第一章 婚約者の秘密⑥
◇◆◇
深く暗い森の中、月の光すらない夜に。
眠りから覚めると、そこはもう見知らぬところだった。
もともとハイドランジアは両親から好かれていなかった。何かがあったらすぐに暴力を振るわれる。顔はできる限り傷つかないように痣はなかったが、常に体中痣だらけだった。ハイドランジアは望まれて産まれた子供ではなかったのだ。だからいつか捨てられることも覚悟していた。
そんな彼を拾ったのが、暗殺組織のボス。
季節折々、様々な花で色彩豊かなこの国にも、暗闇の組織は存在する。
彼は、そこでハイドランジアという異名を貰って暮らすことになった。
いくら子供だとしても、暗殺組織に入ったからには仕事をしなければならない。なにもしなければ追い出されてしまう。
恨みを剣に、殺意を瞳に宿し、ハイドランジアは淡々と任務を進行していった。
主にほかの仲間の後片付けを中心に。だけど、最後に一回だけ小さな暗殺の仕事を任されたことがある。
それは十三歳の冬。雪の振りしきる、一つの月の頃だった。
仕事は失敗した。
ハイドランジアは標的を殺せなかった。
暫く、ハイドランジアの手は震えて使い物にならなくなった。
彼にはボスから休養が与えられ、そして春にクローリス領を訪れて、春の祭典「フローラリア祭」に偶然参加して――そこで、歌声を聴くことになる。
ハイドランジアの元に便りが届けられたのは、それから一つの月にも満たない頃。
暗殺集団のボスから届いた手紙は、ハイドランジアを必要としないという旨を記されたものだった。
彼は、闇夜を生きる暗殺組織からも用済みの烙印を押されてしまったのだ。
もう必要のない人間。
自分の居場所はどこにもない。
それはつまり、死んでいるも当然だった。
自ら手を染めていなかったとしても、暗殺組織で育ったハイドランジアに行く宛などありはしない。昼の世界は彼には眩しすぎるのだ。
それに暗殺組織を知っている彼は、今後暗殺のターゲットになる可能性が高い。いまこうしている間にも殺されるかもしれないのだ。便りには、簡潔に「お前はもうよう済みだ」という文字しかなかったが、このままではいつか殺されてしまうだろう。寒気と共に、ハイドランジアは便りを握りしめた。
そして剣先のように鋭い視線を背中に感じたと共に、ハイドランジアは走っていた。
そこはちょうどクローリスとトランダフィルの境目だった。
トランダフィルの町に侵入した彼の前に、長い付き合いの仲間が現れる。敵意こそ見せなかったものの、あの眼は、人をたくさん殺してきたあの深い色合いの眼は、微笑んでいるけれど怖い。そう彼は思った。
仲間から逃げ出そうと走り出し、そして、ハイドランジアはトランダフィルの華族の屋敷に侵入した。がむしゃらに走り回って見つけた屋敷に侵入したため、それは偶然だった。
そこでハイドランジアは、ウーゴ・トランダフィルに出会うことになる。
流行り病にかかっていたウーゴは、侵入者の音に気づきうっすらと目を開けた。
その眼が、口が、鼓動が。
ハイドランジアは、ウーゴの容姿に思わず目を奪われた。
ハイドランジアもウーゴも男だ。魅せられたわけではない。
それとは別の意味で、ハイドランジアは言葉を失った。
息苦しそうに呼吸をするウーゴは、あまりにもハイドランジアにそっくりだった。
目鼻立ちは微妙に違うが、髪の色と瞳の色まったく一緒である。年齢が近いところもあり、まるで双子のようでもある。
ウーゴの腕が伸びて、ハイドランジアの服の裾を掴んだ。その手がだらりと垂れて布団に落ちる前、ハイドランジアは彼の微笑みを垣間見た気がした。
ハイドランジアの目の前で――ウーゴ・トランダフィルは、その瞬間に息を引き取った。
朝になるまで、ハイドランジアは突っ立ったままその場から動けなかった。
目の前で自分とよく似た顔の少年が息を引き取ったのだ。それに思わず自分を重ねてしまい、自分の死を目の前で見ていると錯覚してしまった頭のせいで呼吸が乱れる。ハイドランジアは、暗殺者としては未熟以前の問題があったのかもしれない。いまとなっては確認のしようがないが。
カーテンの隙間から朝日が覗く頃、トランダフィル夫妻が部屋の中に入ってきた。息子の寝起きを確認しに来たのだ。夫妻は、ハイドランジアを見つけると唖然と口を開いた。だけど彼らはウーゴの両親だ。自分の息子の顔ぐらい見分けられるのだろう。
ハイドランジアは華族の屋敷の侵入者として、逃げ出す間もなく警備兵に捕まった。
それから三日間、ハイドランジアは地下の牢屋に幽閉されていた。華族の屋敷に侵入した罪は重いが、安穏とした街で事件なんて起こることないだろうと高を括っていた警備兵が怠けていたことも幸いし、あまり公になることなく内々に処理されることになるのだろう。ハイドランジアは、誰にも知られることなく息を引き取るのだ。
それならそれでいい。
ハイドランジアは、彼は――彼の名前と存在を知っている者は誰一人だっていないのだから。
ハイドランジアは死を覚悟して、三日間暗闇の中で過ごしていた。
自殺はできなかった。だから、死刑になるのなら、誰にも知られずに、温もりも知らずに死ぬことができるのなら、これ以上生きる意味を見出せずにいたハイドランジアにとっては本望である。
けれどその願いは虚しくも、叶うことはなかった。
何の偶然か。息子の死に狂った妻に頭を悩ませたトランダフィルの領主が、ハイドランジアにとある話を持ちかけてきたのだ。
『このままでは、気が狂って妻が死んでしまう。頼む。私たちの息子になり替わってくれないか?』
ハイドランジアは迷った。
自分は死ぬつもりだ。
死刑になり、誰にも知られずに息を引き取る望みが、まさかこんな形で無くなるなんて。――いま思えば、華族の家に侵入しただけで死刑になるわけがないのだが、当時のハイドランジアはそう思い込んでいた。
ウーゴの最後の微笑みを思い出す。
彼は、どうして笑ったのだろうか。
領主は、犯罪者である自分に頭を下げていた。
それを茫然と眺めていたハイドランジアは、少しの間の後、頷いていた。
その日、暗殺組織で冷淡な瞳と
トランダフィル夫妻や教育係の指導により、華族としての立ち振る舞いを学び、学校に通い、平和な日々を過ごしてきた。幸いなことに、病気がちだったウーゴはほとんど学校に通っていなかったものだから、彼の顔をまともに覚えている友人はいなかった。というより友人と呼べる存在すらいなかった。それに、ウーゴの母は彼のことをウーゴだと信じて疑わなかったのだ。それこそ何かのマヤカシに惑わされているのではないかと思うほどに、母は
それをたまに後悔する。
両親も、使用人も、教育係や学校の知人だって、いつも見ているのはウーゴ・トランダフィルだ。ハイドランジアの存在は、もう誰も覚えていない。……ハイドランジアですら異名なので、本当の彼を見てくれる者は、誰一人もいやしない。
いままであまりにも安穏だったのだ。
いまも変わらず平和だ。
トランダフィル夫妻に新しい子供が生まれ、血の繋がらないウーゴは隣町のクロ―リスに婿にやってきたとしても、平和なことには変わりはしない。
妻になる少女は純粋すぎるし、彼女の親友は素直すぎる。
だから、そんな安穏な日々に、唐突に
たったそれだけ。
その思いだけで、彼は、
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