その瞳を見ていると、頭がくらっと揺れ。
カエルレアは、おぼろげな頭でベッドから立ち上がった。
すっかり暗くなった窓の外を眺めると、三日月が空高くに上っている。
それを暫く眺めたあと、カエルレアは部屋から抜け出した。
もう夜も九つの時が過ぎれば、知らずのうちに眠気がやってくる。
風呂上がりのリリィは、ベッドの上に座ったまま船を漕いでいた。
トントン、と窓の方から音がしたのはその時だ。
リリィはその音にはっと目を開けると、窓に目をやった。
再び、トントンと今度ははっきりと、窓をノックする音が耳に届く。
(こんな時間に何かしら)
不思議に思いながらも、リリィは窓辺に近づく。
躊躇いながらカーテンを捲ると、人影がガラス越しに人影が映っている。ここは二階だ。どうやってこんなところに。そう思いながらも窓を開くと、見知らぬ少年が木の枝に跨っていた。
金髪に青い瞳の少年は、自身の唇にしっと人差し指を押しあてると、リリィの脇から部屋の中に転がり込んできた。
悲鳴を上げそびれたリリィは、口を開いて少年を見る。彼はどうやら、庭に生えている木からこの部屋の中に入り込んできたようだ。年齢はリリィと同じか少し下だろうか。線の細い顔立ちの少年は、部屋の中を見渡してからリリィにその瞳を止めると、にっこりと微笑んだ。
「だ、誰ですか?」
そこでやっと声を絞り出し、リリィは彼に尋ねた。
少年は、少し迷った素振りの後、うんと頷き口を開く。
「ぼくは、ロトゥス。君は?」
「リリィ、です」
「リリィ、とてもかわいい名前だね!」
「あ、ありがとうございます」
母から授かった自分の名前を褒められて、リリィは思わず顔を赤らめる。
満面の笑みを浮かべた少年は、いつの間にかリリィの傍までやってきていた。
身長はリリィより幾分か高い。
「うん。その笑顔もかわいい」
「え、そ、そんなこと言われましても。こんなはしたない顔」
「そんなことないよ。林檎のように真っ赤になって、思わずくちづけをしてしまいたいぐらいかわいい顔をしているじゃないか」
「え、く、くちづけは困ります」
「なぜだい?」
少年が首を傾げる。
どんな顔をしていいのかわからずに、リリィは戸惑いながら答える。
「私には婚約者がいるので」
「婚約者?」
眉を潜めた少年は、すぐに笑顔に戻る。きらきらと青い瞳が輝く。
「そんなことは関係ないよ、リリィ。婚約者なんて、そんな前提的なこと。結婚していないのであれば、まだ君は遊ぶ権利があるんだよ。はしたないなんてそんなこと考える必要は無い。まだ君は、その男のモノになったわけじゃないだろう?」
「でも私には、ウーゴが」
「じゃあ君は、その男と一夜を共にしたのかい?」
何となしの少年の問いに、リリィは顔をますます赤らめた。その初々しい表情に、少年が大切なものを愛でるかのような穏やかな顔をする。
リリィは両手で頬を挟みながら、頭を振った。
「それはまだです。けれど、私はあの人のことを愛しています。だから、あなたの言葉に誘われるわけにはいきません」
「愛している、ね」
「はい。私はウーゴを愛しています」
「そう。そうか。でも、ぼくだって」
その時、リリィは警戒していなかった。だから傍まで寄ってきた少年に腰を抱き寄せられたのに反応できず――頬に温かいものが当たったことにより、我に返る。
少年を突き飛ばすと、リリィは青ざめた顔でくちづけされた頬を押さえる。
少し寂しそうな顔で、少年は囁いた。
「リリィのことを愛しているんだよ。ずっと、ずっと――それこそ、ウーゴよりだいぶ前から。僕は君のことを、ずっと愛しているんだ」
切ない声が響く。
リリィは、ふとどこかで聞いた覚えがあるような気がした。けれどそれはやっぱり気のせいだろう。彼とは初対面だ。
青い瞳を瞬かせ、少年はそっと窓辺に戻る。
「リリィ。また明日くるよ。君を振り向かせるためなら何回でも、ぼくはここにやってくる」
そして、少年の後姿は三日月の闇夜に消えて行った。
少年はずっとリリィのことが大好きだった。
五歳に出会った時からずっと、彼は彼女のことを見てきた。
だけど彼には言葉がなかった。話せる身体が、存在が、彼には備わっていなかった。
生まれる前に消えてしまった小さく青い花の咲くところいえば、片割れの心の片隅だけ。
その片割れも、彼の存在を知りはしない。枯れそうなほど儚い花の存在なんて、誰も知るわけがなかった。
そんな彼の望みをあの精霊が見つけてくれて、やっと彼も表に出ることができたのだ。夜という短い間だけ、彼は彼としてリリィとお話をすることができる。
「愛しているよ、リリィ」
それこそ、あのウーゴよりもずっと、ずっと前から。彼は、リリィのこと愛する花の一部だった。
そんな彼が、ぽっと後からしゃしゃり出てきたウーゴ・トランダフィルの存在を許すことができるだろうか。
彼はいま、少し不機嫌になっている。
リリィの前では決して見せることのない怒りの形相で、茂みの中からリリィの部屋の隣室の窓を睨みつける。
「ウーゴ・トランダフィル。薔薇の王子様とか持て囃されて恵まれて育てられてきた君に、ぼくみたいなちっぽけな存在なんて見えっこないよね」
一週間前に会った、暗く憂いを帯びた蒼い瞳を思い浮かべる。
(でも、何だろう。あの男は、ほんとに華族なのか)
ぼんやりと疑問は浮かぶが、そんなの些細な問題だ。
ウーゴ・トランダフィルは、彼女の婚約者だとかのたまうあの男は、彼女を害する存在になるかもしれない。
そちらの方が、少年――ロトゥスにとっては問題だった。
もうすぐ三日月が沈む。
それより早く家に戻るために、ロトゥスは急いで帰路につく。
片割れが目を覚ます時間だ。
部屋の中に日差しが入り込む早朝、カエルレアは目を覚ました。
目をこすって欠伸をすると、ふと思いたちカエルレアは手鏡を覗き込む。
鏡に映るのは、いつものカエルレアだ。間違っても少年ではない。
確かめて満足すると、カエルレアはベッドから這い出して私服に着替えることにした。リリィから貰った大切な赤色のカチューシャも忘れない。
今日も朝早くから店のお手伝いがある。
カエルレアは、昨夜見た夢のことなんてすっかり忘れていた。
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