第一章 婚約者の秘密③
五年前、隣町のトランダフィルの王子が病に侵されていたというのは有名な話である。
トランダフィル夫妻は、三十二歳になるまで子宝に恵まれず、後継ぎを残すのがほぼ不可能だと言われていた。そんな最中、二人の間に最愛の息子――ウーゴが誕生した。
けれどウーゴは体が弱く、満足に外で遊べるような体ではなかった。
ウーゴが十三歳になったとき、彼は流行り病にかかってしまった。
余命幾ばくかと言われており、トランダフィル夫妻が悲しみのあまり仕事も手につかない日々が続いていた。
そんなある日。
病から生還したウーゴは、それまでとは打って変わって、とても元気の良い少年になっていた。
まるで人が変わったかのように、ウーゴはそれから病に侵されることなくすくすくと育った。
そして、十八歳の現在。
トランダフィル夫妻に、二人目の男の子が生まれた。
それにより、血の繋がりのないウーゴは、隣町のクローリスに花婿にやってくることとなった。
「さぞかし辛かったのでしょうね」
「汗が止まらず、その上呼吸もままならず、息ができなくなって、ああ、俺はもうすぐ死ぬんだと、思ったよ」
「それでもあなたは生きていた」
「そう。だから俺は、君の傍にいられる」
爽やかに微笑むと、リリィも嬉しそうに頬をほんのり赤くする。
ウーゴが十三歳の時に病に侵されたという話は、隣町のクローリスまでも広がっているらしい。この話をいつか振られるだろうと覚悟していたウーゴは、考えていた通りの言葉で自然に受け答えをする。
婚約から三日目の昼。
二人は、中庭のガーデンテラスで午後のお茶を嗜んでいる
テーブルの傍には、小さな池があり、昼咲の睡蓮が黄色や白い花を咲かせていた。
二人は向かい合い、コップに淹れた紅茶を飲みながら、他愛無い会話に花を咲かせている。
八つの月にだというのに、この街は湿気が少なく、汗もにじむ程度のカラッとした天気が続いている。こうして昼間に外で優雅なティータイムを満喫できるほど、トランダフィルほど夏の暑さは感じられない。
ウーゴは傍らの小さな池に咲いている、睡蓮に目を向ける。
昼咲きの睡蓮の花は、リリィの髪の毛に似て白く、透き通った純粋さを思わせる。
(花言葉は、確か信頼だとか清らかな心だとか、他にもいろいろあったな)
口では人を
若干退屈気味に、花を眺めながら適当なことを考える。
(どちらにしても、睡蓮は俺には合わない。リリィになら合うかもしれないけど)
睡蓮の花から視線逸らし上げると、リリィの純白の瞳と目が合った。
大きくぱっちりとした真ん丸の瞳は、穢れを知らないように輝いている。そのくせどこか人の心を見透かすような怖れをウーゴは感じる。
「どうかなさいましたか?」
「いや、リリィの瞳は、いつ見ても綺麗だと思ってね」
「あなたのほうこそ。その蒼い瞳は、優しくて私を幸せな気持ちにしてくれます」
「優しい?」
予想だにしていなかった言葉に、ウーゴは笑顔を消して真顔になる。
ウーゴの蒼い瞳は、昔から冷ややかで冷酷だと言われてきた。ウーゴ自身も、無慈悲で救いようのない瞳だと思っていた。
その瞳に対して、まさかこんなにも純粋な笑みで、「優しい」と言われるとは思ってもおらず、暫くウーゴは茫然とした。
この瞳は、いままで散々畏れられてきたはずなのに。
「どうかなさいましたか?」
「いや、何でもない。あまりにも嬉しい言葉に、思わず言葉を失ってしまっただけだよ」
これは、嘘ではない。
「ふふ、やはりトランダフィルの王子さまは、口が達者ですね」
「リリィ。そろそろ俺を、トランダフィルの王子と呼ぶのはやめてくれないか? 俺は、ただのウーゴなんだから」
「これは失礼しました。ウーゴ。優しいあなたも大好きです」
「……俺もだよ」
自然に答えるが、内心歯切れの悪い思いだった。
リリィのこの純粋なまでの素直さから発せられる言葉は、ときたま嘘つきなウーゴの心を抉ってくることがある。
大好きだなんて、本当に思っているのだろうかと、疑う気持ちが湧いてくる。
彼女の場合は本心なのだろうけれど。ウーゴは疑り深い性分なのだ。
少なくともウーゴはリリィに対して、好きだという気持ちを持ってはいない。
紅茶を一口含み、机の上にカップを置いたリリィが、思い出したかのように掌を打ち鳴らした。
「そうでした。ウーゴ、これから私の大切な友人が遊びにくるのですが」
「ん? それだったら俺は邪魔だろうな。部屋に戻るぞ」
「いいえ、そんなのとんでもありません。あなたを、その友人に紹介したいのです」
ウーゴは少し悩んだ振りをしながら、答える。
「そうか。だったら、俺もご一緒しようかな」
「ありがとうございます! きっと、レアも喜びます!」
「レア?」
「カエルレアは、とても健気で優しい子です」
「それは楽しみだな」
「きっと、ウーゴとも仲良くなれます」
大切な友人を思う幸せそうな笑みを見ていると、やはりウーゴは少し虚しい気持ちになる。
ウーゴにとって友人と呼べる者は、一人もいなかった。
「り、リリィ、こ、こここここの男は一体誰なの!」
ウーゴに対する、カエルレア・ニンファエアの第一声がそれだった。
リリィとは大違いな、高い叫び声に思わず耳を指でふさぐ。
友人の金切り声に、くすっ、と笑いながらリリィはウーゴを紹介した。
「こちらは、私の婚約者のウーゴ・トランダフィル王子です」
だから王子はやめろ、という言葉を口に出す前に、またもカエルレアのうるさい叫び声が耳につく。
「こ、婚約者! この死んだ魚ような目をした男が、リリィの婚約者なんて冗談じゃないわ!」
「まあ、レア。死んだ目だなんて。とても素敵な蒼い瞳をしているのに」
「いい、リリィ。あたしは認めないわよ! お、トランダフィルの王子様だとかなんか知らないんだから! こういう死んだ目をした男はね、いきなり何をやらかすかわからないものなの! リリィの人を信じやすいところ、あたしは好きで守ってあげたいとか思ってるけどね、この男は本当にダメよ! 信用ならないわ! あたしの大好きな親友に、相応しくないわ!」
「で、でもね、レア。ウーゴは、とても優しいから」
「こんな死んだ目をした男が優しいだなんて信じらんない! リリィ、あなたは騙されているのよ! 目を覚ましなさい!」
「だから、レア。お願い。ウーゴのこと、あまり悪く言わないで!」
顔を真っ赤にしながら高い声で捲し立てていたカエルレアは、リリィの小さく悲痛な声に我に返った。さっと顔を青くして、「ごめんなさい」とシュンと頭を下げる。
カエルレアの金糸のように透き通る金髪を眺めながら、ウーゴは無意識に真顔になった。
(ほぼ正解だな)
ウーゴは、リリィを騙している。トランダフィルの王子として、爽やかな好青年になった気分で、リリィをたぶらかしてきた。
それをまさか、一度目を合わせただけの少女に見抜かれるなんて。この、カエルレア・ニンファエアという少女は、きっとリリィのことが本当に大切なのだろう。リリィの信じやすい性格を把握して、尚且つ害のある男を排除しようとする番犬の役割を担っているのかもしれない。
リリィが、これまで誰からも騙されずに過ごしてきたのは、この親友の少女の存在が大きいのだろう。
なんて、ウーゴは思わず感心しながら考えていた。
さっきまでの甘い雰囲気はぶち壊しだけれど。ちょうどいい塩梅である。
「ちょっと、さっきからその死んだ目であたしを見るのやめてくる? 気色悪いんだけど」
修正。初対面の男にこうも敵意を剥きだしにできるとは、信じがたい。しかも親友の婚約者に対して。
少し迷った結果、ウーゴは自然に見えるような爽やかな笑みで、カエルレアに微笑みかけた。
「ウーゴ・トランダフィルだ。王子と呼ばれるのはあまり好きではないんだ。だから、気軽にウーゴを呼んでくれよ。えっと、カエルレア?」
「王子と呼ばれるのが嫌なら、王子と呼んであげるわ」
うん。やっぱりこの女は好きになれない。
ウーゴは嘆息しそうになる口を噤み、微笑みを消すことなくカエルレアの赤い瞳を眺めつづけた。
すると、カエルレアの頬がほんのりと赤くなった気がしたのだが、それはきっと怒りからくるものだろう。現に、いまにも鼻を鳴らして、突進してくる猪のような気配があるのだから。カエルレアの右手がきつく握りしめられたのを、ウーゴは見逃さなかった。
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