第一章 婚約者の秘密⑤

    ◇◇◇



 彼女は夢を見ていた。

 これはよく見る夢だ。

 知らない、どこかにある花園の夢。

 彼女の来訪を喜び、花々の間からフェアリーたちが現れる。

 緑、黄色、赤、青、白、ピンク、燈色。

 色とりどりの妖精フェアリーが、彼女の近くを飛び回ると種を落としていった。その種は、風に揺られていろんな町に運ばれるのだろう。

 心地いい風が、彼女の頬を撫でる。

 ふと顔を上げると、そこに青年がいた。

 長い髪の毛は地面に落ちるほど伸びて、人間のそれとは似ても似つかないどこか神秘的な輝きを放っている。

 細く閉じていた瞼が開き、これまた人間とは異なる輝きの瞳が覗く。


『僕の愛しいリリィ』


 いつもと同じ呼び方。

 だけど、そんな彼に名前はなかった。

 自ら名乗ることはせず、名前を尋ねても微笑むだけで教えてくれない。

 彼は「女神フローラ」以外にその名前を教えようとはしなかった。いや、厳密にいえは、彼の名前は「女神フローラ」以外知り得ないのだという。

 クローリスの町の花守の精霊は、リリィの返事を聞くことなく言葉を続ける。リリィは、夢の中ではいつも無言だった。

 これは夢なのだ。「フローラの花園」はお伽噺にしか存在せず、誰も見たことのない幻の場所。

 夢は夢のままで、現実ではない彼の言葉に耳を貸す必要はない。

 それに精霊は彼女の言葉をいつも待ってはくれなかった。彼は、彼の話したいことを、言葉を選んで話しているだけ。そこに彼女の返答が入り込む余地はなかった。

 精霊は、ただ「女神フローラ」を求めているだけで――。

 そのはずなのに、今日は少しだけ違った。

 彼が、彼女に労わるような言葉を語り始めたのだ。


『愛しいリリィ。君も大変だね』


 何のことを言っているのか考えなくても分かった。

 婚約話のことだろう。

 いつのまにか話が進んでいた婚約話は、リリィの感情が介入する前に決まっていた。

 彼女は、考えるよりも先に全てに肯定してしまうことがある。それは彼女が、周りの人を信じているからこその返答でもあった。

 返事をするまでの一瞬は躊躇するものの、応えはいつも決まっている。

 彼らの言うことに、ただ、彼女は頷くだけだった。

 婚約者となった青年の冷たい蒼い瞳と目があった時、最初は怖い人なのかと思った。だけど、彼女を気遣うような言葉を選びながら話していることに後から気づき、彼は不器用な人なのだと気づいた。

 そこが少し可愛く思えて、すべてを隠している深い海の底のような蒼い瞳に惹かれていた。その瞳を見ているだけで、彼のすべてを知ったような気分にさせてくれて、少し有頂天にもなっていたのだろう。自分だけが知っている秘密というのは魅力的だ。

 だけどそれは間違いだった。

 カエルレアと話していたウーゴをガーデンテラスの入り口から盗み見たときのこと。

 彼は、とても楽しそうに笑っていたのだ。決してリリィに見せることのない、どこか子供っぽさを思わせる、悪戯心の溢れた笑み。

 その表情が素なのだと気づいてしまった。それが自分じゃなくてカエルレアに向けられているのに、ちょっと胸が痛んだ。その痛みに気づかないふりをして、ウーゴの爽やかな笑みに笑い返そうとしたけれどうまくいかなかった。

 あの爽やかな笑みは飾りだったのだと。でもそれは逆に自分にだけ見せてくれる笑みなのかもしれないと思いこもうとしたが、どうしてもうまくいかない。

 リリィは人を疑うのが苦手だった。

 リリィの表情が曇ったのに、精霊の彼がいち早く気づく。

 どこか悩むように顎に手を当てると、すぐに顎から手を離して、腕を広げる。


『愛しいリリィ。君はもう気づいているんじゃないのかい。彼が、本当の彼を見せてくれないということに。――真実を暴くことは、必ずしもいい結果をもたらすものじゃない。けれど……そうだね、たとえば探偵とか。探偵は真実を明るみにする。たとえそこに正義を掲げていたとしても、「視える」彼らは、視たくないモノまで視えてしまう。それこそ人の深淵だ。深淵には、何が眠っているかわからない。その人の印象を、全て塗りつぶして変えてしまうものかもしれない。けれど、君はそれに目を凝らすべきだ。「視える」モノを「視えないまま」にするのではなく、少し目を凝らしてみる。君は彼の、彼は君の何なんだい?』


 精霊のどこか劇的にも思える長い台詞を、理解しようと頭の中で何回も反芻してみる。

 リリィは、そこでふと思い出した。


 ――どうして、ウーゴは最初に会ったとき、とても苦しそうな顔をしていたのでしょう。


 ほんの一瞬のことだったので、特に気にしていなかった。

 でも記憶を巡らすにつれて思い出す。

 婚約話はトランダフィルの方から持ち上がった話らしい。ウーゴがリリィに一目惚れしたからだと彼の口から聞いていたが、それは果たして本当なのだろうか。

 もしそれが本当だとしたら、あの時の苦しそうな表情の意味が分からない。

 彼は、本当にリリィとの婚約を望んでいて、喜んでいるのだろうか。

 リリィは、彼と結婚することを喜んでいるのだろうか。

 無性に知りたくなってくる。自分が知らない彼のことを。

 知りたいと、思えてくる。

 それなら試してみることにしよう。

 子供っぽい心を覗かせた笑みのリリィを眺めて、精霊はゆっくりと頷いた。

 フェアリーが離れて行く。

 花が、消えて行く。

 瞼が開く。

 その寸前、精霊の呟きがかすかに聴こえた気がした。


『愛しいリリィ。君も、僕のもとに戻ってきてはくれないんだね。――早く会いたいよ、僕のフローラ』


 瞼の裏の花園は消えて、現実に戻ってくる。

 目を覚ましたリリィは、まだ真夜中なのにもかかわらず、部屋から抜け出した。



    ◆◆◆



 扉のノックの音で、ウーゴは目を覚ます。

 五年前のあの日から、ウーゴは安全な空間で眠ることができている。そこに侵入してくる敵などいるわけがなく、普通なら安心して眠れるはずの部屋で、だけどウーゴの眠りはいつも浅かった。小さなノックの音で目を覚ますほどには。

 五年前までの日々が、ウーゴに疑心を抱かせている。

(誰だ)

 ここはあそこではない。

 危険などありはしない。

 そう言い聞かせ、ウーゴは緊張を和らげるとベッドから足を出して立ち上がる。

 音を立てないで扉まで近づき、返事をすることなく扉に手をかけるとゆっくり開いた。

 警戒心は解かなかった。

 そこにいた人物に思わず言葉を失う。

「リリィ」

「……」

 ウーゴより身長の低いリリィは、必然と彼を見上げる形となる。

 上目遣いの白い瞳を見つめながら、ウーゴは口を開こうとしないリリィに尋ねた。

「どうした。こんな夜中に」

 爽やかな笑みで。

 リリィは、躊躇いがちに口を開く。

「ウーゴ。あの、お話しをしたいことがあるのですが」

 こんな夜中に?

 ウーゴは迷ったが、彼女が彼に害を与えることはないはずなので、部屋の中に招き入れた。

 ベッドに隣同士で腰掛ける。

 何となくリリィを見て、ウーゴは目のやり場に困った。

 彼女は寝間着を着ている。それも瞳や髪と同じ白いネグリジェだ。適度にフリルをあしらわれたネグリジェは、膝下までのワンピースタイプでほっそりと彼女の体躯にフィットしていた。そしてその胸元は、無防備にもボタンがひとつ外れて白い肌が覗いている。首元から下。思わず純粋な白に視線が吸い寄せられそうになり、ウーゴは自制心を保ちながら目を逸らす。

 白い瞳と目が合った。

 リリィは、じっとウーゴの瞳を見つめている。

 どこか悲しそうな顔だった。

「どうした?」

 トランダフィルの王子をイメージして、爽やかに問いかける。

 薄い桜色の唇を開き、リリィはいまにも消え入りそうな声をだした。。

「……あなたの、本当の姿が見たいです」

「……え?」

 笑みを消す。表情の消えたウーゴを怖がることなく、リリィはまた囁いた。

「……どうして、レアに見せる顔を妻になる私に見せてくださらないのですか?」

「……え?」

 間抜けにももう一度、惚けた声が出る。

(ああ、あの時か)

 カエルレアの素直さに思わず警戒心が緩和されていたため気づかなかったが、あの時もしかしたらもう少し早くにリリィが戻ってきていたのかもしれない。爽やかな笑みを消して素の笑みでカエルレアをからかっていたのを、それから冷酷な昔の瞳をしたのを、見られた可能性もある。

 前者はまだいいとしても、後者を知られていたら厄介だ。あの瞳は、五年前に捨てたはずのものだから。

 いまの自分は、ウーゴ・トランダフィルなのだから。

 感情を消さないように心がけ、悪戯っぽく彼女に問いかける。

「カエルレアに見せていた顔とは、どういうものかな。俺は、リリィの頼みならできる限り聞くつもりだよ」

「……そ、その爽やかな笑みじゃないものです。王子さまとは違うもの」

(笑みじゃないって、もしかしてあれか)

 カエルレアの素直な笑みに触れて、素の笑顔を見せた方だ。

 あれは意識して浮かべられる笑みじゃない。

 迷い口ごもるウーゴをどう思ったのか、彼女は静かに、どこかおぼろげに話し始めた。

「ずっと気になっていました。最初に目を覚ましてウーゴを見たとき、あなたがとても苦しそうな顔をしていたことを。どうしてあんな顔をしていたのか、考えていたらいつの間にか婚約話になっていて、私はわけもわからず頷きました。でも私は後悔していません。あなたのちょっとした不器用さとか、優しいところとか、特にその蒼い瞳に惹かれていきました。この人となら、幸せになれると思いました。あなたを独り占めにしたいと、傲慢なことも考えました。けれど、私に見せてくれていた表情が、レアに対する表情と全く違っていて。あのとき正直別人かと思いました。どっちが本当の表情かおなのかわからなくなりました。ウーゴが私に嘘をついていたのだとしても、それが幸せになるためならいいのです。けれど、少しレアを羨ましく思いました。あの表情かおは私に対しては向けてくれないもので、そして少し可愛く思ったからです。……でも、親友を羨むことなんてしたくなくて、とても悲しく思いました」

「……」

「悲しくって泣きそうで、レアが帰るときに挨拶すらできなかった。婚約者である私に全てを見せて欲しいとは言いません。けれど、私以外の人にウーゴの別の顔を見せるのは、ちょっと悲しかったです。羨ましいです。私はウーゴのことをまだよく知りません。だからこそ、知りたいと思います。あなたのこと、全て……って、これこそ傲慢ですよね。すみません。私はもしかしたら少しわがままなのかもしれません」

「……」

「ウーゴ。話せる範囲でも構いません。私はどんなウーゴでも受け入れます。よろしければ、私にもあの表情かおを――見せていただけませんか?」

「……」

 すぅ、と感情が消えて行くのが自分でもわかった。

 彼女は傲慢だと言うが、それは誰もがどこかに持つ感情だろう。だからこそ、人を信じられないウーゴにとっては少し憎い綺麗ごと。

 すべての人が自分の秘密を何でもかんでも話してしまえば、世界は成り立たなくなる。

 綺麗ごとで語れるほど、世の中は綺麗じゃないのだから。

 汚れを知らずに生きている者。汚れながら生きている者。嘘をつかずに生きている者。嘘をつくのが当たり前として生きている者。血を流さずに生きている者。常に血を流し続けて生きている者。

 前者はリリィで、後者は五年前のウーゴのことである。

 ウーゴは汚れた場所で嘘をつきながら泥のように血に塗れて生きてきた。

 ウーゴの手は、一度人をことさえある。

 そんな汚い手で、こんな汚れも嘘も血も知らない彼女の手を取ることはできない。あのとき、手を振れてきたリリィの手を握り返せなかったように。

 けれど、感情が消えて行くと共に、リリィに対して少し怒りが湧いてきた。

 冷淡で残酷に綺麗だと言われたい瞳に力を込める。

 ビクッと怯えて体を逸らすリリィの白く純粋な瞳を睨みつけ、口元を歪めて尋ねる。

「もし、俺がだと言ったら、お前はそれを信じるのか?」

 信じて、愛してくれるのか?

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