第一章 婚約者の秘密⑦

    ◆◆◆



「――俺は人を殺したんだ」

「え?」

 長い長い彼の話を聞いた彼女の最初の一声は短い声だった。

 リリィはまつげを震わせて俯く。

 いくら誰でも受け入れるほど純粋な性格をしていたとしても、ウーゴではない彼の過去の話は、重くのしかかり受け入れるのは困難だろう。

 彼は、碧い瞳を逸らそうとした。その瞬間、リリィの純白の瞳が彼に向く。

「あの、どうしてもわかりません。あなたは、人を殺したことがないのではありませんか?」

 どこかとぼけたようにも見える表情に、彼は毒気を抜かれる。

 思わず茫然と、少女の顔を見下ろした。

 彼女は真剣な眼をしている。

「何を言ってるんだ?」

「あなたは、暗殺者の時に仕事を失敗したと言っていました。殺せなかったと。そのあと、あなたはずっとウーゴとして暮らしてきたともいっていました。あなたは、いつ、どこで、人を殺めたのですか?」

 思わず唇を噛み締める。彼は瞳に光を湛えて、声を荒げた。

「俺はウーゴの存在奪って、生きている」

「それでも、そのは病気で亡くなったのですよね。それでしたら、あなたは無関係なのでは?」

「俺はウーゴじゃない。ウーゴは死んだ。けれど、俺はウーゴとして生きている。俺の存在が消えるのなんてどうでもいいんだ。でもウーゴは、母親から死んだことを認識されず、友人からも仮初のウーゴしか知られることなく、誰も死んだあいつのことなんて忘れている」

 ああ、そうか。と彼は同時に思った。

(俺も、ウーゴあいつも、本当の自分は誰からも見られないんだ)

 認識されず、存在を捨て去られ、いつしか自身でさえ忘れてしまう。

(同じだな)

 顔や雰囲気だけではなく、ウーゴと彼はあまりにも存在が似過ぎている。まるで双子みたいだ。そんなことあるわけないのだが。二人とも生まれも育ちも真反対なのだから。

 リリィがまた悩むように眉を潜める。それがどこか切なそうで、彼女を傷つけてしまったことに、今更ながら彼の胸がズキッと痛んだ。

 けれど、もう退き返すことはできない。

 彼はゆっくりと口を開いた。

「俺はずっと周囲を騙して生きてきた。暗殺者だということも、ウーゴじゃないということも、俺がただのハイドランジアで……いや、これすら異名だから違うな。誰からも知られることのないは、ずっと学友やアバントさんやライカさん、ウィミィも……お前だって、騙して生きてきた。そんな俺のことを信じることなんて、できるわけがないだろう? お前みたいな箱入り娘に、こんな苦しみわかるわけがない。……俺は、お伽噺のトランダフィルの王子なんかじゃないんだ」

 彼は無理やり微笑もうとして、やめた。あんな爽やかな笑みなんて、もうこんな気持ちで浮かべられない。

 トランダフィルの王子は、美しい外見と共に記憶を奪われ、それを探しながら様々な国や町を旅した。その間に徐々に自分の記憶を取り戻すことを成功し、薔薇となって永遠に眠ることを選んだのだ。いくら美しい薔薇の王子でも、薔薇になったら他の薔薇と区別がつかなくなる。だから、王子の薔薇の存在のことは誰も知らない。それこそ夢物語のように。このお伽噺にどんな意味があるのかはわからない。けれど、彼はふといまの自分と似ていることに気づいた。

 彼はいま、自分の秘密を打ち明けて、彼女を傷つけて、この場から消えようとしている。お伽噺のように綺麗な話ではないが、自分はこのままここから抜け出して、それからどこに行こうとしているのだろうか。

(そんなのはあとから考えればいい)

 いまはもう、リリィの泣きそうな顔を見ているのがつらかった。

 彼はゆっくりとベッドから立ち上がる。

 左腕に温もりを感じた。

 座りながら、リリィが彼の腕を白く綺麗で穢れを知らない手で掴んでいる。

 それに息を飲み、彼は振り払おうとした。その寸前に、悲痛なリリィの声が響く。

「あ、あなたの本当の名前を教えてください!」

 想定していなかった問いかけに、彼は腕を掴まれたまま唖然と少女を見下ろした。

 リリィは未だ真剣な顔をして、泣きそうな白い瞳は、真っ直ぐ彼に向いている。

「それを知ってどうする?」

「私は、あなたのことが知りたいです」

「それなら、俺がウーゴ・トランダフィルとは真っ赤な別人で、元暗殺者のハイドランジアだということで十分だろう」

「違います。ウーゴもハイドランジアも、あなたの本当の名前ではありません。それぐらい理解できます。だから、あなたの本当の名前を知りたいのです」

「だから、それを知ってどうするんだ?」

「私は、あなたの妻になる女です。一か月後には挙式を上げて、妻になるのです。あなたから貰ったあの青薔薇ケースも、棚に飾って大切にしています。それをお忘れですか?」

「だから、俺はウーゴじゃないから、お前の婚約者でも何でもないんだよ」

「違います。あなたは私の婚約者です。たとえあなたがウーゴという名前でなかったとしても、婚約者だということには変わりありません。私は、のことが知りたいんです! 自身のことが!」

「だから、俺はお前の婚約者じゃない。ウーゴじゃないんだ!」

(これじゃ堂々巡りだ)

 頭を振り回す。彼女の手を離そうと腕を振るが、なぜか温かい少女の手は彼の腕から離れなかった。

 無性に怒りが湧いてきて、彼は叫ぶような声を上げた。

「そんなに知りたいなら教えてやる! 俺は、俺はトランダフィルの王子のウーゴでもなければ、冷酷で冷淡な瞳だと謂われたハイドランジアでもない。本当の名前は、誰も知らない、俺ですら忘れそうになる、稚拙で陳腐で何の意味なんて含まれてない――エルート。惨めな俺にぴったりの名前だ」

「エルート」

 確かめるようにリリィが名前を呼ぶ。

「エルート……エルート。それが、あなたの名前なのですね」

「そうだと言っている」

 嬉しそうな満面な笑みを、リリィは浮かべた。

「エルート、これから改めてよろしくお願いしますね」

「は?」

 思わず間抜けな声が出た。

 彼は――エルートは彼女に掴まれたままの腕から視線を上げ、微笑んで佇むリリィの白い瞳を見つめ返した。

(何を言っているんだ)

 理解ができない。

 けれど同時に、久しぶり他人に呼ばれる本当の名前に、知らずのうちに温かいものが溢れるような、そんな気がした。

 リリィが目を見開き、そしてゆっくりと目を細めて幸せそうに微笑む。

 こんな時にもこの女は、この怖れも穢れも知らない純粋な箱入り娘は、こんなにも嬉しそうな顔をできるんだ。

 そしてどうして自分は泣いているのだろうか。

 自分の秘密を知られたら、誰もが恐れて逃げ出すのだと思っていた。

 それなのに、この少女は。

 あまりにも人を受け入れすぎる。

 エルートは悔しそうに唇を噛み締める。

 ――彼はもう、逃げ出すのをやめることにした。



    ◇◆◇



 いま思い返すと、昨日の夜、自分はなんという醜態を晒していたのだろうか。

 ウーゴ改めエルートは、自室のベッドの脇に置いた椅子の上で頭を抱えていた。

 ベッドの上ではすやすやとリリィが眠っている。

 あの後、久しぶりに流した涙を見られるのが嫌でベッドに腰掛けてそっぽを向いていると、エルートの手を掴んだままのリリィが他人のベッドの上で寝息をたてていた。すやすやと、無防備に白い肌を覗かせて。

 それを自制心から再び視線を逸らし、左の腕を握っているリリィの手を一本一本名残惜しそうに離すと、エルートは椅子に座って朝まで考えごとをしていた。

 リリィは、婚約者の秘密を誰かに話したりするだろうか。

 考えるまでもなく、そんなことないと思う。エルートはいままでと変わらずにウーゴとして、彼女の婚約者として、一か月後には結婚をして――これから一緒に暮らしていくのだろう。

 自分の過去が呆気なく思えるほど、この少女のことは馬鹿らしく思える。

 リリィは純粋すぎる。どうしてここまで人を簡単に受け入れてしまうのか。それはエルートが婚約者だからか。それとも別の意味があるのか。そんな彼女のことを、エルートは放っておけないと思った。まだ今回は陳腐な自分だったからよかったものの――いやよくないかもしれないが――変な男に引っかかって彼女が騙されて傷つき穢れるぐらいなら、自分みたいに無意味ない男が傍にいようと。

 どうせ他に行く宛なんてないのだから。

 クロースの女神フローラは花に、トランダフィルの王子は薔薇になったとお伽噺で語られている。それはこの国では親しまれて、誰もが知っているお伽噺だ。

 ただの夢物語だ。

 夢は夢のままだからこそ夢なので、現実は誰もが幸せになれるように創られていない。

 それでも人は幸せを求めて暮すのだろう。この一瞬だけでも。誰かと幸せになりたいと、足掻いて生きている。

 リリィも、エルートだってそうだ。

 自分はリリィを幸せにできるのだろうか。

 未来のことなんて考えるのは無意味だ。未来は今に、今は過去になっていくのだから。

 だから、いまだけ――

 まつげを震わせて、リリィが目を開く。

 カーテンの隙間から差し込む朝日に目を細めて、リリィは体を起こすと傍にいるエルートに微笑みかけた。

「おはようございます。エルート」

「ああ、おはよう」

 ――いまだけは、この純粋な少女を守り、幸せにしてあげたいと思った。

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