第二章 ニンファエアの友情②

「な、何なのかしら。何なのかしら、これ」

 いつも甲高い声は少し低く、男にしては高めかもしれないが少年っぽさを含んだその声に、はっとしてカエルレアは口を噤む。

 鏡にいる人物は童顔で、一重で、まつげが短く、ぱっちりと瞬きをすれば青い瞳が覗いたり消えたりする。どこかカエルレアに似ているのだけど、そこに少女っぽさは伺えなかった。

 試しに、十歳の誕生日にリリィから貰った大切な赤いカチューシャを付けてみる。

 うん、似合わない。

「じゃなくって! これはどうなっているのッ!」

 カチューシャをつけたまま泣き喚くが、声が変わることもない。鏡に映る少年も、消えることはない。

 自分の身にいったい何が起こったのだろうか。

 先ほど何か夢を見ていたと思ったのだが、カエルレアは思い出せなかった。

 手鏡をもっていない方の手で、頬を抓んでみる。鏡に映る少年も頬を抓まれていた。

 抓まれた頬はじりじりと痛み、これが夢でないことを如実に伝えている。

 カエルレアは、やっと自覚した。

「あたし男になってる! な、なんでなのかしら」

 そして、カエルレアは朝になるまで鏡の中の少年の顔をした、自分の頬を抓んだり引っ張ったりして現実と向き合おうと努力していた。

 日が昇って朝になると、鏡に映っているのは少年ではなく、赤いカチューシャをつけた赤い瞳のカエルレアに戻っていた。



    ◇◆◇



(何だったのかしら)

 カエルレアの家は、パン屋を営んでいる。

 ディーヴァニア王国の人々は、朝食は主にパン類を主食としていた。そのため、早朝から看板を上げるカエルレアのお店、『妖精ニュンペーのパン屋』は忙しい。

 父の焼いたパンを袋に詰めてお客に渡すのがカエルレアの仕事だ。

 朝も七つの時が過ぎて客足が遠のくと、寝不足も相まって床にぺたりと座りそうになった。床に座るのははしたないとカエルレアは思い、彼女は自室に戻るともう一度確かめるように手鏡を取る。

 鏡に映っているのはカエルレア本人で、夜中に映っていた少年はどこにもいない。

 そうだ、幻想だったのだ。あれはすべてまぼろしが見せていた夢のような光景。

 カエルレアはそう思いこもうと、決意しようとしたけれどできなかった。

 窓から風が吹いている。八つの月ともなれば、その風は温風を伴っていた。

 暖かい風が頬を撫でるのに身を任せながら、カエルレアはぼんやりと窓の外を見る。

 今日も天気が良く晴れ渡っており、雲ひとつない空は雨が降る気配もない。その晴天とは逆に、カエルレアの心の内には靄がかかっていた。

 ふとカエルレアは一週間前のことを思い出す。

 ウーゴと顔を合わせた日、リリィがクッキーを落としたのを。あのとき気の利いた言葉をかけることができずに、傷ついたリリィを危険なウーゴと一緒に置いたまま、挨拶もそこそこに帰ってきて、後から後悔したのだ。

 あれからリリィとは会っていない。ウーゴとももちろん、顔を合わせてなんていない。

 一週間という長い間、カエルレアは大好きなリリィに会っていないことに気づき、早朝の労働で体が疲れていることもお構いなしに彼女は立ち上がった。

(リリィに会わなきゃ)

 クッキーはないけれど、余った菓子パンがあったはず。

 カエルレアは靄を払うべく、用意もそこそこに外出することにした。



 そしてカエルレアは、クローリスの屋敷の前にいた。

 余ったパンの入った紙袋を片手に、うろうろと傍から見ると不審者さながらな様子で歩き回っている彼女を、屋敷の窓から見つけた人物がいた。

 ウーゴは暫く窓枠に手をついて、面白そうにカエルレアを眺めていたのだが、ずっとそのままにしておくと、この炎天下の中目を回して倒れかねないので、窓から身を乗り出して声をかけることにした。

「おーい。レア。何のようだー」

 びくっと猫のように肩を弾ませて、カエルレアが辺りを見渡す。そしてやっと上を向いて、ウーゴの姿を見つけた途端、警戒心をあらわにした番犬のように目つき鋭く叫び声を上げた。

「軽々しく名前を呼ばないでくれない、!」

と呼ぶなと言ったはずだが?」

 呆れたように笑い、ウーゴは爽やかではない普通の笑みでカエルレアを見下ろしながら、言葉を続ける。

「リリィになんか用か? それなら、扉をノックすれば使用人が気付くぞ。そういえばリリィも最近レアが会いにきてくれないって悲しそうにしていたな」

「う、ち、ちがう、こともないけど、でも」

「ん? 違うってことは……もしかして俺に会いに来たのか?」

「それはもっと違うんだから!」

「そうか」

「もう、帰る!」

 怒ったカエルレアは、そう言うと屋敷の前から遠ざかって行った。

 彼女の背中を不思議そうに眺めながら、ウーゴは呟く。

「なんだったんだ?」

 カエルレアの姿が消えたのを見計らい、彼は窓を閉めるとその場を離れた。



 そして家に戻ってきたカエルレアは、ベッドにダイブすると枕を抱き寄せた。

 リリィに会えないのは寂しい。

 けれど、ウーゴに会うのは同じぐらい嫌だった。

(リリィは渡さないんだから!)

 そう思ったところでウーゴはもうすでにリリィの婚約者なのである。リリィの気持ちが変わらない限り、ウーゴがいなくなることはないだろう。一週間前に会った時、リリィはウーゴに対して恋情を持っているように思えた。

(リリィはあたしがいないと)

 リリィは誰でも受け入れてしまう危うい性格をしている。それは物心つく前から従兄に溺愛されて育ったからなのだけれど、その危うく純粋なところもカエルレアは好きだった。だから、自分が守るために傍にいないと。そう思って、ずっと友人という立場に甘んじていたのだ。もっともっとリリィの近くに行きたかったのだけれど、リリィは親友であるカエルレアにさえいつも薄い壁を作っていた。

(でもリリィの傍には、あの男が)

 ウーゴの顔がちらつく。特にあのい瞳が。

 それに似た青い瞳を、最近見た覚えがある。

 カエルレアは枕に顔を押し付けて目を閉じながら、どこかで見た青い瞳に思いを馳せた。

(リリィは、あの男のどこを好きになったのかしら)

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